Episode 1
「敵が近い。 ミア、後ろに下がれ」
低い声でそう指示され、ツキミア・リーゼンは慌てて数歩下がった。
まだ幼さの残る顔に緊張感を漂わせ、前方に目を凝らす。
黒々とした闇が垂れ幕のように視線の先をさえぎり、敵と言われても何も見つけることはできない。
「大丈夫ですよ。 ぼくから離れないでくださいね」
隣に立つ男がその様子に気づき微笑みかけた。
不安を悟られた気恥ずかしさを覚えながら、ツキミアは小さくはい、と頷いた。
隣の男が持つランプが、周囲の闇を淡い橙色に上書きしている。
色味の少ない洞窟内の景色はツキミアの現実感を希薄なものにしていた。
それにしてもと、内心で前置きをし、ツキミアは背中を向ける男につぶやく。
「トウマさん。 その呼び方なんですが……」
「言っただろ。 任務中の略称は傭兵の流儀だって」
前方に注意を向ける男は振り返ることなく、ぶっきらぼうに言い放った。
釈然としないが、反論の言葉が見つからずツキミアは沈黙した。
「郷に入っては郷に従え、ですよ。 ミアちゃん」
隣の男も傭兵の流儀とやらを守っているらしい。
「リンさんまで略さないでください」
ツキミアは耳が赤いことを悟られないように、フードを深く被りなおした。
家族以外に愛称で呼ばれたことなど、経験がなかった。
三人が進んできたこの洞窟は閉鎖された鉱山の跡地だった。
かなりの年月が経ってるらしく、朽ちた作業道具が所々にころがっている。
横並びに歩いたとしても幅と高さに余裕がある坑内だが、唯一の光源はリンの持つランプだけだった。
光量に乏しい灯りは周囲の岩盤を照らし、ゆらゆらと妖しい陰影を作り出している。
「リンさんにも暗闇の奥が見えるのですか?」
立ち止まって警戒を続けるトウマを見ながら、ツキミアは小声でたずねた。
「まさか。 ぼくは普通の人間だからね、トウマのような野生動物とは違うよ」
「聞こえてるんだよ」
トウマの不機嫌な反応にリンは苦笑した。
「ほら、耳のよさも動物並みだろ?」
ツキミアもつられて笑顔を浮かべる。
軽口を言い合う二人と任務のために合流したのは、二日前のことだ。
王都の城壁に設けられた出口の一つ、西城門でツキミアは自分の護衛と対面した。
初めて会った時も、二人はこうしてやりあっていたっけ。
ツキミアはその情景を脳裏に思い起こした。
濃い藍色の空が少しづつ透明度を増していく早朝、城門にはすでに出発の準備を整えた男二人が待っていた。
傭兵が護衛に付くという事前説明を受けていたツキミアは、いかめしく筋骨たくましい壮年の男を想像していたのだが、それは勝手な思い込みであった。
二人組みの護衛は文官養成学校を卒業して一年も経っていないツキミアと、年齢的にさほど変わらないように見えた。
しかし、その思いはお互い様だった。
二人は少女にしか見えないツキミアが、依頼のあった護衛対象なのか一瞬判断に迷ったのだ。
「護衛担当のリンです。 よろしくお願いします」
赤みの混じった金の髪を持つ男はそう言って微笑を浮かべた。
柔らかく上品な物腰は、傭兵というより裕福な貴族の子弟を連想させた。
もう片方の男は、どこか不機嫌そうな表情でツキミアに一瞥をおくり短く名乗った。
「トウマだ」
多少くせのある黒髪を無造作にかきまわすと、それ以上口を開こうとはせず所在無げに城壁を見上げた。
「愛想は見てのとおりまったくありませんが、単なる人見知りなのでご安心ください」
リンが相棒の短すぎる自己紹介に注釈を付け足すと、トウマも間髪いれず言い返した。
「うるさい。 おまえは愛想がありすぎるんだ」
二人のやりとりで初対面の固さがほぐれ、ツキミアは自分がまだ名乗ってないことに気づいた。
慌てて外套のフードを下ろし頭を下げる。
「学術省研究官、ツキミア・リーゼンです」
肩元に流れる淡い褐色の髪が、外気にさらされふわりと揺れた。
「来たぞ」
回想に沈みかけたツキミアの意識をトウマの声が引き戻した。
気を引き締めなおし、前方を見据える。
