008.異変③
人の気配はまるで感じられない。だがひよりは既にその中に誰かがいるのだと思い込んでしまっていた。
音を立てないようにゆっくりとバスタブの蓋に手を掛ける。
しかし、今にも口から飛び出していってしまうのではないかと思うほどバクバクと大きく鼓動する心臓を持て余しながら、ひよりは思わず躊躇した。
この蓋を開けたら、その誰かが中から飛び出してくるかもしれない。もしかしたら、向こうは凶器を持っているかも。恐ろしくないのかと問われれば、否定はできない。
だが結局、非日常への好奇心が恐怖心を上回ったのだろうか。ひよりはこくんと息を呑んで覚悟を決めると、バスタブの蓋を一息に持ち上げていた。
「…………」
バスタブの中には人どころか何も入っていなかった。目下にはがらんとした空間が虚しく広がっているばかりだ。
「……はぁ」
ひよりは詰めていた息をふと吐き出す。安心したような、肩透かしを喰らったような、複雑な気持ちだ。ひとまず危険はなさそうだと判断してなで下ろしたその胸には、じわじわとした気恥ずかしさが襲いかかってきていた。
(あはは、事件なんてそうそう身近で起こらないよね……)
心の中で勝手に事件を作り上げていたこと。マスターをありもしない事件の被害者にしてしまったこと。とても申し訳ないし恥ずかしいと思いながら、持ち上げていたバスタブの蓋を元に戻そうとする。
「っ!?」
しかし、そのために屈もうとして、ひよりは思わず鋭く息を呑んだ。
視界に入らない真後ろから、彼女の肩に誰かの手が掛かったのだ。
ズキン、と痛みを伴って心臓が大きく跳ねた。
その瞬間、思わずその場で俯き目を閉ざしてしまって、ひよりは酷く後悔する。
(なんで振り返りもせずに目を閉じてしまったの? もしも私がここで殺されるのが運命だとしても、自分を殺すのが誰なのかくらい自分の目で確かめたかった! 何も知らずに死んでいくなんて、絶対に嫌なのに!)
勿論、恐怖はあった。しかし今のひよりには相手の正体も掴めないままに口を封じられることの方が恐ろしく感じられた。
だから、いつ凶刃が振り下ろされるのかとびくびくしながらも目を開けて弾かれるように振り返り、背後にいた人物をキッと気丈に睨み上げたのだった。
「……、えっ?」
だが、その彼女の口から出たのは驚きと戸惑いの声だった。