007.異変②
中は特に変わったところのない玄関に見えたものの、ひよりは一瞬だけ二の足を踏んだ。だが、すぐにこくりと息を呑み覚悟を決めて扉をくぐる。そろりと忍び足で中に入った瞬間、水分を多く含んだ生暖かい空気が彼女の頬をかすめた。その空気に乗って、せっけんの甘くて清潔な香りもふんわりと鼻をくすぐる。
(……誰か、お風呂に入ってるの?)
ひよりは経験則によってすぐにその結論を導き出していた。
ここは間口の狭い建物だ。玄関を入って比較的すぐに廊下は右に折れ曲がっていて、ひよりには突き当たりの壁しか見えない。しかし空気の流れと共にやってくる湿った空気は誰かがバスルームを使っていることを確かに示していた。
すぐに先ほどまでと同様にサスペンスドラマ的な考えが先に立ち、ひよりはマスターを手に掛けた犯人が低く不気味な鼻歌を歌いながらバスルームで返り血を洗い流している場面を想像する。
ひよりは一人、身の毛がよだつような気持ちで立ち尽くした。
しかし、もし本当に誰かがマスターに危害を加えたのだとすれば、こんなことをしている場合ではない。ひよりは口をへの字に曲げこくりと喉を鳴らすと、腹をくくって足を踏み出した。
緊張に棒のようになった足を無理矢理動かして玄関から上がり、そっと廊下の先を覗き込む。廊下の先にはいくつかの扉が見えた。ひよりはその中で一番手前に見える引き戸に目を付ける。雰囲気からして、多分そこがバスルームだ。
ひよりはその戸の前に立つと、取っ手に手を掛けた。そしてなるべく音を立てないようにそっと戸を引き、薄く開いた隙間から中を覗き込む。
やはり中はこぢんまりした脱衣所になっていた。その奥にはきっちりと押し開かれた曇りパネルのはめ込まれた扉が見える。
しかし。
(……誰もいない?)
誰かがバスルームを使っていた痕跡はある。
だが狭い脱衣所にも、バスルームの中にも、誰の姿もない。
それほど広くない空間だ。隠れられるスペースなどは限られているように思えた。
(――例えば、バスタブの中とか?)
そう思うと、蓋のされたバスタブは途端に怪しく見えはじめる。もしかすると、マスターを手に掛けた犯人はひよりの侵入に気付いてそこに隠れているのではないか。
既に妄想と現実はごっちゃになっていた。妄想の中のひよりはサスペンスドラマのヒロインだ。だから、ここで何も確かめずに逃げ帰ることなど、できるはずがなかった。
ひよりはすうと大きく深呼吸をしてから慎重に引き戸を開け、脱衣所に入る。そしてそのまま忍び足でバスルームへと入り、バスタブの蓋を見つめた。