表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歳月の神様、運命の恋人

作者: たかむし

 たぶん、夢を見ていた。よく理解できないけれど、現実感が中途半端に漂うリアルな夢。

実際、夢なのか、単なる妄想なのか、その境目の部分は、変にぼやけていて、僕には、確信が持てなかった。

 僕は、何にもない、本当に何にもない、ただただ白いだけの「場所」にいた。僕は、その白さに相反するように、真っ黒でやけに身体に張りつくような服を着ていた。そして、何故か、頭は濡れ、金髪だった。

 僕はとても気分が悪かった。その「場所」の白さに対して、僕は少し、恐怖を抱いていたのかもしれない。

 得体の知れない恐怖。僕は、少しばかり走ってみた。走ってみると、身体がやけに軽く、気持ち悪かったので、それもすぐにやめた。次に歩いてみた。歩いているうちに、また、身体が軽くなりつつあった。

 僕は「ここ」で、何をしている?

「ああ、君、君。私はここだよ。」

 背後から、緩やかなリズムの声がした。振向くと、そこには、歳月の神様がいた。

…?何で、僕は、彼もしくは彼女を歳月の神様だと、思ったのだろう?

「探していましたよ、あなたを。」

 僕は言う。探していた?僕が?

 …これは、僕であって、僕ではない?まあ、金髪だしな、違うよな。やはり夢だな、これは。

「私はいつも、そこにいるんだよ。」

 歳月の神様は言う。とてもゆっくり綺麗な声で。でも、姿は見えない。僕には、見えない。

 すると、金髪の僕は、少し俯き加減になって、笑うと、そうだね、と呟いた。

「君に関して、面白い情報が手に入りましたよ。お待ちかねの新着情報です。」

 金髪の僕は、ワクワクした。僕も少し、ワクワクした。

「運命の恋人に、もうすぐ出会えますよ。確実にその日は近づいてきています。」

 それを聞いて、金髪の僕も、夢を見ている僕も、ガッカリした。そんな様子を見て(たぶん、見ているだろう)、歳月の神様は言った。

「何をガッカリしているのですか?すごいことなのですよ。運命の恋人に会えないで一生を終えてしまうような人はたくさんいます。だから、あなたは幸運なのですよ。かなり、幸運な方なのですよ。」

「でも、僕には、すでに恋人がいます。その人が運命の恋人なのでしょうか?それとも、また別の人なんですか?それは、また、それで、今の恋人が意味ないみたいじゃないですか。もし、別れてしまって、ショックでさまよってる間に、運命の恋人やらが近づいて来るんですか?それもまた、なんだか、悲しいですよ。見失うかもしれないし。どうなんですか?」

 金髪の僕は、少々興奮気味に話した。僕は、今の恋人と別れたとしても、、それほどのショックは受けないだろうと、冷静に思ったりもした。でも、運命の恋人なんて、実に馬鹿げている。本当に、ヒドイ夢を見ているものだ。そして、そんな夢を見る自分に少し、悲しくなった。

「分かりません。それもまた、運命なのですから。運命の恋人を逃す運命もまたあるかもしれません。」

 神様は笑い声に似た声で話す。とても楽しそうに話す。

「適当な予言はやめて下さい。神様なのに…」

「適当ではありませんよ。本当に、本当に、運命の恋人は現れるのです。」


…ホントウニ、ホントウニ、ウンメイノコイビトハアラワレルノデス。


 目覚めは最悪だ。どう言うことだ。僕は、身体を起こして、頭を掻いた。そして、鏡を見て自分が金髪でないことにほっとした。なんてくだらない夢だ。しかも、そんな夢に限って鮮明に覚えている自分が嫌だった。欲求不満なのだろうか…いや、そんなことはないはずだ。恋人に関して言えば。

 僕は、視線を枕もとに移した。すると、そこに、細い字で書かれたメモがあった。

「仕事があるから、帰ります。また電話します。ミワコ」

 ああ、そうだ。昨日、彼女はここに泊まっていたんだ。なんてことだ、隣りに女を寝かせておきながら、あの夢とは、実に不毛だ。僕はさらに気分が悪くなった。そして、もう一度、寝ることにした。違ういい夢が見えるようにと少し、お祈りしながら。


 ミワコとの出会い。なんのことはない、社内恋愛だ。とは言っても、関係が深まったのは、僕がその会社を辞めたあとだった。こう言う場合は社内恋愛とは言わないのだろうか。僕が以前勤めていた会社にミワコは今も勤めているが、何故、僕がそこを辞めたか、いや、辞めさせられたのか。理由は簡単だ。上司(と言っても、あまり年は変わらないし、その会社のトップは奴の父親だった)に気に入られなかったし、僕自身も奴が大嫌いだった。

 僕が入社した時から、奴は、ミワコにちょっかいを出していた。僕は、はじめ、あまり気にならなかった。はー、あるんだなー、そういうのが実際に、と思っていたくらいだった。それに、社員の皆はたぶん、知っていただろうけれど、口には出していなかったように思う。首を切られるのが嫌だったのか、面倒なことに巻き込まれるのが嫌だったのか。他人と言えば、他人だし、気にしないで済むと言えば、気にしないで済む。実際、僕がそうだったように。

 しかし、月日が経ち、ミワコといろいろ話をするようになった。そして、ついに、きたと言う話題が出た日、僕の中で変な正義感が沸き起こってしまった。実際、上司からのミワコに対するセクハラ行為の実態を聞いていると、だんだん腹が立ってきた。そして、ミワコ自身にも腹が立った。どうして、その状況を我慢するのか…と。

 そんなある日、僕の中の何かが爆発した。そして、気が付いたら、首になっていた。情けないと言うか、世の中なんなんだ、と言うか。まあ、僕の仕事なんて、雑用係のようなもので、首をいつ切られてもおかしくない担当だったし、自分が何故、それなりのこの大手企業に採用されたのかも謎ではあった。また、世の中の不況を仰いでの、社員削減という噂もあった。とにかく、首を切られた直接の理由は、はっきりはしなかった。しかし、この職を失ったとしても、思ったほど、落ちこみはしなかった。返って、清々する。大嫌いな奴に頭を下げなくてもいいし、厭味を聞く必要もない。

 僕の中の色が鮮やかに輝いた。とても綺麗に輝いた。キラキラ音がするくらい馬鹿らしい。

 しかし、ミワコは、そんな僕に同情をしたのか、はたまた、自分を少しでも助けてくれたヒーローかなんかと勘違いしたのか。僕らの関係は、急展開で、深くなって、ミワコは元同僚から、特別な存在になっていた。すべてをゼロにすることはできなかったけれど、悪くなることはなかった。

 しかし、今から思えば、その頃から、僕の思考回路が少しずつ、分解し始めていたのかもしれない。


 次に、目覚めた時、午後二時を回っていた。そして、起きたと同時に腹がなった。笑える話だ。何のやる気もないこの僕にも、生きて行く力だけはあるようだ。

 金銭面に関して、僕はこれと言う凝るべき趣味もなく、そんなに浪費するタイプでもなかったので、そこそこの貯金はあった。ただ、このまま、仕事もせずに、本当に何もしないでいれば、そのうち、底は尽きるだろう。アルバイトでもするかな、と言う気はそれなりにあったし、再就職なんて、こともときどきは考えたりした。

 親は、今も、僕が前の会社に勤めていると思っている。辞めたことを隠すつもりはなかったのだけれど、今、現在の自分の立場を考えると、言いづらくはあった。あの会社の内定が決まった時、両親はとても喜んでいた。だから、いい息子としては、また、再就職できた時に、告白しようと思っている。何か月後になるか分からない。ただ今は、無意味に過ぎていく時間に反抗する力すらなかった。

 

 僕は部屋を出た。外はもう寒い。冬が近づいてくる。冬になると、電気代がかかってしまうな。と思ったあと、その生活感のある考えに少し、笑った。冬は嫌いじゃないのだけれど。


 近所のコンビニに行く途中に出来事は起こった。背後から、声がした。透明な声。

 僕は一瞬ゾッとした。歳月の神様の声に似ている気がしたからだ。僕は振向くことに、一瞬、臆病になってしまった。

「ねえ、ちょっと、ちょっと、あなたよ、あなた。ねえ!」

 僕は、恐る恐る振向いた。

 そこには、見ず知らずの女が立っていた。

 背はそんなに高くなく、丸い顔、それに似合わないほどの細い身体。濃く黒い大きな目、長くストレートな髪が肩にかかっている。髪とは対照的な白い肌。変に赤い唇。緑色のフードパーカー、インディゴジーンズ。ベージュのリュックを背負う。

 僕は何故か、マジマジと観察していた。あまり他人には興味を持たない僕が、だ。もしかすると、知り合いなのかもしれない、とどう言うわけか、そう思ったりもした。 

 でも、観察すればするほど、知らない女だった。

「何ですか?」

 少し無愛想に答えてしまったが、彼女は唐突にこう言った。

「お願いがあるんだけどさ。お金、貸してくれないかな?ちゃんと返すから。」

 ニコニコとあまりにも、自然に言うものだから、はい、分かりました、と思わず言いそうになった。

「は?」

「だから、お金、貸して。」

「え?」

「お金よ、お金。貸して。」

 僕は、また、コンビニ行く方向に振返り、歩き出そうとした。なんだ、この女。

「ちょっと、ねえ、ちょっとってば。」

 歩き出した僕の腕を彼女は強引に掴んだ。

「君さ、自分の言ってること、分かってる?見ず知らずの人に、お金なんか貸せるわけないだろう。警察にでも行って、借りてこいよ。」

 僕は、少し、大きな声を出してしまった。あまりにも理不尽な彼女の行動がやっと、理解できたみたいに話すうちに、ボリュームが上がった。

「いやよ、警察だなんて。絶対いや。お願いよ、絶対返すから。ね。携帯の番号とか教えてよ。そしたら、ほら、返す時、連絡とれるでしょう?」

 何を言ってるんだろう、この女。たとえ、今、僕が猛ダッシュで、逃げたとしても、この女は何処までもついてきそうな予感がした。それもまた嫌だったし、怖かった。関わりたくないな、もう、面倒な女には。

 そう思うと、さっさと貸してしまって、逃げてしまおうと思った。

「幾ら?」

 彼女は笑った。一万円と言った。僕は財布を取り出して、中身を見たら、一万円しか入ってなかったので、ガクリときた。

「一万円も貸したら、僕は生きていけない。」

彼女はまた笑った。

「結構、必死で生きてる人?」

「まあ、そんなところ。」

「でも、一万円貸して欲しいの。ダメ?」

 僕はため息をついた。今日の夢の呪いだ、と思った。あんなくだらない夢なんか見てるから、現実にまで変な力が働いて、こんな思いもよらないことが起こるんだ。

「いいよ、どうぞ。僕が死んだら、君のせいだ。」

「いいわ。私のせいにしても。でも、あなたを殺したりしないわ。私。絶対。」

 僕は、一万円を彼女に渡した。そして、今度は、家に帰ろうと、歩き出した。すると、彼女はついて来た。

「なんだよ、もう、貸したじゃないか。」

「番号教えてもらってないわ。返せない。」

「いいよ、返してくれなくても。もう、僕は君に関わりたくない。」

 僕は、彼女にそう言って走り出した。すると、彼女はさらに早く走って、僕の行く手を塞ぐではないか。まいった、本当にまいった。悪夢だ、悪夢が続いている。

「いやよ、番号教えて。絶対返すの、あなたが死んでしまったら、困る。歳月の神様に約束をしたのよ。私の修行中に、何があっても人を傷つけてはいけないって。」

 僕はどきりとした。歳月の神様と言う言葉が彼女の口から出てきた時、本当に、体が硬直するほど、どきりとした。

 歳月の神様。そんなもの、簡単に口に出せるような言葉ではない。神様、神、普通に出てくる言葉じゃない(だいたい神なんてものもさえ、普通じゃないけれど)。しかし、彼女は確かに歳月の神様、と言ったのだ。耳鳴りがする。

 僕の顔はたぶん、無表情に近いほど、生きている色がなかったと思う。

「どうしたの?」

 思わず、失神して倒れてやろうかと思った。なんだ、この女。

ホントウニ、ホントウニ、ウンメイノコイビトハアラワレルノデス。


 冗談じゃない、こんな変な女が?まさか、あの夢はホンモノ?冗談じゃない。これはまだ夢の続き?僕の妄想?

