Episodo 7
日は完全に沈み、空には大小二つの月が雲の切れ間から覗いている。
白銀の光を地上に投げかける姉月と、その側で寄り添うように輝く妹月。
月齢とともに姉月は形を変えていくが、妹月は自ら発光しているかのように常に円の形を保っている。
地上では焚き火のパチパチと爆ぜる音が響き、勢い良く燃える炎が周りを囲む人間の顔を赤く染めていた。
リンがゼムルに事情を説明している間、ツキミアはずっと沈黙していた。
隣ではトウマがあぐらをかいて焚き火に枝を差し込んでいる。
その様子を見ながら、ツキミアは耐えられなくなったように口を開いた。
「トウマさん。 あの、先ほどのことなんですが」
「なんだ」
「み、見えました?」
「何をだ?」
「……だから、なんていうか、わたしの……。 とにかく見たのかどうかはっきりしてください!」
「落ち着け、逆さ女。 おまえの青いパンツなんかに興味はない」
「きゃ―――!」
顔を手で覆い、ツキミアはその場にうずくまった。
「ミアちゃん、大事な話の途中だから、その話はあとでね」
リンはそう言いながら、持っていた皮袋に手を入れた。
「これ、食べます? おいしいですよ」
その手には、リンゴを乾燥させた携帯食料があった。
一つ自分の口に放り込んでから、ツキミアに差し出す。
無言で乾燥果実を受け取ると、ツキミアはふらふらと立ち上がった。
「……ちょっと、散歩してきます」
疲れきった表情で、ツキミアは焚き火を囲む仲間から離れ、歩き出した。
その時、スラタが音もなく立ち上がり、ツキミアの後を追いはじめた。
トウマは一瞬腰を浮かせたが、遠ざかるスラタの後姿をじっと見つめ、再び座りなおした。
「大丈夫なんですか? 亜人とツキミア殿を二人にして」
その行動に気づいたゼムルも二つの影を見送りながら、トウマに尋ねた。
「心配ない、妙な気配はすぐにわかる。 それに……いや、なんでもない」
言いかけた言葉は気になったが、リンの口から語られた経緯と先ほどの体験の衝撃でゼムルの思考は麻痺しそうになっていた。
背負い袋から学術官が引っ張り出された事に始まり、初めて対面した亜人。
戦う以外で相対することになるとは思いもよらず、ゼムルは無意識に腰の剣に手を伸ばし、冷たい汗をかいた。
しかし、なんとその亜人は捕虜ではなく自分の意志で人間に協力するという。
スラタという名の亜人が年若い学術官と会話する光景を実際に見ていなければ、とても信じることはできなかっただろう。
だが、少しづつ冷静になるにつれ、ゼムルの内にある決意が芽生えはじめていた。
「先ほども説明しましたが、王都からの返事を悠長に待ってるつもりはありません。 ですから、わたしたちをこのまま行かせてくれませんか。 依頼から外れた勝手な行動になりますが、報告は後で必ず」
スラタの存在を隠す作戦が失敗したことで、ゼムルに全てを打ち明ける以外、ツキミア達に選択肢は残されていなかった。
ゼムルが命令違反だと王都に報告すれば、ディアナを助けるどころか軍によって拘束される可能性もある。
スラタ自身も軍が捕虜として連行し、その後どんな処遇がされるのか予想がつかない。
炎をじっと見つめ考え込んでいたゼムルだったが、意を決したように口を開いた。
「わかりました、この件は自分の責任でなんとかします。 王都には詳細を伏せた報告をしましょう。 しかし、条件が一つあります」
ゼムルの言葉にリンが表情を引き締めた。
「不肖わたくし、ニアラ駐屯部隊所属、兵士長ゼムル・レンジオを連れて行ってください」
予想外の申し出にリンは不意を付かれ、トウマもわずかに眉を動かした。
「連れてけって……。 部隊はどうするんですか。 ゼムルさんは兵士長でしょう」
それに対し、ゼムルは笑って答えた。
「剣しか能のない自分に比べ、うちの副兵士長は実に優秀な男で。 任せておいて問題ないです。 ご安心ください」
「そんな大雑把なことで、大丈夫なのでしょうか」
やれやれといった面持ちでリンは炎越しにトウマを見た。
「トウマはどう思います?」
「敵のことが何もわからない今の状況では、使える戦力は多いほうがいい、が……」
言葉を切って、トウマはゼムルを見た。
「亜人の住処に潜入するんだ。 何が起きるかわからない、死ぬかもしれないぞ」
「望むところです。 妹さんを救い出し、亜人どもに一泡ふかせましょう」
ゼムルは胸を叩き、傭兵二人に手を差し出した。
その屈託のない笑顔を見て、トウマとリンも吹っ切れたようだった。
「そうだな」
「そうですね」
トウマとリンも笑み浮べ、三人は固く握手を交わした。
「ミアちゃーん! スラター!」
離れたところから自分たちを呼ぶリンの声が聞こえ、ツキミアは足を止めた。
巨大な木が立ち並ぶ雑木林の中、見上げると真っ黒な葉の隙間から月の光が細い滝のように何本も降りそそいでいる。
来た方向を振り返ると、木々の隙間から焚き火の赤い炎が揺れている。
「はあ……」
ツキミアは小さくため息をついた。
慌てていたとはいえ、女性としてあるまじき姿を複数の男性にさらしてしまった。
しかも、よりによって黒髪の傭兵には下着の色までばっちりと……。
