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恋文【連載版】  作者:
3/3

3.思ひそめてん

 一月も終わりに差し掛かった、ある冬の日のこと。

 私たち三年生は明日から自由登校なので、今日は実質高校生最後の授業となる。数学、物理、体育など、どんどん終わりを告げていく授業と、終了直前に行われる担当教師たちの挨拶にしんみりとした気持ちになりながらも、私には密かに待ち望んでいたことがあった。

「次……七限目は、古典かぁ。これでホントに、高校で受ける授業は最後だね」

 友人が何気なくといったように発した言葉に、そうだね、と半ば無意識に答える。

 一つ、また一つと卒業の証が近づいてくるのを感じて、一抹の寂しさが胸を過ぎる。そして同時に、大人になることに対する――つまり、あの人に一歩近づけることに対する、喜びにも似た気持ちが湧きおこった。

 自分の席で頬杖を突きながら、教卓をぼんやりと見つめる。やがて、授業開始のチャイムが鳴る少し前に、あの人が姿を現した。

「先生、それはなんですか」

 前の方の席に座る一人の生徒が、先生の抱えるものを指さしながら尋ねる。

 先生の手元に、よく見ると教科書らしきものは一つもなかった。代わりに、図書館で借りてきたかのようなハードカバーの太い本が数冊抱えられている。

 先生はそれらを教卓にどさりと乗せながら、あぁ、と呟いた。

「今日の授業で使おうと思いましてね。上から順に古今和歌集、万葉集、後撰(ごせん)和歌集」

「あ、一番下は小倉百人一首」

「よく御存じで。……まぁ、後撰和歌集以外は名前ぐらい聞いたことがあるのではないかと思いますが、やはり小倉百人一首あたりが君たちにとっては馴染み深いでしょうか」

 一番下の本――小倉百人一首を抜き取ると、パラパラとページを捲っていく先生。重厚なハードカバーに触れるしなやかな手も、伏せられた長い睫毛も、僅かに動く薄い唇も、途切れ途切れに聞こえてくる柔らかな声も……彼を構成する部分の一つ一つがあまりに精巧で、その姿につい見惚れてしまった。

 そこで授業開始のチャイムが鳴ったので、先生はパタリと本を閉じた。それを今度は、積まれた本の一番上に乗せる。

 「それでは始めましょうか」という声掛けとともに、学級委員の号令が教室中に響いた。私もまた、重い腰を上げ立ち上がる。

 けれど視線だけは、相変わらず先生の方へ固定させたままだった。


「――というわけで今日は、恋の句をいくつか紹介していこうと思います。平安時代には、自作の歌に花を添えて贈るのが流行ったようです。気に入ったものがあれば、皆さんもぜひ告白のお供にしてみてください」

 なかなかに趣があって、素敵ではありませんか?

 そう付け加えた先生の笑みに、妙に意味ありげな何かを感じてしまった私は、少し考えすぎだろうか。

「最後なんですから、先生の恋の話聞かせてくださいよ」

「時間があれば、またあとでお話しますよ」

「やった~!」

 野次のようにあちこちから飛んでくる生徒たちの声に笑みを零しながら、先生は再び小倉百人一首を手に取った。

「まずは小倉百人一首から。こちらは、かるたで有名ですね。皆さんの中には、一度遊んだことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。百首のうち、恋歌と呼ばれるものは四十三首あります。たとえば……」

 先生の歌うような優しい声が、スッと耳に入ってくる。


「『筑波嶺(つくばね)の峰より落つる男女(みなの)川恋ぞつもりて淵となりぬる』」


 ――筑波山の峰から流れる細い男女川も、やがては大きな川となり淵ができていくように、あなたを恋しく思うこの気持ちも積もりに積もり、やがては深い淵となっていくのです。