「人に迷惑をかけることは約束してないのか?僕が番号を教えて、君が金を返すための電話をかけてくれるという保証はあるのか。別に僕の番号を教えて、どうこうなるって訳ではないだろうけど、だったら、君のを教えてくれよ。僕が君に連絡するよ。金返せって。それでいいだろう?」

もちろん、かけるつもりなどない。とにかく、この女から逃げたい。ただそれだけだった。

「迷惑をかけてる事は謝るわ。でも、私は絶対、あなたに返すの。必ずよ。本当に。だから、教えてよ。私、携帯なんか持ってないし、家に電話をされても困るのよ。」

 今どき、携帯を持ってないのか。珍しい。しかも、家出かよ。なんだか、嫌な予感がした。

「どうしたら、信じてもらえるの?」

「君は、よく『絶対』って使うけど、どうして、そこまでの自信があるんだ。」

 僕は先ほどから、耳に障っていた、その『絶対』のことを聞いてみた。

「神様が私の味方だからよ。」

 僕は彼女を問い詰めているのが馬鹿みたいに思えた。もう、彼女の言う通りに事を済ましたほうが疲れなくて済みそうだ。神様と言う言葉も聞きたくない。これ以上の混乱はご免だ。夢に食われてしまいそうだ。どうかしてる。

「どうしたら、いいの?」

「分かったよ、何か、書くもの持ってる?」

 彼女の表情が明るくなった。彼女はリュックをおろし、その中から、ピンク色の水性ペンと、メモ帳を取り出した。僕は、それに、携帯の番号を書くと、彼女はありがとう、と言って笑った。

「必ず、返すから。絶対。また、会いましょうね。あっ、そうだ、私は琴羽。コトハ。もう、知らない人じゃないわ。」

 僕は、小走りで去る彼女の弱弱しい後姿を見ていた。一度、こっちを振返り、笑顔で手を振った。その姿を僕はずっと見ていた。そのうち、僕の視界から消えてしまっても、そこにその存在があるかのように、ずっと見ていた。

 呪いの夢は続いているかのように。


 その日の夜遅く、僕の携帯が鳴った。僕は、取らないでおこうかと思った。そう、何故か、琴羽からだ、と思ったのだ。夢と現実が交差している変な感覚は部屋に戻ってからも依然続いていたからかもしれない。

 電話は鳴り止まなかった。ずっと鳴っていた。僕は、携帯を手に取り、画面を見た。そこには、ミワコ、と言う文字が並んで点滅していた。ああ、ミワコか。僕は電話に出た。

「やっと、出た。」

 ミワコは言った。

「ごめん、バイブにしてあったから、気が付かなかった。」

 僕は嘘をついた。バイブになんてなってないし、ちゃんと気が付いていた。でも、琴羽のことなど、言えるわけもなく、言ったところで、この何とも言えない気持ちに整理がつくわけではない。

「そう。今朝はごめんなさいね。本当は、起こそうと思ったんだけど、ぐっすり寝ていたから悪いと思って。それに昨日、夜遅く押しかけちゃったし。ごめんね。」

 ぐっすり寝ていたのか…それはよかった、と思った。もしも、あの夢を見ている最中に現実の僕が、ぼそぼそと何か呟いていたなら、事態はさらに最悪になっていたかもしれない。

「ああ、別に気にしてないよ。わざわざありがとう。」

「ううん、本当にゴメンね。ねえ、あのね…」

 急にミワコの声が小さくなった。電波が悪いのかと思った。しかし、ただ単にミワコの声が小さくなっただけだった。 

「何?」

「あのね、すごく失礼なことだし、私から言うのもなんだけど…」

 僕は微妙にイライラした。なんとなく、彼女の言いたいことが分かった気がした。

「…一緒に住まない?その、最近、毎日のように、私、在のところ、行ってるから…。あ、ごめんなさい。私の愚痴に毎晩付き合うのいやよね…。」

 最近、やけに僕のところに泊まりに来ては、夕食を作ったり、部屋の掃除をしたり、まるで、通い妻のようだった。僕はその行動については嫌ではなかったけれど、こう、言葉に出して、一緒に住もうと言われると少しだけ引いてしまった。ミワコにはそう言うつもりは全くないのだろうけれど、素直に受け取ることができない自分がいる。確かに、それもいいけれど、今の僕の状態でそうなるのは、ちょっと、気分が悪い。

 しばらくの沈黙は、ミワコをとても傷つけた。でも、僕だって、少し、傷ついた。

「ゴメン。ゴメンね。ちょっと、仕事でまたうまくいってないから在に我侭言っちゃった。側にいて欲しいのね。ダメね。ほんと、成長しない。」

「いや、いいんだ。でも、しばらく、考えさせて。ハイハイ、一緒に住もうだなんて、簡単に答え出したら、僕は本当に情けない男だし、まだ、なんか、いろいろ自信はない。それに、そう言うセリフは年下だとしても、僕は男だし、僕が言いたい…なんて、照れくさいけど。まあ、仕事の愚痴は今に始まったことじゃないし、いつでも聞いてやるから。」

 ミワコは電話口でフフフ、と笑った。

「ミワコの何て言うの、へんにお姉さんぶってるところも好きだけどね。ふたつしか違わないけれどね。」

 僕は、真剣に仕事を探そうかと思った。現実味の濃さに、僕は琴羽のことを忘れていた。他愛もない話を何分かして、僕は電話を切った。  


 次の日、僕はいやに朝早くに目が覚めた。どう言うことだろう。この怠け切った生活が始まって以来、初めてのことだった。目覚ましなしで意味もなく早起きをしたのは…。

 体を起こしたと同時に、携帯が鳴った。ビックリした。僕はこの電話を予感して目が覚めたのではないかと思った。そして、携帯の画面を見た時、さらにビックリし、ゾッとした。画面には公衆電話からかけているのか、何の表示もなかった。僕は、直感的に、あの女だと思った。出るか、出まいか、迷った。昨日の夜、ミワコの電話で、現実に引き戻される内容の会話で、頭がシャンとしたところなのに。やはり、まだ、夢は続いているのだろうか?

 僕は、少し考えた後、電話に出た。

「おはよう。早起きだね。まだ、五時半だよ。」

 電話をかけてきておいて、なんて言いぐさだ、と思った。でも、しっかり目覚めていたので、文句は言えなかった。これで、寝ている最中にかかってきていたら、たぶん、その言葉を聞いただけで、電源から切っていただろう。

「たまには、こう言う日もあるんだよ。」

 僕は言った。

「ねえ、ねえ、朝ご飯食べようよ。」

相変わらず、唐突な言葉を投げる。

「いやだ。僕はもう一度、寝る。」

 僕は、負けずに答える。

「じゃあ、もう一度寝て、起きたら、朝ご飯食べようよ。」

 琴羽はとても元気だった。朝も早くからとても元気だった。もしかすると、一睡もしていないせいで、テンションが高いだけだったかもしれないけれど。

「ああ、そうだね、そうしよう。おやすみ。」

 僕は、適当に答える。

「うんうん、おやすみ。またあとで。」

 いきなり電話は切れた。何だったんだ…と思った。僕は本当に起きているのか?とさえ思った。琴羽は何のために、電話をかけてきたんだ。僕の電話番号が間違ってないか、確認するためなのか?そんな無駄なことするような女でもないな。根拠がないのに、何故か、鮮明にそう思ったりもした。


 僕は冷蔵庫を開け、飲みかけの牛乳を飲んだ。朝ご飯か…ずっと食べてない気がする。健康的な生活ではないな。ミワコは朝あまり食べないので、彼女と一緒に朝を迎えた時、僕も食べずにいた。琴羽は朝食を取る女なんだ…。くだらないことを考えそうになったので、頭を一度、強く振った。

 僕は起きてからしばらく、積極的に動き回った。洗濯物をするために、コインランドリーに行き、コンビニで、求人情報誌と履歴書、ミネラルウォーターを買った。家に帰ってからは、お湯を沸かして、コーヒーを淹れ、机の前に座り、ひたすら、その求人情報誌に自分ができそうな、もしくは、興味が持てそうな仕事にチェックを入れた。ラジオをつけて、今日の天気予報なんかも聞いたりした。僕の中の機械が作動した。少し奇妙な朝だった。

 もうそろそろ、洗濯も完了しただろうと思い、家を出ようとした時、携帯が鳴った。またも、画面には、何も表示されず、琴羽だと思った。僕は今度はすぐに出た。

「ねえ、もうそろそろご飯食べようよ。」

 その言葉に、少し笑ってしまった。本当に琴羽は朝ご飯が食べたいんだ、と思うと、少しだけ愛しく思った。

「ああ、そうだね。君は今、何処?」

「コンビニの前の公衆電話のところ。それより、あなた、二度寝してないでしょう。」

「なんで?」

「だって、コンビニで、雑誌とか買ってたじゃない。」

 愕然。琴羽は僕の行動を見ている。コンビニに琴羽の姿なんかあっただろうか?と少し考えた。琴羽は小悪魔みたく、高い声で小さく笑う。

「あ、言っておきますけど、ストーカーじゃないわよ。たまたま、そのコンビニにいたら、あなたが入ってきたの。もちろん、私はあなたに気付かれないようにしたの。探偵ごっこしたくなって。可笑しいのよ。だって、本当、あなたは気付かないの。フフ。」

 理解のできない女。今更ながら、電話に出たことを後悔した。愛しく思ったことをやはり後悔した。

「ね、ね、朝ご飯は?」

 琴羽は再びそう言った。朝ご飯催促女。理解できない女。歳月の神様を知っている女。

「朝ご飯はもう食べてしまった。ゴメン。」

「ずるいわ。約束したじゃないの。」

 琴羽の声は一段と高くなった。耳がキンキンするような鋭い声。

「ゴメン。僕は今から、用事があって、外に出るんだ。またね。ああ、それより、お金返してくれるの?」

 僕は急に鬱陶しくなって、そう言った。用意ができてなければ、切ってくれるかもしれない、と思ったから。

「返せるわ。だから、あなたに会いたいのよ。朝ご飯が食べたいからって、電話したわけじゃないのよ。それって、馬鹿みたいじゃない。でも、今、本当にお腹がすいてるのよ。」

「一人で食べればいいだろう?それに、金を返してくれるなら、最初から、そう言えよ。」

「おなかがすいていて、最初に出た言葉、それだったのよ。ごめんなさい。でも、朝ご飯食べようよ、って言ったら、一度寝たあとでって言ったじゃない。約束したことに変わりはないわ。私は間違ってないわよ、きっと。」

 なんなんだ、本当に。確かに、僕は約束をした。じゃあ、何故、こんなにイライラするんだろうか?

 きっと、僕が先ほど、コンビニに行った時、彼女がいたと言う事実が気に入らないのだ。何故、そこで、僕に声をかけなかったのだろう?探偵ごっこ?一体、いくつだ。小学生じゃないだろう?

 僕は彼女が悪いように考えた。が、無駄だった。やはり、彼女が正論を言ってるようである。

「ああ、分かったよ、分かった。そこにいて。そのコンビニの前にいてくれ。」

 僕は乱暴に電話を切った。そして、またかかって来ないように、電源も切った。僕はコインランドリーに直行した。コンビニには、行かずに。

 そんなことをしている自分ももしかすると、小学生並かもしれない。いじけているようだ。

 

とても気に入らない。

 

 コインランドリーで、洗濯物を乾燥機の方に、移していると、眩暈のするような出来事がまた僕を襲った。ミワコがいた。

「おはよう。早いんだね。」

「何で、こんなところにいるんだよ。」

「待ち伏せ。」

 ゾッとする。

「嘘よ。洗濯物を取りに来ただけよ。今日は遅い出なの。だから、たまには、家のこと、しちゃおうと思って。家から遠いんだけど近くにコインランドリーなんてないから。自転車こいで来ちゃったの。いい運動にもなったよ。」

 さきほど、琴羽と話したことがミワコに対して、後ろめたく思った。だから、ドキドキしていたのかもしれない。僕はたまらなくなって、ミワコを抱き締めてしまった。 

 その行動に、ミワコはとてもビックリした様子だったけれど、しばらくして、クスクス笑い出した。

「なーに?朝から。怖いな。」

「いや、ちょっと、朝から怖いことがあってね。ゴメン。」 

「怖いこと?怖い夢を見たとか?」

 まさに、その通りだ、と言いたかった。夢の中に出てきた人物を知ってる女が現実にいるんだ、と。でも、そんなことをミワコに言って、混乱させてたくはないと思った。自分でさえ、変に消化しきれないでいるのが、おかしいのに。

 普段なら、夢は夢と、割り切れるのに。でも、『歳月の神様』はリアルだった。

 

 僕はしばらく、ミワコを抱き締めていた。ミワコも何も言わず、そのままの状態でいた。そして、僕の洗濯物が乾くまで、ダラダラ話をし、別れた。ミワコは、とても不思議に思っただろう。

「たまには、違ったこと、すると、いいことがあるのね。」

と言い残して。

 たまには違うこと。

 目覚めの時間の早いこと。朝から、積極的に動き回ったこと。

そして、その結果、僕には、いいことじゃなく、奇妙なことが起こった。

 琴羽の出現。

 自分がとても怖かった。自分の中に入りこんできた琴羽の存在が、何故か、とても怖かった。現実に留まりたい気持ちに相反する自分がいて、それはあの金色の頭をした僕のようだった。自分は変わりたいのかもしれない。神様だなんて言う存在を創りあげ、琴羽と言う創造物までも生み出したのかもしれない。そう考えるとますます怖かった。

 ミワコを見送りながら、琴羽は、コンビニの前で、ずっと待っているかもしれない。僕を待っているかもしれない。修行中の身の上で、ずっと、待っていたのかもしれない、と思った。