ツキミアは顔と耳を真っ赤にして、頭を抱えた。
「ミ、ミア」
独特の発音で名前を呼ばれ、ツキミアは驚いてスラタを見つめた。
「わたしの名前覚えてくれたんだ。 嬉しいな」
頭を冷やそうと、焚き火から一人離れた時、スラタは自分に付いてきてくれた。
もしかして、心配してくれたのだろうか。
「一緒にいてくれてありがとう。 もうだいじょうぶだよ、みんなの所に戻ろう」
ツキミアはスラタに笑顔を見せると、来た道を戻り始めた。
「ねえスラタ、トウマさんってひどいんだよ。 人の名前を適当に呼ぶの。 ミアでしょ、辞書女でしょ、さっきなんて逆さ女って。 ひどいと思わない? それに、いつもぶっきらぼうで、全然優しくなくて。 いつかお返ししてやるんだから」
独り言のようにつぶやきながら、ツキミアは自分の気持ちに不可解なものを感じていた。
人々にとって悪夢の代名詞である亜人と、暗い夜道を歩いている。
しかし、不安や警戒という感情が湧いてくる気配はなく、むしろ心強く思う自分にツキミアは戸惑っていた。
「でもね、ディアナさんのことになると、周りがまったく見えなくなるくらい感情的になって。 びっくるするくらい、人が変わるんだ。 妹さんのこと、とっても大切に思ってるんだろうな」
そう言って、ツキミアは後ろにいるはずのスラタを振り返った。
だが、そこにスラタの姿はなく圧倒されるような巨木の黒い影が延々と続いてるだけだった。
急に不安な気持ちを感じ、ツキミアはスラタの名を呼んだ。
「スラター、どこに行ったの?」
すると左方の下草がガサガサを音を立て、スラタが顔を出した。
「ふー、いきなりいなくならないでよ。 ……手に持ってるものは何?」
現れたスラタの手に握られてるものを見て、ツキミアは目を丸くした。
「お、ツキミア殿が戻ってまいりました」
ゼムルが指差す先で、小柄な影が二つこちらに向かっていた。
「さきほどトウマ殿が言いかけた、亜人が信用できる理由なんですが。 よければ、教えていただけませんか?」
ゼムルに面倒そうな表情を向けながらも、トウマは口を開いた。
「俺は集中すると人間が光って見える。 光には色があって、敵なのか味方なのかくらいは判断できる」
それを聞いたゼムルは興奮した様子でトウマに詰め寄った。
「それはもしや、合気剣の技では? 精神の力を剣技に応用すると言われる、あの」
「名前はわからん。 俺は師匠に教わっただけだ」
「いやはや、幻の剣技の使い手とは、さすが亜人狩の傭兵ですな」
感心しきりのゼムルをその場に残し、トウマは立ち上がった。
「リン出発するぞ。 今夜中にウッドンまで移動する」
頷きながら、リンはツキミアとスラタを出迎えた。
「それはスラタの夕飯ですか?」
リンの視線の先で、スラタに首の皮を捕まれたうさぎがじたばたと暴れていた。
「気づいたら手にもってて。 どうしたいのか聞いてみます。 辞書はどこだっけ……」
ツキミアは古代語の辞書を探そうと荷物入れに近づいた。
その時、側にいたトウマの様子がおかしいことに気づき声をかけた。
「トウマさん、どうしたんですか?」
うさぎを凝視したまま、トウマは不自然に硬直している。
不審な顔のツキミアにリンが近づき、そっと耳打ちをした。
「ミアちゃん。 ここだけの話ですが、トウマはうさぎが怖い……じゃなくて、とっても苦手なんですよ。 なんでも、小さい頃かくれんぼでうさぎ小屋に隠れた時、機嫌の悪かったうさぎに体をあちこちかじられたらしく……」
「リン、てめえ」
リンに毒づきながらも、トウマの視線はウサギに固定されている。
その話に驚いたツキミアだったが、やがて口元に笑みを浮かべた。
「そっか、トウマさんはうさぎが苦手なんだ、こんなに可愛いのに……。 スラタ、ちょっとうさぎさん貸して」
ツキミアはスラタからうさぎを奪うと、一歩また一歩とトウマに向かって歩きだした。
「なんのつもりだ」
「本当に嫌いなのか、実証しようと思いまして」
後ずさりするトウマに、ツキミアはじりじりと詰め寄る。
「仕返しのつもりか」
トウマの言葉には答えず、ただにんまりとした笑顔を向けるツキミア。
「後悔するぞ。 ……リン、あの生物を排除だ。 報酬は乾燥リンゴ一月分」
「三ヶ月分でお願いします」
「二ヶ月分だ」
「しょうがない、手を打ちましょう。 ミアちゃんごめんね」
リンは爽やかな笑みでツキミアに近づくと、手にしていた乾燥リンゴをうさぎの鼻先に近づけた。
ツキミアの手からうさぎがリンに飛び移り、乾燥果実をかじり始める。
「任務完了です」
空になった両手を呆然と見つめるツキミアの目の前に、仁王立ちのトウマの姿があった。
「さあ、後悔してもらおうか」
「リンさんの、ばかー!」
叫ぶやいなや、ツキミアは脱兎のごとく逃げ出した。
ゼムルは唖然としつつも、笑ってその様子を眺めていた。
賑やかな人達だ、とてもこれから危険な場所に向かうとは思えない。
最後まで彼らの力になろう。
二つの月が照らす新たな仲間たちを見ながら、ゼムルはそう心に誓った。
そうすれば、きっと誇れる自分になれる。
それは予感のようなものだった。