Episodo 5
「こ、こんにちは」
「はじめ、て、あいました」
すぐ側で誰かの声が聞こえた。
もやのかかった意識に流れ込むその声に、なぜか暖かいものを感じる。
「なまえ、おしえて」
「じぶんは、じぶんは……」
たどたどしい話し方。 まるで言葉を覚えたばかりの幼い子供のように。
子供……。 なぜ自分はそう思ったのだろう。 自分たちの仲間に小さな個体はいない。
目覚めたときも、巣穴を逃げ出した後も出会った仲間は同じような姿をしていた。
「もっているひと、ほん」
「しっている、なでぃあ」
『なでぃあ……ナディア!』
その単語が耳に届いた瞬間、スラタの意識は急速に引き上げられ、鮮明になった。
目を開けて周囲を確認し、自分がまだ生きてることに気づいた。
だがうつ伏せのまま、手も足もうごかすことができない。
丈夫な縄で縛られているようだった。
首をゆっくりと曲げると、一人の人間の姿が目に入った。
小柄な人間の女が地面に座り込み、ぶつぶつと何かをつぶやきながら大きな本に見入っている。
さきほどから聞こえていた声の主は、どうやらこの人間らしい。
しかし、自分たちの言葉を話す人間に会うのは初めてだ。
あの人間でさえ、会話はできなかったのに。
……そうだ、ナディア!
この人間は、さきほどその名を口にした。
ナディアのことを知っているのだろうか。
そうならばあの夜のことを伝えなくてはならない。
そう考えつつじっと見つめていると、何気無くこちらを向いた女と目があった。
口をぽかんと開けたまま、女は動きを止めた。
ややあって、手から本を落とした女は小さく悲鳴を上げ、自分に指を刺しながら慌てたように言葉を発した。
しかし、今度は意味がわからなかった。
すると突然、目の前に鈍く光る金属が現れた。
その光を上に辿ると、眼光のするどい人間の男が自分に剣を向けてた。
「おとなしくしてろよ。 ……と言っても通じないか」
トウマは剣を構えながら、剣呑な視線を縛られている亜人に送った。
「辞書女、頼んだぞ」
「じ、辞書女ってわたしのことですか!」
「おまえ以外に誰がいる。 それと、亜人が反抗的な態度をとったら、少しづつぶったぎってやるから安心して尋問しろ」
新たな二つ名を付けられたツキミアは、憤慨した顔でため息をつくと、落とした辞書を拾い上げた。
「トウマさん、最初はわたしに任せて下がっててくれませんか」
剣をちらつかせたまま、話をすることにツキミアはためらいを感じた。
「ミアちゃんの身を案じるトウマの気持ちは十分わかるけど、ここは言うとおりにしましょう」
「それほど案じてねえが……。 しょうがない」
リンの言葉にトウマは不承不承ながらも剣を収め、その場を離れた。
ツキミアは気持ちを落ち着けつつ、意識を取り戻した亜人に視線を戻した。
薄青い光彩の中で黒い瞳孔がツキミアを見つめている。
その眼差しには警戒の色が浮かんでいる気がした。
だが、ツキミアには不思議と不安や嫌悪というマイナスの感情は湧いてこなかった。
途中で遭遇した亜人の目は暴力の衝動でぎらぎらとしていたが、目の前の亜人には静かで理知的な光が感じられる。
『うごけない。 ごめんなさい。 わたしは、あなたとはなしがしたい』
ツキミアはゆっくりと、視線をそらさず語りかけた。
『このほん。 なぜあなたがもつ』
絵本を亜人に見える位置に掲げ、反応を待つ。
本当に言葉が通じるのか、ツキミアには確たる自信はなかった。
亜人の言葉と古代語の類似性を見つけたのは学術省だが、実際のところ省内でもその真偽には意見が分かれていた。
亜人対策に何ら貢献できない文官達の点数稼ぎだと揶揄する者もいたくらいだ。
だが、今のツキミアはその不確かな仮説を信じるしかない。
『はなしがしたい。 きけんあたえることは、ない』
ツキミアの必死な様子をトウマとリンも黙って見守っていた。
『なまえしる、なでぃあ』
その時だった、亜人の体がぴくりと動き、鋭い牙の隙間から呼気と共に何かが発せられた。
ツキミアは驚き、今聞こえた音を頭の中でもう一度再生した。
人間が口から話す音とは異なり、かすれていて、かなり聞き取りづらかったが、たしかにそれは言葉だった。
『もういちど、はなし。 もういちど』
ツキミアは亜人につめより、再度の言葉を促した。
すると今度は、さきほどより大きく明瞭な音声がツキミアの耳に流れこんできた。
辞書をすばやくめくり、ツキミアは翻訳を試みる。
そして、驚きと嬉しさの入り混じった顔で、トウマとリンを振り返った。
「わかる、亜人の言葉がわかります。 この言葉は本当に古代ミズリア語です」
「ミズリアでもミジンコでもなんでもいい、こいつはなんて言ってるんだ」
ツキミアの感動を全く意に介さず、焦れたようにトウマは身を乗り出した。
「発音が不鮮明なので、聞き取れた単語から推測します」
再び辞書に目を落とし、ツキミアは翻訳を始めた。
「えーと。 この人はどこからか逃げてきた?ようです。 そしてその時に誰かに助けられたようなのですが……その人の名を、信頼する。 いや違うな、その人の名前は、な、でぃあ。 ナディアさん!」
ツキミアは顔上げ、トウマと亜人の顔を交互に見た。
「間違いないのか?」
トウマの問いに、ツキミアはこくこくと頷いた。
「どこにいるのか聞いてみろ」
「はい!」
ツキミアが慎重に単語を選び亜人に話しかけると、さきほどより長めの言葉が亜人の口から流れた。
「この洞窟からそれほど遠くない場所、地下の深い所に亜人の住処があるようです。 ですが、人間、わたしたちでは見つけることはできません。 ナディアさんは……そこにいます」
ツキミアを見つめていた顔を伏せ、トウマは長く長く息を吐き出した。
やがて顔を上げると、力強く宣言した。
「妹を助けに行く」
リンも同調したように頷くと、細いあごに指を添え口を開いた。
「人間には見つけられない入り口というのが、ひっかかります。 何らかの仕掛けが施されているとすれば、今まで見つからなかったのも頷けます。 いずれにしても、この亜人に案内役を頼むのが一番だと思いますが……。 ただ、この亜人が本当のことを言っている確証が欲しいですね」
「嘘を付いてたり、裏切りがあったら、その場で仲間の後を追わせてやる。 と、伝えとけ」
真顔で言うトウマにツキミアは渋い顔を向けた。
「協力を頼むのに、脅すようなことはしたくありません。 あ、そうだ。 亜人って呼ぶのも変ですよね、名前を聞いてみますね」
「そんなことはどうでもいい」
意識して笑顔を浮かべたツキミアはトウマを無視して、名前を尋ねた。
かすれ、すこしくぐもっていたが、亜人が口にした短い音声はトウマとリンにも聞き取ることができた。
「す、ら、た。 スラタさんですね。 これからよろしくお願いします」
ツキミアが右手を差し出すと、スラタは不思議そうな眼差しでその手を見つめた。
「ミアちゃん、握手しようにも彼は縛られてますよ」
リンの指摘に、ツキミアは慌てて手を引っ込めた。
「スラタよりも、俺はミアが不安だよ」
トウマは呆れた顔で洞窟の天井を仰いだ。