 僕は、決意した。少し落ちついて、そう思った。

 琴羽に会ってみよう。夢と現実の区別をつけるために、琴羽に会わなければならない。きっと、悪いことなんて、何もない。僕の被害妄想を全て排除したい。

 ただ単なる、出会いのひとつだ。そう、出会いだ。奇妙な出会い。

 電源の切れたままの携帯を手に取り、乾燥した衣類をそのまま持って、僕は約束したコンビニに向かった。

 これが大人なのだ、先ほどの自分よ。心の中で、琴羽に謝り、ミワコに感謝した。


 コンビニの前の公衆電話には、琴羽の姿はなかった。来るのが遅かったのだ。当然と言えば、当然。

 僕はコンビニの中に入った。今朝早くに来た時とは、違う店員がレジに立っていた。僕は、また雑誌の並んだところに立ち、何を探すでもなく、なんとなく、雑誌類を眺めていた。すると、急に目の前が暗くなった。なんだ、僕は一瞬焦った。

「だーれだ。」

 声を聞いたとたん、力が少し抜けた。琴羽だ。

「フフフ、どう、こういうのって。ドラマとかであるじゃない?バカ臭いの。実際やってる人とかっているのかな?笑っちゃうよね。やってて恥ずかしいわ。あはは。」

 さらに力が抜けた。この女は何を考えているんだ。修行をしていると言っていたが、その前に、精神科か何処か、病院に入った方がいいんではないか、と思った。

「洗濯物、持ってきたの?生活感漂ういい男。なんて…」

 琴羽は僕の隣りに並んで、雑誌を手に取り、笑いながら言った。

「ごめん、先、これ、取りに行って、待たせちゃ悪いと思って、そのまま、来たんだ。遅くなってごめん。」

 少し嘘をついた。

「もう、おなかペコペコだよ。」

「じゃあ、少し歩くけど、ファミレスに行くか?」

 琴羽はこちらを向くと、子供みたいにはしゃいだ。僕が恥ずかしくなるくらいに、喜んだ。そして、お金はあるよ、と小さく呟いた。


 昼になる少し前だったためか、そんなに客はいなかった。フリフリでピンクの服を着たウエイトレスが、二名様でしょうか?と、僕らに声をかけた。僕らは、彼女に従い、禁煙席の窓際のテーブルに着いた。席に着くと、琴羽は、あなた、タバコは吸わないの?と聞いた。僕は特には、と答えた。

「ねえ、あなたの名前、聞いてなかったの。何て言うの。ずっとあなたって呼ぶのも、なんか悲しいじゃない。」

 琴羽はメニューを広げた。少しするとそれから顔を上げ、僕を見つめる。

「在。存在の在って書いて、アル。」

 僕はメニューに視線を落とした。

「ステキ。外国の人みたい。カッコイイ。」

 僕は何も答えず、メニューを見ていた。琴羽は何にするか決まったらしく、僕の様子を観察している。何?と言ったら、まだ?と言う。僕は、机の上にあるスイッチを押した。すると、はーい、と言う声が遠くから聞こえて、さきほど、案内してくれた女の子がやってきた。

「私、このオムライス。と、ミルクティー。アルは?」

「コーヒー。」

「そんなガリガリで、まだ、ダイエットでもするの?」

「朝ご飯食べたって言っただろ?」

 大嘘だ。

 ウエイトレスは、僕らの言った品を繰り返し、確認した。


「ねえ、アルは普段、何してるの?もう結構、年いってたりするの?彼女はいるの?」

 琴羽はウエイトレスが去った途端、ダラダラと質問し始めた。その内容はどれもこれも、僕にとって、とてもくだらなかった。どうしてそんなことを聞くんだろうと思う質問がほとんどだった。

「そんなに質問してどうするの?」

「修行中だから、いろいろ人のこと知っておかなくちゃダメなの。ねえ、何型?何処で生まれたの?家族は何人?どんなタイプの女性が好き?」

 琴羽は質問し続ける。

「質問いっぱいしてくれるのは、嬉しいけど、僕のことなんか知ったって、全然修行の参考になんかならないよ。」

「そんなことはないわ。重要よ。ねえ、全て、答えて。」

 琴羽の目は力強かった。その強さに負けるかのように、質問に答えた。琴羽はひとつひとつを興味深そうに聞いては肯いた。肯いたかと思うと、また別の質問を投げかけた。僕は、だんだん答えることに疲れてきたし、自分のことばかり、知り合ったばかりの謎の女(謎な上に変態だ)に話すのが嫌になってきた。この女、やはり、ストーカーじゃないのか。しかも特殊な。僕は質問されても、答えなくなった。琴羽は、ねえ、ねえ、と言い続けた。でも、僕は答えなかった。気分の悪い沈黙がその場を襲った。でも、都合よく、注文したオムライスなどがやってきたので、沈黙の重さは少し、軽くなったような気がした。


「ねえ、質問に答えてよ。」

 琴羽は、オムライスを口に運びながら、また、言い出した。僕は窓の外を流れる人を観察しながら、呟いた。

「じゃあ、僕にも質問させてくれないか。さっきから、僕ばかり答えて、疲れた。そんなにいっぱい質問する奴、初めただ。ミワコだって、そんなに聞かない。お前、なんか、ずっと話してなくて、一気に言葉が出てしまったみたいな人間にみたいだ。」

「他人と話をするのに慣れてないからね。」

 僕はその言葉を聞いて聞かないフリをした。

 僕もくだらない質問を山のようにしてやろうかと思ったが、あまり思いつかなった。琴羽はやはり、変なのだ。少なからず出てきた質問は単純だった。笑えるほどに。

「何の修行をしてるんだよ。何で、金がない?何で、僕に借りようと思った?」

 琴羽は笑った。質問の単純さに笑われたのかと思ったりもした。

「神様の弟子になる修行。家出したようなものだから、お金がない。あなたがたまたま通りかかったから話しかけたの。終わり?」

「お金を借りるなら、友達とかいただろう?誰かに連絡取ればいいじゃないか。何も見ず知らずの僕になんか、声かけたりしなくても。」

 琴羽はオムライスを綺麗に崩しながら、フフと笑った。

「友達らしい友達は一人もいないし、連絡とりようもない。」

 僕は驚いた。友達がいない…とはどういうことだろう。よほど、性格が悪いのか、いや、変だから?そうだろうな。一度は驚いたが、自分の中で出た答えで、納得してしまった。

「あなたがウンザリしてるようだから、最後の質問をするわ。」

 そうしてくれ。と僕は思った。コーヒーを飲みながら、琴羽を見た。

「あなた、歳月の神様を知らない?私は、運命の恋人を探すように命令されたの。だから、私、運命の恋人を探してるの。見つかれば、私は神様の弟子になれたようなものだわ。ねえ、あなた、知らない?私の運命の恋人。」

 思わず、吹き出しそうになった。普通なら、馬鹿げてる、何を言ってるんだ、この女と言う感じで吹き出しているだろうが、僕の場合、あの夢を見てしまった僕の場合は、驚いて吹き出しそうになったのだ。

 冗談じゃない。僕はまた、そう思った。夢は夢。これは、現実? 

「なんだよ、それ。笑えるね。そんなこと考えて、家出したの?親も悲しむね。それにそれが、修行なら、他人に手伝ってもらったら、ダメなんじゃないのか?」

「あは、それもそうね。そうね。あはは。ごめんなさい。修行してるのにね。じゃあ、神様のこと知らない?私、修行に出るのこれが初めてなのね。だから、不安で。」

「なんだよ、それ。知らないよ。普通、そんなもん、いないよ。」

 嘘だ。知っている。少しだけ、知っている、と言った方がいいだろうか。

 あの夢は鮮明で、リアルだった。そこに出てきた『歳月の神様』。現実に存在するのだろうか。姿は見えなかった。声を聞いただけだ。たぶん。

 僕の夢や妄想上の神様ではないのだろうか?ただの神なら、よかった。夢は夢でも、まだマシなような気がする。たぶん。

 僕は、嫌な感じの汗をかき始めた。

 琴羽は僕の言葉を聞くと、少し悲しい目をした。その目は僕の心を突き刺した。夢のことを言ってしまいそうになるくらい切ない眼差しだった。

「あっ、そうだわ。お金、返さないと。ありがとうね。」

 琴羽は、ポケットの中から、一万円札を取り出して、僕に渡した。僕はそれを受け取った。と同時に、やっと、夢から醒められるかもしれないと思った。

 もう、彼女に関わらないだろう。僕が歳月の神様のことを言わない限り、もう、近づいてくることもないし、もしかすると、他にも僕のように、神様の夢を見た奴はいるかもしれない。そいつに出会えたら、僕は確実に解放されるだろうけど。僕はそうなるように祈った。 

 僕は失業してから、何もない空間を生きた。そんな合間に、見たあの夢。無の空間が僕を狂わせたに違いない。そして、現実にこう言うことが起きることにより、僕をまともにしようと、そう、それこそ、神様が企んだことなのかもしれない。そうだ、きっとそうなんだ。僕は、言い聞かせた。僕はそうであるよう祈りの態勢に入った。


 僕らは食事を終えるまで、ずっと、黙っていた。そして、そのまま、会計を済ませ(この時は、どう言うわけか、琴羽が全額払った)、外に出た。

 僕は、じゃあ、修行頑張ってね、と最後であろう言葉を彼女にかけた。

 琴羽は僕をじっと見ていた。今にも泣きそうな目で、僕を見ていた。ドキドキした。

「例えば、もし、私が今、ものすごくお金を持っていたら、あなたはどう思う?」

「は?」

 彼女は、背負っていたリュックの中から、薄い水色の封筒を取り出し、僕に差し出した。僕は訳も分からず、それを受け取った。そして、驚いた。中には何枚もの一万円札が入っていた。

「私と契約してくれない?これで。まだ足りないなら、またそのうち、手に入れるから。」

 僕は、何の言葉も出なかった。ただ、ただ、今の状況を把握しようと、頭を働かせようとしていた。

「契約?何の?何のために?」

「一緒に暮らして欲しいの。あなたの側に置いて欲しいの。生活費は出すから。」


 ナニヲイッテルンダ、コノオンナ…


「は?僕には彼女もいるし、そんなことはできるわけないだろ。それに何のために、君と一緒に住まなきゃならないんだよ。馬鹿言え。それに、この金。一体、何?僕が貸したお金に意味はあった訳?」

 混乱だ。冗談じゃない。もう、面倒なことはごめんなのだ。

「私には、あなたが必要なのよ。どうしても。彼女がいたって構わない。彼女には、私から事情を話すわ。絶対、あなた達の仲を裂いたりしない。それにこのお金は、あなたが貸してくれたから、増えたお金なの。」

「どうして、なんだよ、分かんねえよ。言ってることがめちゃくちゃだ。」

 僕はお金の入った袋を琴羽に押しつけた。もう、やめてくれ。僕をまともな世界に返してくれ。そう強く思った。

「私には神様がついてるのよ。だから、できるの。だから、私には、絶対がいっぱいあるのよ。そう、言ったでしょ?」

 彼女は、真剣だった。真剣すぎて、言ってることが嘘臭くても、逆に輝いて見えた。正当化される。魔法にかかったようだった。琴羽の言葉。現実味のない空間。

 僕の中の大事なネジが吹っ飛んだ。豪快に、鮮明に、確実に。



 その日から、僕の奇妙な生活が始まった。

結局、琴羽は僕についてきたが、気が付けば、僕も何も言わなくなっていた。呆れていただけかもしれないけれど。

 琴羽との契約共同生活はきっと、疲れるものなんだろうと、逃げ腰な考えだったが、、予想は意外にも外れ、結構楽な生活だった。


「へえ、結構広いかもね。あ、あそこ、あそこ。あそこに住みたい?いい?」

 琴羽が初めて、僕の部屋に入った時、そう言ったのを覚えている。


 僕の部屋は、ロフトがついていた。キッチン、ユニットバス。それがあるところと、8畳ほどのフローリングの部屋がドアを挟んで分かれていた。その部屋に、ロフトがあり、その下は、物置になっていた。はっきり言って、ロフトは使用しておらず、そこも、ほとんど物置状態だった。ダンボールやら、なにやら、ごちゃごちゃと置いてある。

「整理しないと、使えないぞ。」

「一緒に寝るわけにはいかないでしょう?」

 その通りだ。いくら、彼女がいる僕だとしても、所詮は男だ。何が起こるか分からない。しかし、その時は、誰がこんな女とセックスしたいと思うか、と本気で思っていた。


 琴羽は、ロフトに上がると、変にはしゃいだ。

「いいねえ、いいねえ。いい眺めだね~。うわお、天窓みたいになってる。カッコイイね。あ、エッチな本があるよ!」

 と言って、そこにあった雑誌を何冊か、僕に向かって投げつけた。

「いいじゃないか。健全なんだよ。」

 琴羽は大笑いした。僕は呆れて、部屋を出ることにした。やはり、許可するんじゃなかった。ミワコに電話して、変な女が住みついている、と言おうかと思った。しかし、それもやはり、かなり馬鹿げている、と思い直した。

 部屋を出た後、何をしたのか、あまり覚えていない。

 次の記憶は、また部屋に戻ってきた時のものだ。琴羽がロフトの上でガーガー眠っていた。なんて女だ、と、呆れただけだったが、ダンボールの間に、綺麗に収まって眠っている姿は少し笑えた。


 琴羽はよく神様の話をした。さすがに、抵抗があった。それは歳月の神様が関わっているとか、そう言う問題ではなく、そんな話を聞いていると、自分が妙な宗教に足を突っ込んでいるのではないか、と言う錯覚に陥りやすかったからだ。