「リン、援護頼む」
「了解です。 ミアちゃんはお任せください」
余裕を失わない二人のやりとりを聞きながら、
ツキミアの鼓動はさらに速まっていった。
通路の先がぼんやりと明るくなった。
前方の道は右に湾曲していたらしい。
光の面積が増すと同時に、通路の角から四つの人影が現れた。
影は数歩進んだところで、そろって動きを止めた。
そして次の瞬間、猛然と走り始めた。
ツキミアの目にも、それははっきりと見えた。
小柄だが、肉付きの良い体躯。
体に巻き付けられた獣の皮。
そして人類と異なる決定的な違い。
人型の体の上に乗る、獣の顔。
「犬型亜人!」
思わずその名が口をついて出た。
短い体毛に覆われた頭部と長く垂れ下がった耳。
突き出た鼻の下には鋭く黄色い歯が並んでいる。
その隙間からはみ出た長い舌から涎を撒き散らし、意味のわからぬ雄叫びをあげていた。
それが亜人と呼ばれる異形の生物とツキミアの初めての遭遇だった。
ツキミアの近くで鋭い弓弦の音が鳴った。
同時に先頭を走っていた一匹が顔を仰け反らせ、ぐうとうめき声を発して後ろに倒れこんだ。
よく見ると口から細長い何かが生えている。
リンの両腕にはいつの間にかクロスボウと呼ばれる、小型の弓があった。
残る亜人は一瞬ひるんだ様子を見せたが、勢いは衰えなかった。
それぞれが手にした剣や斧を構え、一番近いトウマとの距離を詰める。
三方向から同時に襲いかかった攻撃をトウマはわずかな動きでかわし、中央の亜人に横薙ぎの一閃を送った。
首の半ばから切断されて血しぶきを上げる亜人には目もくれず、そのまま右隣の亜人の左肩を切り下ろす。
断末魔の叫びすらあげる間もなく、二匹の亜人は自身が作った血溜りに崩れ落ちた。
残った一匹はあっけなく仲間を失ったことに動揺したのか、剣を構えながら後ずさった。
「おい、おまえ。ディアナって名前に聞き覚えはないか?」
トウマは言いながら、血の跡が残る剣を亜人に向けた。
リンが振り返り、ツキミアに頼むよと囁く。
初めて間近で見る激しい戦いに呆然となっていたツキミアだったが、その言葉でトウマの意図を理解した。
亜人から言葉を引き出そうとしているのだ。
いまだ生態と出自が謎につつまれている亜人に対しての、意思疎通をともなう接触。
それがツキミアに与えられた任務であり、古代語に精通した学術官の役目だった。
「なんとか言えよ、この野郎」
威圧の響きがこもった口調にリンは小さくため息をついた。
「それじゃあ、街のゴロツキですよ……」
「ミア! おまえも何か話しかけろ」
たしかに亜人が動きを止めている今が絶好の機会だ。
ツキミアは慌てて背負い袋をおろし分厚い古代語の辞典を引っ張り出そうとした。
その様子に気づき、呆れたトウマがわずかに肩の力を抜いた。
「覚えてないのかよ」
それを油断と感じたのか、亜人が唸り声をあげて切りかかった。
頭部を狙って振り下ろされたその一撃をトウマは剣を横に傾けて受ける。
激しい激突の衝撃で剣から火花が散り、洞窟内を一瞬白く染めた。
トウマはそのまま力任せに振りぬき、がら空きになった胴に剣を叩き込んだ。
逞しい肉体を切り裂かれた亜人は盛大に血を噴出しながら絶命した。
剣を鞘に収めて振り返り、トウマはようやく辞典を取り出したツキミアを見やる。
「おまえは本当に学術官なのか?」
冷ややかな視線にツキミアは慌てて抗弁した。
「わたしはまだ任官されて半年です! 辞書もなしに古代語を翻訳できません!」
「自分の未熟を自信満々で言いやがって。 他に人材はいなかったのかよ」
気遣い皆無のぼやきに、ツキミアは軽く頬をふくらませた。
「ミアちゃん、やつらがこっちに向かってくる時、何か叫んでいたよね? あれはどう?」
リンとしては助け舟のつもりだったが、ますますツキミアを追い詰める結果となった。
「ガウガウ、ガウウと聞こえました。 意味は不明です……」
消え入りそうなツキミアの声に護衛二人は憮然と苦笑、二種類の表情を浮かべた。