Episode 2
サイモン・ウルブス王国の国王、ヨハネス二世は不安な日々を送っていた。
亜人戦争と呼ばれる、異形の怪物の大規模襲撃から一年。
軍の懸命な捜索にもかかわらず、敵の本拠地は発見されていない。
長大な王都の城壁を隙間なく囲んだ、黒い獣の大群。
その悪夢のような光景は現在でも国王の夢となって現れ、精神的な負担を与え続けている。
怪物の気まぐれか、何者かの意志が働いたのか王都を滅亡の淵まで追い詰めた亜人の大群は一夜にして姿を消した。
城門を破壊しようとした痕跡と城壁をよじ登ろうとした爪あとが存在しなければ、恐怖に怯えていた王都の人々は悪い夢だったと信じたかもしれない。
その後の軍の調査で、王都から南の方向に位置する町や村が壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出していることが判明した。
生存者の報告によって、南方から王都に向かっての侵攻があったことは間違いなさそうだったが、問題が一つあった。
一番初めに襲撃された街は国境の最南端にある港町だったのである。
王都の周辺を埋め尽くすほどの亜人の大群は海の向こうから現れたのだろうか。
しかし、港の町が襲われた時間帯、運よく漁に出ていた漁師たちは自分たちの船以外、小さな漁船の影さえ見ていなかったし、港にも何者かが上陸した痕跡はなかった。
足取りに関する情報はそこで途切れたが、亜人が全て消えうせたわけではなかった。
少数の群れが王国各地で目撃されており、少なからぬ数の村がその襲撃の対象になっていたのだ。
国王は地方都市の警備強化と亜人の討伐を命じたが、長く平和の時代にあった王国の軍組織は統率と練度に欠け、神出鬼没の亜人の襲撃の後手に回ることが多かった。
このような状況で再び大侵攻が開始されれば、今度こそ王国は滅びてしまう。
その恐怖と不安は、国王の心身を少しづつ蝕んでいたのだった。
「陛下、学術省長官より報告があります」
国王の執務室に入室した老齢の大臣が、うやうやしく頭を下げた。
「書物研究しか脳のない機関が、吉報でも持ってきたか」
大臣を見すえる目には少しの棘と、多大の疲労が浮かんでいた。
まだ六十歳に届かない国王は、ここ一年ですっかり老いてしまった印象がある。
もともと脂肪の少ない体は肉が削げ落ち、しわが目立つようになっていた。
「亜人の言語について、発見があったとの報告です」
淡々と話す大臣に対し国王はあまり興味がなさそうだったが、目で続きをうながした。
「ご存知のとおり、学術研究省は先史文明についての研究を目的としており、古代の文献や書物を解読、翻訳し王国の益にそう技術の発見がその任務でありますが、報告では先史文明の言語と亜人の言語に共通点を発見したとのことでございます」
「あの獣どもに言葉があるという事自体が驚きだが、なぜ城内の活動を主とする学術省官たちがそのことに気づきえたのだ」
国王の疑問はもっともだったが、それに対しての答えも予想の範囲だったのか大臣は澱みなく返答した。
「学術省から王国軍後方部隊に転属になった兵士がおりまして、地方の亜人討伐のおり直接亜人の発する声を確認する機会があったそうです。 その者は亜人の言語に法則性を感じ、独自にまとめた文書を学術省に提出したとのことです」
「意志の疎通が可能であれば、有益な情報が得られるということか。 だが、残忍で凶暴な獣がこちらの問いに答えるとも思えんし、そもそも会話ができるという保障も現時点ではないわけだ」
国王の表情に落胆の表情は見られなかったが、期待の表情もなかった。
もともと学術省に対しては平時の文化発展に寄与するための機関としての認識しかなかったのだ。
「国務大臣、そちの意見はどうだ」
やや考えるそぶりを見せてから大臣は自分の意見を表明した。
「国軍による本拠地の捜索が第一に優先されますが、停滞した戦況を踏まえ、あらゆる手を打っておくべきではないかと存じます」
「ほう、ではどうする」
「亜人の襲撃に際し、学術官を派遣し現地での調査を命じればよいかと」
「言い出した者が言動の責任を負うべきということだな。 よかろう、人選は大臣に任せる。 すぐに取り計らってくれ」
手振りで大臣を下がらせると、国王は深いため息をついた。
「藁をもすがるとはこのことか、研究の徒にまで手を借りることになるとはな」
執務室の窓に寄り添い外を眺めると、厚く黒い雲が天を覆い、城下の街並みを薄闇の中に沈めていた。
一瞬、王国の未来を暗示しているかのようなその景色に、国王は背筋に冷たいものを感じたが、頭を一つ振ってその考えを追い払った。
その数日後、辺境の村で亜人襲撃の報があり、一人の若い学術官が現地に赴くことになる。
任官して間もないその女性文官が亜人の真実に近づき、自ら行動をおこす事を予想する者は、国王を含め誰一人としていなかった。