 彼女はよく、朝食を食べている時や、夜寝る前に神様の話をした。


 「朝目覚めると、神様が私の側に、降りて来てる時があるのよ。おはようございますって話かけると、おはようって返してくれる。そんな日は決まって、運がいいのよ。例えば、信号待ちをしないで、目的の場所に着く、とか、追い風で楽々自転車こげちゃう、とか。単純だけど、やったって思わない?」

 あまりに楽しそうに話すので、ときどき、本気で僕の側にも神様が降りてきているのかもしれない、と思ったことも、正直な話、何度かある。そのうち、その神様話は、僕の中で、普段の会話の一部として定着していった。神様が僕の部屋で自然に生活しているかのように。


 

 琴羽は、朝ご飯を必ず、作った。


 琴羽が住みついた次の日の朝、僕は目が覚めて、いい匂いがするなあ、と思うと、琴羽が朝食を作っていた。

 僕は驚いて、なんだ、これ、と間抜けな声出すと、琴羽はしかめ面で、朝ご飯に決まってるじゃないか、と言った。あまりにもその光景を珍しそうに、見ていたら、琴羽はまた変な顔をして、言った。

「朝ご飯は大事だよ。ほら、朝食べない人とかいるでしょう?信じられないよ。動けないよ。頭の回転が悪くなるから、修行のスピードが落ちたり、神様の言葉も聞こえにくくなる。ちゃんと食べるべきだよ!」


 とにかく、僕が起きると、それが昼であろうと、なんであろうと、ちゃんと僕の分の朝食が毎日のように用意されていた。琴羽自身はいないこともあったが、一緒に朝ご飯を食べる日も少なくはなかった。


 琴羽は懸賞の雑誌やら、ロジックやら、そう言う雑誌をよく買って来ては、必死で問題を解いたり、応募用のハガキを作成したりしていた。それを一日中している時もあった。そして、気が付くと、何かしらの賞品やら、現金やらが僕のもとに、届いた。

 

「神様がついてるのよ。やはり、私は弟子として、ナンバーワンよ。早く、認めてくれないかしら?」

 琴羽はよくそう言った。僕は、その度、そうだね、と呟いた。琴羽が笑う。


 ある時、僕は、出気心で、宝くじとか買ってみれば?と勧めてみた。かなりの大金が手に入るかもしれない。

「まだ、あれには手を出せないわ。すごいパワーが必要よ。」

 と不機嫌そうに言われた。ただ単に、手を出すことをわざと避けているような言い方だった。それでも、僕が度々言うと、スピードくじなんかは、少しやっていたようだが、あまりいい結果は出なかったらしい。


 琴羽は、毎日、はい、生活費、と言って、五千円ほどを僕に、渡した。そのお金はあの薄い水色の封筒で手渡され、僕が中身を出すと、琴羽はまたその封筒を大事そうに、片付けた。

 僕はその封筒を手渡される度、少しずつ傷ついた。なんとなく、傷つく。

 

 琴羽の行動を見ているのは面白かった。

 ケラケラ笑って、バラエティー番組を見る様子とか、とてもおいしそうに、カップラーメンを食べる様子とか、ゲームを必死でする様子とか。

とにかく、何をするにも楽しそうだった。


「ねえ、ねえ。これ、これ、美味しいと思わない?初めてよー、革命よ!」

 と、ある日、コーヒーシェイクを二つ買ってきて、叫んだこともあった。僕は甘いのが好きではないので、せっかく、買って来てくれたのを拒否すると、さらに叫ばれた。

「ひどーい、美味しいのにー。コーヒー好きじゃないのー。」

 やれやれ。

 

 お金に関する情報(賭け事とか)には、異様に詳しく厳しい顔をするくせに、その他の生活の面においては、本当に、何もかもが、琴羽には楽しいようだった。ひとつ何かあるごとに驚き、僕に質問をした。子供みたい純粋だった。それが、僕の中で、いちばんの彼女の不思議だった。  

 

 実を言うと、ミワコには、琴羽のことは言ってなかった。

最初、琴羽が強引にもミワコに言おうとぎゃあぎゃあ、喚いた。

契約に、この条件はあるのよと。

 しかしだ、琴羽はあなた達の仲を壊したりしない、と言っても、僕がミワコの立場なら、納得できる訳がない。どう言ったって、無理だと思った。

 僕は、ミワコとの仲がこういうことで終わるのは、考えたくなかった。別れてしまった原因が、この女と暮らしたかったからだ!みたいな感じで嫌だ。一度、ミワコとの生活を断っておいて、なんだ、ということもなる。情けないけれど。

 もちろん、こんな状況を作った僕も悪い。でも、僕には、琴羽の全てを拒絶することがどうしても、できなかった。何処かに、妄想の世界があって、歳月の神様の呪いに囚われているんだ、と自分自身に言い訳を繰り返す。

 それに、当たり前だが、僕と琴羽の間に、男と女の関係は全くない。


 言う、言わない、の争いが数日続いたが、日が経つにつれ、琴羽もおとなしくなった。

 でも、この状況下で何故、その実態がばれずにいたのか、いちばんはっきりした理由は、ミワコが、あの勘の鋭いミワコが気が付いてないのだ。それは恐ろしいくらいに。


 たぶん、琴羽がさらに鋭い勘の持ち主なのだ、と思う。

 僕らの争いが軽くなるにつれ、琴羽の行動は繊細かつ、見事になっていった。

 ミワコが来るということが分かると、見事なまでに姿を消した。今までずっと、僕一人が住んでいた部屋のように、琴羽は自分の存在を僕の部屋から、見事なまでに消すのだった。そして、驚いたことに、前もって、ミワコが来ると僕が分かっていなくても、

「あっ、今日は来るよ、絶対、来る。私、また、パチンコにでも行ってくる」

 と言って出かけ、ミワコが帰ると、入れ替わりのように、琴羽がお菓子やお金を持って帰って来た。


 正直に言うと、僕は一度だけ不本意にも、琴羽に手を出してしまったことがある。それはとにかく僕が一方的に最悪だったのだけれど。


 夜中、突然、琴羽に起こされることが何度かあった。その日もまたそうだった。

「アル、喉乾いた。ジュース買いに行こうよ。」

 琴羽は、僕の顔を捻った。

「なんだよ、冷蔵庫に、なんかあるだろう?」

「ない。」

 琴羽は、冷たいものが好きだった。


 いつかだったか、かき氷が食べたい、と夜中に、言い出した時はまいった。かき氷機などあるわけないので、コンビニまで、氷とカルピスを買いに行き、一緒に、氷を細かく砕かされたこともある。真っ赤になった手を見ながら、琴羽は笑った。とても楽しそうに。

 僕は次の日、腹を壊したのは言うまでもない。食べなきゃいいのに、と言った琴羽が憎らしかった。


 僕は、体を起こし、琴羽の顔を捻った。

「我侭ばっかり付き合いきれない。僕に何か、いいことしてくれ。」

 琴羽は、例えば?と言った。

「セックスしたい。」

 琴羽の顔が歪んだ。僕は、それを見て見ぬフリをして、彼女のトレーナーの中に手を入れた。ブラジャーをしていないため、彼女の生の乳房に触れたのが分かった。少し力を入れてみた。柔らかい肌の感触に興奮する。

「ダメだよ。」

 琴羽は静かにそう言って、僕の腕を掴んだ。しかし、僕は彼女の手を振り解いて、トレーナーを脱がしにかかった。琴羽がバランスを崩して、僕のベットに倒れ込む。

「アル、やめて。アル!」

 僕は聞かなかった。琴羽の上に被さり、彼女のパンツの中に手を入れようとした。

その時、僕は、咄嗟に、我に返った。

 琴羽が目を見開いて、震えている。

そうだ。こんなことはしてはけないのだ。琴羽から手を離した。何をしているのだ。僕は急に今自分がした行動に恥じた。

「ごめん。ごめん。その、僕は…」

琴羽は起き上がり、震える手が、僕の頬に触れた。

「ごめん、ね…。こう言うの以外なら、何でもしてあげられるんだけど。」

 琴羽の声も微妙に震え、小さかった。琴羽は、僕を抱き締めた。

「ごめんね、あのね。私ね、こう言うの、すごく怖いの。でも、私もいけないね。いい女が、ノーブラで、ウロウロしてたら、迷惑だよね。そりゃあ、やっちゃいたくなる日もあるよね。私といると、大変かな?」 

 僕は小さく笑った。結構、大変、と呟くと、琴羽も笑った。

「私は、アルといると、とても楽しい。落ち着くの。私、ずっと一人だったから。…母はいるんだけど。」

 琴羽は何故か、唐突に、言葉を切った。そこには何か、ありそうな気もしたが、頭がうまく働かなかったために、

「もう、こんなこと、しない。」

 僕は全然違うことを言った。琴羽は笑って、絶対ね。約束だよ。と言った。

その後、外に出て、琴羽は自動販売機でコーラを買っていた。アルは?と言われたが、もちろん、首を振った。

 それ以来、夜中に起こされることはなかった。 



 僕はだんだん、不思議な感覚になってきた。僕の中で、二人の女が行き来している。でも、それに、罪悪感が全くないと言えば、嘘になるけれど、慣れてくると、とても状況的には楽しかった。

 一人は、現実的の女、もう一人は、現実的ではない女。相反する二人の間に僕はいた。そして、二人ともに、僕は癒された。

 たぶん、僕はとてもズルイのだ。最悪かもしれない。それでも、自分の心地よさを失いたくなかった。我侭、とはこう言うことを言うのだろうか。

 その一方、この状況はいつまで続くのか…と言う不安もないわけでなかった。僕は少しずつ、分裂し始めていたのかもしれない。



 十一月の終わり、異様なくらい寒い日だった。

 僕が目を覚ますと、琴羽は小さな流し台の前に立ち、いつものように、朝食を作っていた。琴羽はミワコと同じくらい、料理が上手だった。それは、とても安心した。まずいものを朝から食べるのは、ちょっと、厳しい。 

「おはよう。今、何時?」

 僕はのろのろ起き出して、寝癖のついた頭を押さえながら、琴羽の隣りに立った。

「六時五十八分。」

 琴羽はスクランブルエッグを作っていた。僕は、琴羽が作るそれは、かなり気に入っていた。とてもフワフワのスクランブルエッグだった。チーズと牛乳を卵の入ったボールの中に入れながら、琴羽は言った。

「相変わらず、早起きだね。」

 琴羽はフフ、と笑い、フライパンを温め出した。

「コーヒー淹れようか?」

 僕は言った。

「今日は優しいのね。」

「いつも優しいよ。」

「嘘よ。出会った時のあなたは意地悪だったわ。そう簡単に人間は変われないものよ。」

 琴羽は笑いながら、言った。

 最近、僕の中での琴羽の印象がだんだん柔らかくなってきた。琴羽のペースに飲み込まれているだけかもしれないけれど、出会った時ほど、彼女のことを面倒だとは思わなくなっていた。

「じゃあ、コーヒー淹れて下さい。お願いします。もうすぐできるからね。」


 朝食と言っても、いつも至ってシンプルだった。食パン、スクランブルエッグ、ツナサラダ、コーヒー。今日は洋食だったが、和食の時もあった。琴羽は味噌汁が好きだった。

「今日は、何をするの?」

 食パンをかじりながら、琴羽は言った。

「バイト…あっ、今日何曜だっけ?」

「水曜。」

「あー。バイト休みだった。こんなに早く起きる必要なかった。くそ。」

 僕は、琴羽との生活が始まって少ししてから、アルバイトを始めた。コンビニの店員とか、レンタルショップの店員とか、交通整理とか。いくつか掛け持ちをしていた。再就職も考えてはいたが、そちらの方を臨むには、まだそれに必要なだけの力がなかった。 

「あはは、じゃあ、私と遊ぶ?」

 琴羽は楽しそうに笑った。子供みたいに笑う。

「ねえ、アルは何の予定もない時、何をしてるの?」

「何も。」

「ねえ、アルってば、すごくもてる男でしょう?」

「はあ?」

 前後関係の全くない質問に飽きれた。久しぶりの琴羽の質問攻撃の始まりだった。

「カッコイイじゃない?今まで何人くらいと寝たの?」

「もてないよ。つまんない男だし。何人って、聞いてどうする?」

 僕は笑ってしまった。くだらない質問に、それを真剣に聞こうとする琴羽の表情に。

「なんとなく。フフフ。ねえ、なんで、つまんないの?私はアルといるととても楽しいよ。ねえ、つまんないって?私が判断してあげるよ。」

 ドキドキする。なんだろうか。

「海に行って、物思いにふけりながら、昼寝したり、読書したり。とか、部屋の中を真っ暗にして、怖いゲームをして、恐怖感を味わったり、とか。何も考えず、ダラダラしている。でも、そういうのが楽しくて落ち着く。暇が好きなんだよ。」

 琴羽の目の色がギラリと光った気がした。

「楽しそう!全然つまんなくないじゃん。ねえ、それしよう、それ。だって、今日何も予定ないんでしょう?それしようよ。海には、私、弁当作って持ってくからさ。ねえ、ねえ、やろう、やろーう。あと、何する?」

「コンビニで人間観察する。冬の花火をする。とにかく、くだらないことをする。」

 言ってる僕もだんだん楽しくなってきた。琴羽がとても楽しそうに笑うから。ひとつ提案するごとにきゃあきゃあ、言う琴羽が可愛くてたまらなくなってしまった。

 どうしよう…正直、そう思った。


 好きになったら、どうしよう…まさか、本当に、運命の恋人?