「筑波山とは、茨城県に位置する山。西側に位置する男体山(なんたいさん)と東側の女体山(にょたいさん)からなり、そこに流れる川が男女川です。川は上流から下流へ流れ、やがてふもとの方で深い淵ができる。詳細は既に理科で詳しく習っているでしょうが……ともかく、その様子に恋の想いを例えたのが、この句ですね」


「『由良の()を渡る舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋の道かな』」


 ――由良の海峡を渡っていく舟の船乗りが梶を失くしてしまい、行く先もわからずただ水上を彷徨うように、自分の恋の道行きや行く末もどうなっていくのかさっぱりわからない。


「由良というのは、京都府にある由良川の河口のこと。()とは海と川の出合う場所で、非常に流れが激しいところです。そんなところで梶――船を進め、方向を決める水かきのことですね。カヌーやカヤックを思い浮かべて頂ければわかりやすいと思います。それを失くしてしまったわけですから、当然乗った船はどこに行くか分からない。そんな様子に、自分の恋の道行きを例えた句です」


「『今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな』」


 ――あなたへの想いを諦めることにした、ということだけでも、人に頼むことなく自分の口から直接あなたに言うことができればいいのになぁ。


「この歌の作者である藤原道雅は、三条天皇の娘である当子内親王と恋仲にあったのですが、それを知った三条天皇の怒りを受け、失脚してしまうのです。その時に、当子内親王に贈った歌がこれだと言われています。昔は時代が時代でしたから、道ならぬ恋というのはよくあったようですね……ひょっとしたら、今より色恋が盛んだったかもしれません」

 平安時代の恋を語りながら、どこか困ったように笑む先生は、いつもより艶やかな雰囲気を纏っているように見えた。

 クスクス、と控えめな笑い声をあげ、「では、小倉百人一首はこのくらいにしておきましょうね」と、開いていたハードカバーをパタリと閉じる。それから次に、万葉集を手に取り開いた。

「では次は、万葉集。日本最古の歌集と言われる万葉集には、平安時代の和歌集よりも素直で力強い句が多いです。その中でも特に紹介したいのは、こちら」


「『あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖降る』」


 ――紫草の生える野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらそんなことをなさって……野の番人に見られてしまうではございませんか。あなたが私に向かって袖をお振りになっているところを。


「『むらさきのにほへる(いも)を憎くあらば人妻ゆゑに我れ恋ひめやも』」


 ――紫草の色のように美しいあなたを憎らしいと思っているとしたならば、どうして私はこれほどまでにあなたを恋しいと思うのでしょう。あなたは恋をしてはいけない、人妻であるというのに……本当は憎いなどと思っていないから、このようなあなたへの恋心が出てくるのですね。


「有名かもしれませんが、天智天皇の妻となった女性である額田王(ぬかたのおおきみ)と、天智天皇の弟にあたる大海人皇子(おおあまのおうじ)の歌のやりとりです。実は昔、この二人は婚姻関係にあったのですが、別れているんですね。それでもまだ二人とも互いに未練があるんですよ……みたいな感じのことを、宴会か何かで茶目っ気たっぷりに歌ったのがこのやりとりなのだとか」

 その場には天智天皇もいたらしいですが、そういうことをネタにできる辺り三人の信頼関係が伝わってきますね。

 柔らかな笑みを浮かべ、先生はちらりと時計に目をやる。気づけば、授業の時間は残り半分となっていた。

「では、古今和歌集と後撰和歌集を軽く紹介して……残り時間があれば、僕自身が体験した恋の話でも少ししましょうかね」

 フゥ~、と辺りから冷やかしにも似た声が上がる。そんな野次を受けても照れた様子は少しもなく、先生はあくまで上品な笑みを零すと、万葉集をパタリと閉じた。

「古今和歌集と後撰和歌集は、天皇陛下に贈るためにまとめられた勅撰(ちょくせん)和歌集という種類の歌集です。どちらかというと、情緒豊かで上品な句が多く揃っていますかね。それでも、当時の恋の様子は十分伝わってくるのですが……」

