004.ひよりとひなたとマスターと
「ひなたー」
「んー?」
「私、これからバイトいくから、後のことよろしくね」
「んあ? あれ、あいつ今週末まで旅行行ってんじゃなかったか?」
「それが、なんだか旅行を途中で切り上げて帰ってきたらしいのよ」
ひなたが言うあいつとは、ひよりのバイト先であるカフェのマスターのことだった。
マスターは、半分道楽みたいな店を経営しているにしては割と若くて、ちょっとイケメンだ。バイトをはじめた当初はひなたに「経営者の顔で職場を選んだのかよ」と引かれたりもしたけれど、ひよりにはそんな基準でバイト先を選んだつもりはない。
何処で働くか、職場の立地や待遇など細かな条件を照らし合わせて悩んでいた時に、偶然見つけたのがカフェの外壁に無造作に張られていたアルバイト募集の張り紙だっただけなのだ。何しろカフェはこの家からほどよく近いし条件もそこそこ悪くはなかったのだから。
冗談めかして「制服が可愛かったのは割と決め手だったけれどね!」と言ってみたこともあった。それを聞いたひなたは、もしかして求人自体がイケメンマスターの女漁りの一環なんじゃないか、と少し心配してくれた様子だったのだが、残念ながらマスターとひよりの間には今のところカフェのマスターとバイトという関係性を逸脱したエピソードは存在しない。呆気ないほどに健全だ。年の差を考えれば当然なのかも知れないが。
それでも、ひなたは最初のうちはあからさまにマスターを疑ってかかっていた。しかし偵察と称してカフェに通ううちにマスターの人柄と店の雰囲気を気に入ったのか、彼は徐々に店に入り浸るようになっていったのだ。近頃はマスターを「年の離れた兄貴みたいだ」と言って慕うようにすらなっていた。
そのマスターが少し早めの夏休みをとると言って一週間の予定で旅行に出かけたのは今週の頭のことだった。マスターの愛車であるボロいライトバンを運転して行く気ままな旅だという。
その間、カフェは休み。勿論ひよりも休みの予定だった。
だが、出立してまだ三日しか経っていないはずの昨夜、急にLIVELINEにマスターからの連絡が入った。「事情があって旅行を途中で切り上げて帰ってきたから、明日から来られるなら来てくれると嬉しい」というのだ。
無理に来いと言われているわけではなかったし、休みのうちに予定していた家事や用事がいくつか無くはない。だが、ひよりはそのLIVELINEの文面になんとなくいつもの飄々としたマスターらしくない、どことなく焦っているかのような様子を感じ取っていた。それが少し心配だったこともあり、悩んだ末に求めに応じることに決めたのだった。
ただ、ひよりが昨夜のうちに返信した「じゃあ明日いきますね」というメッセージには今もまだ既読マークすら付いていなかった。マスターらしからぬことの連続に、薄らとした不安と気味の悪さを感じていた。
「事情は分からないけど、一応呼ばれてるし行ってくるね」
「おー、オレもあとで行くよ」
ひなたはそう言うと、スマホから顔を上げることもせずに背後のひよりにまた軽く片手を振って見せる。
ひよりはそのひなたを見て小さく眉根を寄せた。
(まったく、横着なんだから!)