 僕は琴羽に気付かれぬよう、首を小さく振った。


 琴羽は朝食の後片付けをすると、すぐに、出かけた。弁当を作るために、買い出しに行くと言う。僕も行こうか?と尋ねると、ダメダメ、危険な匂いがする、と、訳の分からない事を言って、僕がついて行くのをとても、嫌がった。


 僕は、琴羽がいなくなった部屋に取り残された。とりあえず、テレビをつけてみたが、特に心惹かれるような番組はやっていなかった。


 その時、携帯が鳴った。僕は少し、嬉しかった。琴羽が帰ってくるまでの暇つぶしになる。しかし、画面を見て、気持ちは一変にして、暗くなった。

「もしもし。」

「おはよう。まだ寝てるのかと思ったけど、電話しちゃった。」

 ミワコだった。朝早くから一体何の用だろう?そう思ったけれど、あまり聞きたくはなかった。

「そう思うなら、電話してくるなよ。」

 僕は情けなく笑った。ミワコが電話の向うで、クスクス笑う。どうしてか、とても気に障った。

「ごめんね。今日ね、急に休みになったの。で、暇だから、在に遊んでもらおうと思ってさ。だめ?」

 僕は迷った。どうしよう。先約は琴羽だ。困った。本当に困った。どうしよう…。

「いや、その、別に暇なんだけど。あー、ちょっと、先約があって、今日はちょっと。」

 僕は矛盾したことをブツブツ答えた。心の中で、早く琴羽に帰って来てもらいたかった。アイツなら、きっと、うまい具合に答えを出してくれる。そう祈っていた。

「何?暇なのに、先約があるって、訳分かんない。どっち?だめなの?」

 ミワコは少し、つまらなそうに答えた。

「あ、ちょっと、待って。あのさ、またあとでかけ直すから、ごめん。」

「いいよ、いいよ、そんな無理しなくても。先約があるなら、仕方ないじゃん。それを曲げてまでも遊んでなんて言わないわ。」

 それから、くだらないことを数分間話していた。何を話していたかも、電話を切った後には、すっかり忘れていた。動揺の分子が僕の中に充満していた。

 僕は、子供のように、琴羽の帰りを今か、今かと待ち望んだ。もう、希望は琴羽しかいない…かのように。

 そんな時、僕はゾッとした。どうして、琴羽のことをこんなにも望んでいるのか。別に、彼女でもない女とのピクニックがそんなに大事なのか?

 この共同生活をし始めてから、二人で、何所かに出かける、なんて、考えてもみなかった。別に、二人は肉体関係を持ったわけでもないし(未遂はあったけれど)、例え、二人で一緒にいる、その場面だけをミワコに見られたとしても、どうってことない。友達だ、と言えば、済むことだ。

 なのに、僕は恐れているのだ。

 たぶん、琴羽と一緒に暮らしていると言う事実が、些細なことでばれてしまうかもしれない、と勝手に判断してしまっているのかもしれない。それは十分ありえることだ。僕は少々の嘘なら、平気な顔でつけるけれど、ここまで、大事だと、果たして、どうなのだろうか。

 琴羽はどう思っていたんだろう。はじめから、いろんな場面を予想して、ミワコにこの生活を説明したいと懇願していたのだろうか?でも、それをすることを僕が拒否したために、急に姿を消したり、少しでも、僕と一緒に外に出かけるのを異様なまでに嫌がったりしたんだろうか?僕は、切なくなった。とてもとても。琴羽、と言う存在自体を僕が打ち消しているようで、とても辛くなってしまった。


「ただいま。何、その顔。蒼白だねー。」

 琴羽は帰ってくるなり、そう言った。笑っていたが、僕があまりにも何も言わないので、その笑顔もすぐに凍りついた。

「ミワコから、電話があったんだ。今日、暇なら、会おうって。でも、僕は、琴羽との約束があるから、会えないと思って。でもさ、この状況は…って考えると、今更、だけど、本当に今更なんだけど、僕はいけないことをしてるんじゃないかって、思ったりして。」

「このまま、私といると状況は最悪になるだろうね。ミワコさんに気付かれなくても。ミワコさんと会えば?その方が正しいよ。」

 琴羽は表情を何一つ変えず、あっさりとそう答えた。

「いいのか?お前、約束とか破るのって、嫌いだろ?」

「そりゃあ、嫌いよ。でもさ、今回は、ちょっと違うじゃん。私は、アルと契約したの。この生活について、結局、彼女には何も言わないって。だから、私が姿を消す。私、アルが不幸になるのはいや。しかも、私のせいで、ミワコさんとの仲がどうこうなるっていうのは、絶対いや。だから、私のことは気にしなくていいし、当然じゃない。当たり前でしょう?アルは、ミワコさんを選ぶべきなの。いい?私はいないようなものなの。今までもそうだったわ。」

 琴羽は笑った。あまりに綺麗に笑うものだから、僕の胸はズキズキ痛みながら、ドキドキしていた。

「ごめん、琴羽。お前の存在ってのをすべて消していたんだな。それって、やっぱりヒドイよな。ごめんな。自分のことばかりしか考えてなくて。」

 僕は、切なくて、切なくて、たまらなかった。

「なんで、なんで?私も自分のことしか、考えてないじゃん。全然、苦痛じゃないよ。楽だよ。アルに会う前の方が、よほど、酷くて、存在なんて、今よりないよ。」

 琴羽の言葉はよく聞き取れなかった。琴羽の笑顔が僕には、痛くて、痛くて仕方がなかった。

「やっぱ、僕、ミワコにお前のこと言うよ。納得してもらえるか分からないけど。」

 琴羽の笑顔が消えた。

「は?何言ってるの?だめだよ、言う時期が遅過ぎるよ。もう、だめだよ。絶対だめだよ。あなた達がダメになったら、私はここに居ることができない。無理だよ。」

「僕はお前と海に行きたいんだ…」

 僕は、琴羽を抱き締めた。

「今日はお前と居たいんだよ。」

「困るよ、そんなの。私が悪いんだ。ごめん。私がアルと一緒にいたい、だなんて考えちゃったから。ごめんね。契約違反だわ。私、一人で、アルのつまんないこと、体験する。どれだけ、つまんないか、私が評価するわ。そうよ、一人の方がいいわ。うん、それ、いいわ、楽しそうだもの。ね、ミワコさんと、デートしな。ね?あっ、お弁当だけ作っていいかしら?それまで、ミワコさんを呼ぶのは待って。お願い。」

 琴羽は僕から、離れて、小さく笑った。


 その後、琴羽は、せっせと、お弁当を作った。

 結局、僕は、ミワコと会うことにした。琴羽は、じゃあね。またねー。と言って出て行った。いつものように。

 僕はとても不安になった。本当は何処かに消えてしまうんではないだろうか。後姿がやけに寂しかった。切なさだけが胸に染みた。


『ミワコさんに、私のこと、絶対言わないこと。絶対よ。』


 琴羽が部屋を出てから、しばらくして、ミワコがやってきた。以前と変わらぬ入れ替りだが、気持ち的に何かがズレテいた。

 僕の顔が変に歪んで見えた。知らない人のような顔をしていた。ミワコもその奇妙な変化に、気が付き、ここに来たことを後悔しているように見えた。

 僕がコーヒーを淹れて、彼女に差し出すと

「在、どうかしたの?」

「別に、どうもしない。」

 国語の教科書に並べられた言葉をただ棒読みするかのようだった。

「本当は、私と会いたくなかったみたいな顔してる。無理に会わなくてもいいって、言ったよね、私。」

 ミワコはコーヒーカップを手で包み、そこに視線を落としたままだった。

「悪いのは僕なんだ。全て、僕が悪いんだ。傷つけた。傷つける。」

 僕はボソボソ呪文を唱えるように呟いた。


 そして、約束は破られた。とても簡単に。


「僕は今、女と一緒に住んでいる。僕は、彼女と契約をした。彼女をここに置いておくという契約。彼女は、数十万を契約金として、僕に渡した。それから、僕達は一緒に生活をしている。でも、僕には、ミワコがいる。ミワコが大切、でも、アイツも大切になってきた。ミワコのような、恋人関係ではもちろん、ない。ありえない。でも、生活の一部にアイツがいるんだ。今まで黙ってて、ごめん。嫌いになったら、なったでいいけど、僕は、ミワコを失いたくないし、アイツも失いたくない。とても矛盾したこと言ってるのも分かってる。」

 僕は、ミワコの白い両手の指先を見ながら、得体の知れない呪文は吐き続けた。

「本当は、ばれるまで、ずっと黙ってるつもりだった。もし、ばれたら、きっと今みたいに冷静な説明はできなくて、焦って、違うんだ、違うんだって言って、本当に浮気をしていて、それがばれたバカな男みたいになっていたと思う。でも、違う。僕は、先に言う。僕は、琴羽との約束を破ってでも言う。今日、僕はバイトがなくて、何の予定もなかった。で、琴羽と僕の言うくだらないことをしようと言う計画を立てた。その後、ミワコから電話があった。僕には、今まで、二人が接触することにあまり、危険性は感じてなかった。でも、それは琴羽が回避してくれてたからと、今日、気が付いた。僕は結局、自分の心地よさだけで、二人の女を傷付けることになってしまった。」

 ミワコの顔色が恐ろしいほど、白くなった。幽霊みたいに、透明になった。しかし、ミワコは泣いたり、叫んだりはしなかった。ただただ、状況が把握できなくて、混乱しているだけのように見えた。

「何、を、言ってるのか、全く。分からないんだけど。」

「僕はおかしいんだ。」

 呪文をひとつ。

「ええ、とてもおかしいわ。きっと、夢を見てるんだわ。」

「僕は夢を見たままで、それを現実にしてしまったんだ。僕はおかしいんだ。」

 邪悪な呪文をもうひとつ。

「在!!しっかりしてよ。あなた、悪い夢が続いてるんだわ。」

「夢だけど、現実なんだ。僕は、罪を犯した。しかも、琴羽のことが好きになりそうだ。」

 使ってはいけないとても危険な呪文を解き放つ。きっと、悪いことが果てしなく続く悪の呪文。ミワコが立ち上がり、僕の頬を打つ。

 呪文が裂け、破片が飛び散る。

「コトハって何?誰?女?私は何?私は騙されてたの?契約?そんなもの、信じられるわけないわよ。馬鹿馬鹿しい。冗談はどこまでなのよ。」

 ミワコの声のトーンが次第に下がっていく。僕らの関係も終わりに近づくのだろうか?僕は、また、切なくなった。ミワコがいなくなる?

「事実だよ。でも、ミワコ、君も好きなんだ。僕はおかしいんだ。どうしたらいいか、分からないんだ。」

「そんなこと、私が聞きたいわ。何をどうしろっていうの?私が好き?好きなら、どうして、他の女と暮らすの?私とは暮らせないのに、どうして、その女とは暮らすことができるの?お金があるから?体が目当て?その女は何処よ?何処に隠してるのよ!」

 全てのことが泡のように消えていった。全てが僕の中で終わりを告げた。

 最終呪文完結。

 歳月の神様になんか出会うんじゃなかった。僕は二人とも失う。運命の恋人を失うんだ。妄想が作り出した結末は恐ろしく馬鹿げていた。本当に、馬鹿らしい。

 何故、呪文を唱えた。馬鹿らしい。

 よく考えれば、こんなこと、起こるはずがなかった。でも、起こってしまった。僕の創り出した獣の力は想像を遥かに超えていたのだ。馬鹿らしい。


馬鹿馬鹿しい!


 僕が琴羽と行こうとしていた海には、車で一時間ほどかかる。僕らは沈黙の冷たい道を進んだ。妄想の呪文をかけられた哀れな恋人。永遠にこの冷淡な道が続きそうな気もした。僕はそれでもよかった。その間はミワコと一緒にいることができる。その間は琴羽を捜し求めることができる。僕は叶いもしない、そんな欲望に囚われた。

 

 到着して悪夢は、さらになる広がりをみせた。見事とはまさにこのこと。


 琴羽は浜辺に寝転がり、僕が途中で挫折した本を読んでいた。その横には、今朝、持っていったリュックが転がっていた。弁当を作っていた時間が懐かしい。

 僕らには全く気が付かなかった。

 僕が琴羽の名を呼んだ時、琴羽は今までに見たことないくらい怖い顔をした。隣りにいたミワコは何も言わなかった。

「こんにちは。」

 琴羽は起き上がり、ミワコを見、不自然な笑い方をした。

「こんにちは。」

 ミワコも同じように、不自然に笑い、答えた。

「さようなら。」

 琴羽は僕を見、そう言った。そして、リュックを手に取ると、急に、駆け出した。僕は咄嗟にその後を追ってしまった。背後で、ミワコが何か叫んでいたが、振り向かなかった。


 琴羽は全速力で走る。僕も走る。一体何年ぶりだ?こんなに真剣に走るのは…。琴羽は走るのがとても早い。出会った時も勢いよく走っていたなあ。

 ようやく、琴羽の肩を掴んだ。その勢いで、僕らはその場に倒れこんでしまった。砂埃が舞う。

「約束を、破った、ね。私がそう言う、のは、大嫌いだって、知ってる、でしょう。どうして?馬鹿よ。馬鹿、馬鹿。嘘つき、大嫌い!」

 琴羽はすぐさま起きあがると、息切れしながらも、罵声を飛ばした。

「君のことを、思うと、言わずには、いられなかったんだ。」

僕はのろのろ起き上がり、膝に手をついたまま言った。

「私のことを思う?全然よ、全然だわ。全てが壊れるわよ。馬鹿よ。私だけならまだしも、ミワコさんや、あなたまで破滅するわ。崩壊よ。約束したでしょう?やっぱり、最初に言うべきだったんだよ。隠したって、いいことないんだよ。」

「じゃあ、言うが、そんなこと、言って、アイツが納得するとでも思うのかよ?え?もし、アイツが嫌だ、嫌だ、と駄々をこねたら、お前は、分かりました、と言って、違う契約者でも捜したのかよ?言えるわけないだろう?」

 僕はつい、大きな声を出した。自分が悪いのに。全ては自分が悪いのに。

「分からないわ。でも、ちゃんと説明できる自信が私にはある。あるのよ。神様が何のためについてると思っているのよ?」

「神様、神様って。じゃあ、この状況を救う神様はいないのか?」

「いないわ。いないわよ。だから、こう言う状況を回避するために、約束をしたんじゃない!最初に言おうって、言ったじゃない!もう、おしまいなのよ、分かる?」

 琴羽は吐き捨てるようにそう言うと、さらに勢いを増して駆け出した。

 もう、僕には、追いかける気力がなかった。砂が目の前を舞い、視界が開けた頃には、琴羽の姿はとても小さくなっていた。

 

 その日から、琴羽は帰ってこなくなった。

 僕は朝目覚めると、いつものように、琴羽がキッチンに立っていて、おはよう、と言ってくれるものだと思った。しかし、その姿はない。僕のお気に入りのスクランブルエッグは、テーブルの上には並んでいないのだ。しばらく、あるべきものがない、と言う事実に、ガクリと肩を落とす日々が続いた。

 そして、ミワコとの仲も全くよくはならなかった。僕は数日間、ミワコとの仲を取り戻そうと、一生懸命、話をしたが、彼女に僕の心は届かなかった。会う度に、怒鳴り合いをしていた。しかし、それも、やがてなくなり、僕自身もどうでもよくなってきた。何もかもにやる気をなくしそうだった。

 そうだ、ただ単に女のいない生活に戻るだけだ。また、根暗な自分に戻るだけだ。そう思うと、気分が少し軽くなった。


 僕はいつのまにか、いつもの生活に戻っていた。バイトをしつつ、再就職のため、インターネットで仕事の登録をしたり、探したり、ハローワークに出向いたりした。

  

 

 今年ももう、終わりに近づいてきた。外は、クリスマスの装飾で輝き、不思議な感じがした。

 クリスマスが翌日にせまった時、その出来事は起こった。

 タイミングがいいのか、悪いのか、分からないが、僕の中でまた、修復し終えた貴重な部品が、確実に、ぶっ壊れた。修理屋の店主は、もう、いい加減にしてくれと、叫ぶだろう。

 しかしだ。それは、鮮やかに飛び散った。もう、修理に出すことすら、不可能なくらいに。 


 それは早朝だった。朝五時半過ぎくらいだった。

携帯電話が鳴った。

 僕は一瞬、目覚まし時計の音だと思い、布団に入ったままの状態でそれを手探りで探し、その音を止めようとした。何度か時計を叩いたが、鳴りやまない。僕は仕方なく布団からで、時計を見たら、五時三十八分だった。

 そして、やっと、携帯がなっているのが、分かった。

僕は、携帯の画面を見た時、現実の世界から離脱した気がした。

 画面には、「ミワコ」と言う文字が点滅しているのだ。

「おはよう。」

久しぶりに聞くミワコの柔らかい声。僕はしばらく声が出せなかった。

「早過ぎる電話に驚いた?それとも、私に驚いた?」

ミワコは少し笑いながら、そう言った。僕は、懐かしく思った。

「両方。」

「フフ、そうね、私もビックリだよ。こんな早くに、在に電話してるだなんて。なんか、急に声が聞きたくなってね。クリスマスイブだし、一人は結構寂しいでしょう?なーんて。あはは、勝手だね、私ってば。」

「いつも勝手だよ。」

僕は、力を込めてそう言った。

「あのね、これは言ってはいけない、って言われたんだけど、どうしても在に言いたいことがあって。結構前から、ずっと、考えてて…やっぱり眠れなくて。」

僕は少し、怖くなった。何故だか、分からないけれど、怖くなった。

「実はね、琴羽さんのことなんだけど…」

 また声が出なくなるような衝撃的な言葉だった。ミワコの口から、琴羽と言う名が出てきた事に衝撃を受けた。

「あのね、実は、彼女、今、私のところにいるの…あの日、在が彼女の事を告白した日から、三日くらいしてから、突然、彼女が現れたの。私の前に…」

「…え?よく分からない。」

「私だって、今だに分からないわよ。でも、在なら、彼女と一緒に暮らしたあなたなら、分かるでしょう?彼女のその行動とか…その、いろいろ。」

「…会って話してくれないかな?電話じゃ、ちょっと、今の僕には、現実味がなくて…。電話が鳴って、ミワコだってことも信じられないのに…」

しばらく沈黙があったが、そうだね、いいよ。と小さくミワコが呟いた。

 僕の中でまた、嵐が起こった。ミワコ、琴羽…僕自身が傷つけてしまった二人の女性。その二人が今また、僕の中で形を成して、住みついた。僕は、ミワコの電話を切ってしばらくの間、切なくて仕方なかった。恋焦がれているかのように…。


 僕らが会ったのは、ミワコの仕事が終わってからだった。夕食も一緒に取る?と言うミワコの提案で、ミワコの会社近くのパスタ料理店で待ち合わせすることにした。

 そこは、僕がかつて、ミワコと同じ会社に勤めていた頃、何度か、入ったことのある店だった。僕はこの店のサラダが好きだった。白いボール皿に入った野菜とトマトとカリカリベーコンのサラダが好きだった。

 先に到着したのは、僕だったと思う。店内はあまり広くはないので、ミワコがいるかどうかを確かめるのは、結構簡単だった。

 時間が時間だけに、それほど、混んではいなかった。でも、これから、会社帰りの人達でここも賑やかになるだろうと、思った。少しだけ、昔の雰囲気を思い出したりもした。

 僕は、窓ガラスに沿う席についた。この店はビルの2階にある。私鉄の駅にも近いので、その窓からは、駅へ向かう人、駅から出て来る人、いろんな種類の人間を観察できた。僕はミワコが来るまでしばらく、その様子を観察していた。僕もあの駅から、今もミワコの勤めているあの会社に何ヶ月か通っていたのだ。

 

 店員がグラスをひとつとメニューを持ってきた。白いブラウスに黒のパンツとエプロン。その女性は無表情に、それらを机の上に置き、去っていった。

 ミワコが来たのは、その店員が去って行って、すぐだった。彼女の方が僕を見つけ、やってきた。

「お待たせ。待った?」

 久しぶりに会うミワコを見て、泣きそうになった。僕が好きだった女。小さく笑うその姿がとても愛しかった。

 僕は黙ったまま、首を振った。そう?と言いながら、席に着く。

「何にするか決めた?在はここのサラダが好きだったよね?あ、質問してばかりだね。久しぶりで、何から話していいか、少し、戸惑ってるの。ごめんね。」

 僕はまた、黙ったまま、首を振った。ミワコが笑う。

「私ばかり喋ってるよ。」

 先ほどの店員がまたやってきて、グラスとメニューを置いていく。

ミワコは、メニューを広げる。 

 僕はじっとその様子を見ていた。とても恋焦がれている者のように、熱心にミワコを見ていた。ミワコは、視線をメニューから、あげ、何?と呟く。僕はまた首を振る。

「すいませーん。」

 ミワコは、片手をあげ、店員を呼んだ。また、無愛想な女が来る。

「これをセットで。在は?」

「同じもの。」

 ミワコは、笑う。嫌いじゃないの?カルボナーラだよ?僕は、首を振る。

「ドリンクの方、コーヒーか、紅茶になりますが、どちらですか?」

「紅茶…とコーヒーで。」

 ミワコは、笑いながら、言った。僕に聞くときっと、同じもの、と言うのだろうと思ったのかもしれない。たぶん、僕は、問われると、また同じもの、と言うだろうけれど。


 店員が去ったあと、お互いに無言だった。でもそれは、苦痛な沈黙ではなく、何故か、付き合い始めてまもないカップルみたいな、もどかしい、恥かしい、いつの間にか忘れていた懐かしいものみたいだった。

「続き…話そうか。電話の続き。」

 ミワコが先に、口を開いた。

 僕は肯いた。僕は、ミワコが来てから、全く喋ってないな、とふと思った。でも、ミワコは、それを特には気にはしていなかったし、この静かな状態を嫌っがたりもしていなかった。以前なら、何?どーして、黙ってるの?と聞き返した。もしくは、とても気まずい空気がそこを覆っていたのに。

 琴羽のせい?

「…最初、彼女が来た時、何様なのかと思ったわ。私は、たくさんたくさん、彼女を傷つけるようなことを言ったと思う。あの時、とても興奮していたから、よく覚えてないけど。でも、彼女は、笑ってるのよ。最後に、他に言いたいことは?と言われた時、涙が出てきた。私は、そのまま、ドアを閉めて、泣いたのよ。その時、在にも、いろいろ琴羽さんのことを聞かされてたから、本当に頭にきて、大声出したら、何かが吹っ切れたのね、きっと。うんざりしてて次の日、在とも別れちゃった。そしたら、また琴羽さんがいるの。うちの前に。」

 琴羽はいつだって、突然だ。僕が、彼女と暮らし始めたのも、突然だった。

 ミワコは、水を一口、飲んだ。

「在、お金、渡された?」

「渡された。札束どっさり。」

「私も、どっさり。目を疑ってしまったわ。在の言ったことは本当だったんだって、やっと思えたの。ごめんね。」

 ミワコが正しい。そんな夢のような話を、僕は、ミワコに真剣にしていたんだな、と今になって僕も分かった。あの時は、真剣だったんだ。とても真剣だった。

「彼女は『私は、神様に、人を傷つけることはしてはいけない、と約束したの。私がどれだけのことができるか分からないけど、このままじゃ、私、ダメなの。どうしてもダメなのよ。だから、お願い。少しの間だけでいいから、私はあなたといたい。何か役に立ちたい。それでも許してもらえない時や、傷が癒えない時は、出ていくから。もう修行は断念するから。』っこんな感じかな?言ってたの。混乱したよ。言葉の意味が分からないの。あんなの初めて。あんな強引で、でも痛く切ないの。」

 ミワコはフフフ、と笑う。

 その時、注文した品が運ばれてきた。テーブルの上のカルボナーラを見て、ミワコは悪戯な顔をして、本当に、食べるの?と聞いた。

 琴羽がいる。ミワコの中にも確実に琴羽がいる。それは、とても懐かしいもの。彼女と琴羽が一体化しているのだ。僕と一緒にいる時も、僕の中で、琴羽は成長していたのだろうか。一体化していたのだろうか?でも、ミワコは、何も気付かなかった。男と女の違い?それとも、僕が琴羽を知っているから?

 僕はとりあえず、フォークにパスタを絡めた。そして、口に運んだ。その瞬間に自然に片方の眉が上がってしまった。やはり、この味は苦手だ。

 その様子を見たミワコは楽しそうに笑った。ほら、だめじゃん。とくすくす笑いながら言った。なんで、僕はこれを頼んだのだろう。

「違うの、注文すれば?」

僕は首を振った。ミワコが笑う。

「在って、そんなだった?随分会ってなかったからかな。」

僕は黙ったまま、口の中にパスタを押し込んで、コップいっぱいの水を飲み干した、と同時に大きく咽込んだ。情けなかった。子供みたいに、意地を張った。

 ミワコが片手を上げ、すいません、お水とメニューください、と言った。店員がやって来て、空っぽのグラスに、氷水を注いだ。

「このサラダ、ひとつ下さい。あと、コーヒー、もう、持ってきてくれます?」

店員は、分かりました、と言った。

「ごめん。子供みたいだね。」

「そうだね。私がいない間、ちゃんと生活してたの?」

「琴羽…今もいるのか?」

 ミワコは、肯いた。

「うまくやってるんだな。」

「どうして?」

「僕と会えるくらいだから。」

 ミワコは、パスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、そうだね、と笑った。

「不思議な人だね。なんだ、こいつ、何者!とか最初思ったのに、一緒にいると、楽しいのよね。行動を見てると面白いの。何も知らない子供みたいなんだもの。私が料理してる時とかに、側に来て、わー、すげー、キャーって。お風呂ひとつ入るのも新鮮さを感じちゃうのよ。可愛い人だわ。在が好きになっても仕方ないよ。」

「でも、ミワコも好きだったんだ。あの時は。二人が好きだった。僕がただ我侭だった。ごめん。」

「私も信じてあげられなくてごめんね。でも、信じられない気持ちも分かってね。でも、あんなに可愛い人と暮らしてたなんて、やっぱり、ヤキモチやいちゃうなー。別れて言うのもなんだけどね。」

 ミワコは首を少し傾けて笑った。 

 またしばらく沈黙が続いた。ミワコは、パスタを食べ、僕は、セットのサラダを食べた。そして、今頃になって、

「サラダ、要らないけど…セットでついてるじゃん。」

 僕は笑ってしまった。あ、とミワコは口をあけた。

「知ってるわよ。でも、あのサラダは特別なのよ。だからいいの。それに、在、カルボナーラ食べないじゃない。」

「特別?」

「愛の復活のサラダ。」

 と言ったと同時にその、サラダが来た。それから、コーヒーも。僕のこの店の好きなサラダ。何か月ぶりだろう、このサラダ。ずっと食べてない。

「サラダばっかりだ。」 

「でも、ここに来てた頃も、サラダばかり食べてたよ。痩せっぽちなのに。」

 お互いに目が合って、思わず吹き出した。あの頃が戻る。しかも、あの頃よりもいい形をした僕達がいる気がした。

 愛の復活か…。

 琴羽は神様との約束をきちんと今回も守ったのだ。そう思うと切なくなった。ちゃんと、歳月の神様のことを話してやればよかった。そこまで、その神様は、琴羽にとって大事な人なのなら。

その後、また、ミワコが言った言葉に笑いながら、泣きそうになった。


「ねえ、在。この私が、朝ご飯なしでは生きられないようになったのよ。琴羽さんはいつも朝食を作ってくれた。あのスクランブルエッグが最高ね。分かるでしょう?あ、それから、琴羽さんのこと、私が言ったって言うのは秘密よ。約束したのに、言っちゃった。私達、約束破ってばかりだね。琴羽さんも苦労するね。」

 優しい笑顔の花が咲く。 



 一気に何もかもが戻ってきた。僕は体が宙に浮いている感覚に陥った。

ミワコが琴羽を語る。一緒にいた琴羽は、ミワコといても、やはり琴羽であったことに涙が出そうになった。

 彼女は一体何を求めているんだろう。何を求めて、ここに来たんだろう。

思えば、彼女のことを何も知らない。何も知らないんだ。僕が敢えて聞かなかったからだけれど、本当は聞いてもらいたかったのだろうか?

 一体何を?

 彼女は一体何?


 アパートに帰ってから、そこでまた、信じられない出来事が僕を待っていた。

そう、『彼女』がいたのだ。


 僕の部屋は、二階のいちばん端だったので、自分の部屋の電気がついているのに気が付いた。なんだ、電気を消し忘れただろうか?と僕はぼんやり思った。

階段を上りながら、考えた。いや、僕は消した、消したぞ。まさか。

 そう思った瞬間に走り出し、部屋のノブを回した。カギがかかっていない!


「お帰り。」

 琴羽だ。やはり、琴羽だった。

「ミワコさんねえ、もうすぐアルのもとに帰るよ。よかったね。」

 琴羽は、以前と変わらず、明るく僕に話しかけながら、Vサインをした。

「どうやって入った?」

「え?カギあいてたけど。危ないねー。入ってきたのが私でよかったね。」

 無用心だね、ダメだよ、と言いながら、僕の側にやってきた。

「バイバイ。今まで楽しかったよ。ありがとうね。」

 琴羽は靴を履き始めた。

まだだ、まだ終わってないんだ。僕は何も琴羽のことを知らないんだ。

「待てよ。どう言うことか僕にちゃんと説明してくれ。僕のところにいたと思ったら、次はミワコのところ、で、会ったかと思ったら、バイバイって、何だ。お前はいつも突然なんだよ。すべてが。僕には分からない。何?一体何?お前は何?」

 琴羽はくすくす笑った。

「いっぱい質問したね。でも、自分も何か分からない。分からないよ。私が教えて欲しいなあ。私は何だろうね?」

「質問してるのは僕だ。」

 琴羽は玄関に座り込んだ。そして、僕を見た。大きな瞳で僕を見た。僕は一瞬気が変になりそうだった。まっすぐ、こんなにもまっすぐ、見られたのは初めてだった。

 僕は思わず、琴羽を押し倒してしまった。琴羽は抵抗しなかった。

でも、小さく、ダメだよ、と呟いた。

「あの晩に約束したじゃん。…でも、ハグだけ許してあげるよ。」

 僕は、琴羽を起こし、座った状態で、彼女を抱き締めた。

「アルに会えてよかった。」

 僕の耳元で、琴羽は呟いた。とても切ない声。今にもこの腕の中から、琴羽の体が散ってなくなるような気がした。そう思うと、怖くて、さらに、彼女を強く抱き締めてしまった。

「アル、痛い。」

「ごめん。琴羽をもっと分かりたい。」

「隣りに座って手をつないで。」

 僕は言われた通りにした。玄関はとても狭い。僕らはとても窮屈な状態だったが、苦痛はなかった。琴羽の手に触れ、今度は力が入らないよう軽く握った。


琴羽は静かに話を始めた。


「ずっと、話そうと思ってたのね。私のこと。どう考えたって、普通じゃないでしょう?変でしょう?でも、私には何も怖いものがなかった。だから自分が他人にどう思われようと平気だったの。アル、最初になんで、僕に声をかけたのかって、聞いたよね?アルの前にも何度か、声をかけた人がいたんだけど、走って逃げられたり、無視されたり、話すら聞いてもらえなかった。これが、外の世界なんだわ、ふーん、どうってことないじゃんって思った。で、アルに会った。アルにも逃げられそうになったんだけど、なんか、この人だ!的なものを感じたような気がした。今になって思えば、勘が冴えてたのね。アルでよかったって思う。」

 琴羽の手が少し、震え出したのが分かった。僕は少し、力を入れた。彼女が僕の方を見る。僕は、大丈夫?、と呟いた。

 琴羽は力なく笑うと、話を続けた。

「私の母は、とても男にだらしない人で、誰とでも寝てた。そう言う仕事もしてたと思うけど。だから、私は、小さい頃から、誰が父親なのか分からなかったし、何で、母が私を産んだのかも、だんだん分からなくなってきた。でも、母が本気になった男にはよく捨てられた。その度、私は押入れにでも隠れなきゃ、殺されるくらい母は暴力的になるの。そのうち、何かが母の中で、切れちゃったのね。自分の身を守るかのように、変な宗教に手を出してた。もともと、精神的に強い人ではなかったのよ。それを補うかのように、男の人と遊んでたのかもしれないけれど。その宗教にはまった母は最低だった。まだ暴力的な母の方がよかった。だって、全然話が通じない人になったんだもの。分かる?何を言っても、上の空なの。でも、たった一人の母だし、とても心配だったの。そのうち、私も家に閉じこもるようになったわ。」

 そう言えば、琴羽が以前、母のことを言おうとした時、急に言葉を切った。その時、不自然だな、と思いつつも、僕が琴羽に酷いことをしそうになったので、それについて、深入りしなかったことを思い出した。

 琴羽の話は続く。

「母の状態は日増しに酷くなって、学校にさえ行けなくなった。義務教育をまともに受けてないだなんて、笑えるでしょう?毎日、くだらない話を聴かされ、呪文を唱えた。毎日、毎日、狂ってしまいそうだった。それでも、頼れるのは母だけで、彼女がすべてだったから、何も言えなかった。呪文が読めないといけないから、と言って、言葉は教えてくれた。それはそれは熱心に。あと、なんかの比率を出さなきゃいけないから、と言って、数学も習ったの。これも、かなり深く。そこらへんは、宗教がらみだけれど、感謝はしてたの。 でも、十六になった時、信じられないことが起きた。」

 しばらくの沈黙があった。信じられないこととは?とてもそれを言うのに、琴羽は時間がかかった。でも、その理由はそれを聞いた時、痛いほど分かった。そして、僕は、とんでもないことを彼女にしようとしていたのだ、と思った。邪悪な犯罪だ。僕はそれを犯そうとしていたんだなんて。僕は、酷い頭痛に撃たれた。そして、今までいちばん、自分を汚く、激しく恨んだ。


「その日、母は朝から少しウキウキしていたの。おかしいなあって思ったの。いつも、不機嫌を形にしたような顔しかしない母が輝いて見えたの。そしたら、こうよ。神への儀式だ、とか言って、知らない男を母が連れてきた。彼と寝ろって言うのよ?レイプ状態だった。死んでやろうかと思った。何が、神だ、何が儀式だ、私は何だ?って思った。母に少しでも感謝してた自分を恐ろしく思った。自分が寝ればいいじゃない、私より、アナタの方が上手でしょう?って言ったら、殴られた。その儀式は何度かあった。中絶だってした。きっと、母は神の子でも欲しかったんでしょう?冗談じゃない。産んでやるものか。」

 泣くかと思った。しかし、彼女はまっすぐ、玄関のドアを見つめたまま、またしばらく黙った。

「僕は、お前に、なんて…。酷いことをしようとした。僕は…」

 琴羽の指先が僕の唇に触れ、首を振った。

「あれは、いいの。大丈夫だから。ちょっと怖かったけど、アイツらとアルは違うわ。それに、何もなかったじゃない。おっぱい触っただけでしょう?」

 彼女は優しく笑った。涙が出そうになった。

「神って何?神?なんだと思う?」

 琴羽は、また玄関のドアをじっと見つめながら、静かなトーンだったが、非常に重い空気が流れる。怒りだ。とてもとても憎しみのある声。

「存在の確証のできない、くだらない想像物。身勝手な妄想。私は嫌い。大嫌い。吐き気がするほど嫌いなの。世間一般で言う神って何?私の母が崇拝しているものが、それだと言うのなら、そんなもの、神なんて、クソくらえよ。この世から消えてやろうかと思った。でも、死ぬ勇気はなかった。それはそれで、とても怖かった。ただでさえ、自分と言う存在がない世界にいて、さらに肉体まで消えてしまったら、私は本当に、どうしようもない、無になってしまう。そのうち、いつかココから抜け出してやる、と言う欲望に変わった。それはそれは、殺人でも犯しそうな勢いの邪悪な考えに似てた。日に日に増幅するの。そしたら、あの夢を見た。私の大嫌いな神様の夢。でも、その夢の中の神様は、少し違ったの。歳月の神様だった。そんなもの、私は知らないけれど、夢の中の私は、金髪なんだけど、その私は、彼か彼女、知らないけど、歳月の神様、だと分かっているの。そいつは、こう言った。修行に出なさい。素敵な恋人を見つけに、修行に出なさい、って言うの。目が覚めた時、その夢のリアルさに、体が震えた。気持ち悪くて。何度か吐いた。あんなに恨んでいた神が夢にまで出てくるなんて許せなかった。でも、それがまた、変に生々しいの。そして、ふと思った。これを利用して、家を出るのはどうかしら?私は母に夢のことをすべて話した。そしたら、そしたらよ。彼女の顔色がガラリと変わるの。『ほら、ごらんなさい。儀式を続けてきた成果よ。今度こそ、神の子が産まれるわ。修行に出なさい』だって。笑えるでしょう?今まで、私はなんだったの?って思うじゃない。でも、結局、私はこの女の娘なんだ。母親と同じように、神を自分のために利用したのよ。皮肉でしょう?」

 僕は琴羽を抱き締めた。琴羽は何も言わず、ただ黙っていた。

 この過去を最初から、僕が聞いていたら、果たして、あの生活はあっただろうか?僕のあの晩の行動はきっとなかっただろう。彼女を傷つけたりしなかっただろう。

 自分のすべてを聞いて欲しくて、でも、聞いて欲しくなくて。自分のことを分かって欲しくて、自分の存在を確かめたくて。


ワタシハナニ?


「僕もずっと黙っていたことがある。歳月の神様、だけど。僕も実は夢の中で会ったんだ。」

琴羽が顔を上げた。驚いた顔をしている。僕は情けなく笑った。

「その夢はとても鮮明に覚えていて、とても気分が悪かった。そしたら、その日に、琴羽に会った。僕はその時期、とてもイライラしていたから、歳月の神様だなんて、夢の中の登場人物を知ってるやつに会うだなんて、非現実過ぎて、恐ろしくて。現実さえ、狂い始めたのかって思うだろ?だから、言えなかった。ずっと、黙っていてごめん。このことをもっと早く言っていたら、琴羽は苦しまなかった?」

 琴羽は首を振った。

「歳月の神様はいるんだ。今、なんとなく、そう信じている。琴羽は利用したんじゃない。琴羽は命令されたんだ、修行に出ろって言われたんだ。母親がどうだって問題は何もないんだよ。琴羽が決めて、出て来た。それに嘘をついて、神様を創り出したわけじゃない。母親の信じている神とも違う。現実なんだ。今まで、傷つけてばかりで、ごめん。」

 琴羽はまた首を振る。

「一緒にまた暮らさないか?」

「ダメ。」

 琴羽は僕の腕を振り解くと、立ち上がった。

「どうして?」

 僕は琴羽を見上げて言った。

「私がアルを好きになってしまいそうだから。」

「運命かもしれない。」

「違う。それはミワコさんでしょう?私じゃないわ。私ね、ミワコさんとたくさんたくさん、アルのことを話したの。それを聞いてると、この人は、本当に、本当に、アルが好きなんだなーって思ったら、嬉しかった。でも、悲しかった。嬉しかったのは、ミワコさんが好きなのがアルだから、悲しかったのは、私の中でアルへの気持ちが大きくなってて、切なかったから。好きかも知れないって気付いてしまったから。ごめんね。こんなことまで言うつもりなかったんだけど。」

 琴羽は僕を見下ろして、フフフと笑いながら、言い、手を伸ばした。

「アルに会えてよかった。名前を聞いた瞬間から、好きだったのかもしれない。存在のアル。アルは私をちゃんと見てくれた。私はここにいても、私として受け入れてくれているんだって。嬉しかったの。あの琴羽は大好きだったよ。最後にお願い。もう一度、抱き締めて。キスして。」

 琴羽は両手を広げる。

 僕は彼女を抱き締めた。そして、キスをした。長いキスだった。彼女の唇はとても温かかった。

キスをした後、僕らは目を合わせた瞬間、吹き出した。大笑いした。約束破りしてしまった、琴羽までも。

「質問。君が話してくれた神様の話はどうなんだ?修行とかさ。」

 琴羽は、ニヤリ、と悪戯っぽく笑いながら、言った。

「作り話もあれば、本物の話もある。母がしてくれた話もある。いろいろよ。でも、神様は基本的に嫌いなのよ。でも、歳月の神様は好きなの。これは本当よ。私を助けたんだからね。矛盾してるかしら?」

 僕は首を振って笑い、次の質問に移った。

「質問。君のお金は何処からやってきた?」

 琴羽は玄関の扉を開けながら、笑った。

「母はお金に関しても、ものすごく執着心があって、私の自由に使えるお金なんて、ほとんどなかった。でも、ほら、欲しいじゃない?だから、一人で、こそこそやっていたの。懸賞とかパチンコとか、そうっとね。そのへんを不幸に思ってくれたのか、神様は味方してくれたのね。当然よ。当たる予感がするのよね。ビビッとね。本当よ。はずすこともあるけどね。」

「宝くじはどうして買わないの?当たるだろう?」

「大きいのが当たっても困るじゃない?ただでさえおかしい人生をさらに狂わせたくはないからね。」

 しばらく、僕は彼女に質問をし続けた。彼女は、すべてを丁寧に嫌がりもせず、答えてくれた。


 琴羽は僕の家を出た。何処に行くんだ?と最後の質問したら、笑いながら、ミワコさんのところに決まってるじゃん、と言われた。そうだった。ミワコのところに、今はいるんだった。 

 またね、と大きく手を振り、階段を降りて行く琴羽。いつでもまっすぐで正直な琴羽。

 僕は、琴羽にまだまだ質問したかった。僕はまだまだ彼女を知らない。

 知りたかった。琴羽を、琴羽のすべてを。ほんの一部しかまだ知らない。でもその一部は僕の心に大きな衝撃を与えた。


 琴羽が閉ざされた世界から、外に出た時、たくさんの不思議が彼女のまわりには存在したんだ。だから、質問だらけだった。僕がくだらない、と思うことでも、他人と言うものと話をする、と言うこと自体が初めてに近い彼女は一生懸命だったんだ。

 いつだって、後から、大切なことに気が付いて、悲しくなる。とても悲しくなる。

人はいつだってそうだ。後悔が多くて、嫌になる。

 それでも、琴羽への後悔は、これから少しずつだけど、なくなる、そんな微かな希望が沸いた。ずっと、彼女がここにいてくれるなら。

 過去は変えられなくても、未来はどんな形にでも、変化させることができる。今、ここにいる僕が変化すれば。


 僕はその晩、また、夢を見た。


「分かりましたか?彼女のことを…」

 歳月の神様は言った。 

 僕はやはり、金色の髪の毛だったが、今度は小さな子供だった。真っ白なブラウスと短パンで、裸足だった。

「彼女って誰だ。」

 僕の声は高かった。声変わりをしてないのだろう。

神様は笑った。分かっているくせに、と言う風に。小さな僕は分かっていなかったが、今の僕には分かっている。彼女とは、琴羽だ、きっと、琴羽のことなのだ、と。

「運命と言うものを少しは信じる気持ちが沸いたでしょう?私は嘘つきではありませんよ。私の悪口はもう言わないでね。」

 風が起こった。生温かくて、いい香りがした。神様が移動しているのかもしれない。

「ボクは悪口なんか言ってない。言ってないよ。」

「そうですね、あなたは言ってませんね。」

 小さい僕の頭をなでる感触がした。フワリフワリと、軽い感触。

「神様…ボクは、どうすればいいの?」

「一緒にいることです。大切な人達と一緒にいることですね。」

 神様は相変わらず、緩やかなリズムで話した。

「ねえ、神様。神様は何処にでも現れるの?」

 小さな僕は言った。そして、こう言った。

「いつも何処かに存在はしているのですよ。でも、私を受け入れない人間がほとんどです。だから、私はそれに傷ついて、形がなくなってしまいました。」

神様は笑った。とても優しく。でも、何処か切なく。

 何かが弾ける音がした。

「あなたに、私の姿は映りますか?」

 小さな僕は肯いた。肯いて、手を伸ばした。そして、ニコリと笑った。

「在、あなたの名前は素敵ですね。どうか、存在の場を失ってしまった彼女を救ってあげて下さい。あなたの中に彼女の居場所を作ってあげてください。」



 変化は常に起こり続ける。

 その朝、神様に出会ったことで、不安と期待が入り混じった中途半端な感覚にしばらく戸惑った。

 琴羽が神様と約束した修行の内容はよく分からないが、もしも、その修行が終わってしまったら、彼女は一体何処へ行くのだろう?

本当に、ミワコの所にいるのかと、心配になった。

そして、それは、とてもリアルに的中した。重い空気に僕は負けてしまいそうだった。


「在、琴羽さん来てる??」

目覚めてから、頭が少し正常に働き出してから、ミワコから電話があった。

僕の胸が急に痛んだ。

「いない。昨日の夜はいたけど、そのあと、ミワコのうちに帰ると行って帰ったけど。いないのか?」

「朝、いないことは結構あったんだけど、朝食はいつも用意されてるでしょう?今日はそれがなかったの。そういうの、きちんとしてる人だから、ちょっと心配になって。」

 僕は電話を切ると、コートを着、外に出た。雪が降っていた。

大粒のその雪がさらに僕の心を締めつけた。この寒空の下、琴羽はいったい何処にいるのだ?

 思いつく場所はなかった。それは、僕が琴羽と共に外へ行動をしたことがなかったからだ。いつだって、一人で行動し、一緒にいるのは、家の中だけだった。

 琴羽を分かってやろう、守ってやろう、そう思った時に、いなくなる。

 神様と再会したのに、彼女はいないのだ。神様の悪口を声に出して言おうかと思った。

会うと、僕を不安にさせる歳月の神様。


 僕はコンビニや、本屋、ファミリーレストラン、など、近所にある、琴羽が居そうなところに足を運んだ。黒くて髪の長い女を見る度、ドキリとした。リュック姿の人にも過剰に反応したりした。情けない。

「在!」

パチンコ店から、出た時、僕を呼ぶ声がした。僕はビックリした。ミワコだった。

「お前、仕事。」

「さぼっちゃった。だって、琴羽さんが心配だもの。いた?」

「いや。いないけど。ミワコ、変わったな。」

「魔法がかかったのよ。きっと。素敵な魔法でしょう?」

ミワコの笑顔に救われた。きっと情けない顔をしたのだろう。ミワコは

「在、変な顔。あはは。可愛いかも。」

と言って、さらに笑った。

「鼻、真っ赤。」

「寒いからよ。」

 二人で笑った。今までにない関係がそこには成立していることは確かだった。

「ねえ、この前の海に行った?」

「まだ。海か、琴羽、海にいるかもしれないな。」

 お互いに肯くと、一度、二人で、僕の家に帰り、車に乗り込んだ。

以前、あの海に行く時、こうして、ミワコと沈黙の道を進んだが、今回のその道のりでの、沈黙の質は違っていた。とても優しく、そして、とても真剣に必死な。そんな沈黙。


「今日は、ホワイトクリスマスだね。」

 

 冬の海は嫌いじゃない。冬自体も嫌いじゃないからかもしれないけれど。誰もいない静かで切ないあの雰囲気が好きだ。

 波の音もはっきり聞こえるほどの静けさは、とても落ちつく。僕は一人で、冬の海にやって来て、何をするでもなく、浜辺に座り込み、何時間も海を見ていることがある。

そして、決まって、馬鹿みたいに熱を出してしまう。

 それでも、また、海へ出て、同じことを繰り返してしまうのだった。


 琴羽の姿は、その海には、見当たらなかった。僕らに不安が襲う。まさか、自殺なんかしたりしないだろうか、と、ふざけたことを考えた。いや、それはない。ないはずだ。たぶん。

確証があればいいのに。これだ、と言う確証があればいいのに。

 ミワコと繋いだ手が、震え出した。寒いのと怖いのと。ミワコも僕と同様に震えていたように思う。自分の震えか、彼女の震えか。


 僕らは、しばらく、その辺りを歩いた。雪が降っているために、午前中とは言え、とても暗い。やはり、琴羽の姿はない。人影ひとつないのだ。

それはそうだ。こんな日に、海にいるのは、きっと僕らくらいだ。


 随分歩いた…。その時。

「あそこ!」

 ミワコが指さした方向に視線を移すと、リュックらしきものが見える。僕らは走った。

 まさか。

「琴羽のだ!」

 僕は、全身が凍りつくかと思うほどの寒気を感じた。辺りを見回したが、琴羽の姿はない。

ますます不安になる。

「何で…」

 僕らは顔を見合わせる。どうしていいのか、分からない。ミワコが今にも泣きそうな顔をする。



「なに、してるの?」

 声をかけられた。僕らは、一瞬無表情になる。

 琴羽が手にコーラを持ったまま、きょとんとして、突っ立っている。

 僕らは、うまく声を出せなかった。 そんな様子を見て、琴羽は笑い出す。

「あははー。二人とも、なに、なに?変な顔。」

 力が抜けてしまった。

「お前、な、に、してるん、だよ。」

 ミワコはその場に座り込んで、泣き出してしまった。

「喉乾いたから、コーラを買いに行ってきたの。」

 琴羽は缶を突き出す。

「心配するじゃないの。」

 ミワコは泣きながら、そう言った。琴羽はそんな彼女を抱き締めると、ごめんね、と小さく言った。

「私ね、次の命令を待ってるんだけど、全然。神様が現れないのよ。だから、どうしていいか分からなくなって、気が付いたら、ここにいたの。なんでだろうね?あまりいい思い出の場所じゃないから、ここにくれば、次にすることが分かると思ったのかしら?でも、何も起こらない。いろいろ頭使ったら、喉乾いて。ほら、あそこ、ずっとずっと、向こうに自動販売機があるでしょう?あそこまで、買いに行ってたの。」

 琴羽はミワコを抱いたまま、僕を見て、ごめんね、と言った。

「一緒にいよう。琴羽のかわりに、僕が命令を聞いたから。だから、僕の言う通りにすればいいんだ。」

 僕は、膝をつき、琴羽を抱いた。


 他人が見たら、この光景をどう思うだろうか。頭が少しおかしい集団だと思うだろうか?

そんなことはどうでもよかった。琴羽が今、ここにいると言うことがとても大事だった。そして、ミワコもいることも大事だった。

僕らの上に、雪が降る。静かに静かに降り積もる。


 僕は結局、我侭で、自分勝手で、二人を傷つけた。それでも、今、こうして、ここにいる二人が愛しく、これから、神様の悪口を控えることを誓った。


「三人で、暮らそう。大きい部屋借りよう。」

 ミワコは、そう言った。琴羽は僕を見た。ミワコも僕を見た。

「いいよ、三人で暮らそう。」

「お金はあるよ。」

 僕とミワコは笑った。琴羽も笑った。

すると、琴羽は立ち上がり、持っていたコーラの缶を思いきり振り始めた。そして、ニヤリと笑う。その缶がプシューッと音を立て、中の液体が飛び出した。


「メリー・クリスマス!!」

 笑い声が、寒空の下、クリアに響く。


 僕らはいつまでも、一緒にいるだろう。お互いのすべてをこれから、話し合うだろう。恥かしいこと、くだらないこと、大切なこと。


すべてを…。


 三人の関係はどうなっていくのだろうか、全く想像はつかなかったが、怖くはなかった。悪くなることはないと思う。喧嘩や言い争いがあったとしても、一緒にいる。そんな感じ。その思いはどこから来るのか?それは歳月の神様に会えた人だけが分かる不思議な力かもしれない。

 

僕の家に帰る途中、素敵なことが起こった。

 それはミワコの一言だった。その一言は、とてもとても新鮮で暖かくて、胸が高鳴った。

僕と琴羽は大きな声で、笑った。

ミワコは笑わないでって言ったのに!と、顔を真っ赤しながら、後部席で叫んだ。


『ねえ、笑わない?笑わないでね。歳月の神様って知ってる?』

 謝々。歳月の神様。運命の愛すべき人。


Fin                            


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