 暗記しているのか、今度は本を開くこともなく、先生は目を閉じながらそらんじるようにいくつかの句を口にする。


「『夕暮れは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて』」


 ――夕暮れになると、ついぼんやりと雲の果てを眺めてしまいます。遠いあのお方のことを想って。


「この歌は、実は詠み人知らずなのです。つまり、誰が詠んだのか分からない。夕暮れの遠い空を見つめながら、その人が心に思い描いたのは……果たして男性なのでしょうか、女性なのでしょうか」

 生徒たちが、物思いにふけるように目を閉じる。みんな、それぞれの想い人を心に描いているのだろうか。

 私の想い人は今まさに、目の前で……教卓で穏やかに、けれどどこか熱っぽく、恋の歌を詠んでいるのだが。


「『わが恋を人知るらめやしきたへの枕のみこそ知らば知るらめ』」


 ――私が恋していることを、あの人はきっと知らない。知っているのは、涙に濡れたこの枕だけ。


「『あひ見しもまだ見ぬ恋もほととぎす月に鳴く夜ぞ世に似ざりける』」


 ――思いを遂げられた恋にも、遂げられなかった恋にも。すべての恋には、ほととぎすが月に鳴くこの夜こそふさわしい。


「『我が恋にくらぶの山のさくら花まなく散るとも数はまさらじ』」


 ――暗部山の桜の花びらがどれほど絶え間なく散り続けたとしても、私の散らした恋の数にはきっと比べようもないだろう。


暗部(くらぶ)山とは、京都府にある鞍馬山の古名だという説がありますが、『くらぶ山』という言葉自体が歌枕……つまり、和歌でよく使われる言葉の一つのようです」


「『はかなくて同じ心になりにしを思ふがごとは思ふらむやぞ』」


 ――頼りない気持ちのまま、夢うつつのうちに私たちは心を一つにしたわけでございますが、私があなたを想うほどにあなたは私を想ってくださるのでしょうか。


「『わびしさを同じ心と聞くからに我が身をすてて君ぞかなしき』」


 ――私が感じているこの胸の苦しさ、切なさを、あなたも同じように感じているのだとお聞きしては、もはやこの身がどうなろうとも、ただただあなたのことが愛おしくてたまらない。


「この二つの句は、中務(なかつかさ)(みなもとの)信明(さねあきら)という二人の男女の間でやりとりされたものです。きっと、上手く互いに気持ちが伝わっていないうちに二人は一夜を共にしたのでしょうね。ふと不安を感じて恨みがましげな句を贈った中務に、信明はどうしようもなく愛おしさを感じたのだと思いますよ。……まぁ、このあたりは僕の推測なのですが」

 そこでふと時計を見る先生。授業終了まで残り数分となっているのに気付き、「少し語りすぎてしまったようですね」と苦笑するのが、なんだか可愛らしかった。

「では、最後に僕自身のお話を」

 フゥ~、と再び沸き起こった野次に、ふふ、と先生がどこか悪戯っぽく笑う。

「僕は、かつて百人一首の恋歌の一つを使った告白を受けました。確か『私のあなたに対するこの想いを、あなたはきっとご存じないのでしょうね』といった内容だったと思います」

 言いながら、ちらりとこちらへ向けられた流し目があまりに妖艶で、ドキリと心臓が跳ねた。顔が赤くなっていないかと、心配になってしまう。

「それで、先生はどう返したんですか?」

 クラスのお調子者系の男子が、テンション高く投げかけた質問に、「んー」と先生は少し考える仕草をした。あの日のことを忘れてなどいないくせに、わざともったいぶったようなその様子が、なんだか憎らしい。

「僕も、句で返したかと思いますね。千載和歌集に載っていた句で、『あなたと恋に落ちるのも悪くない』といったような内容です」

「あやふやだなぁ。具体的には、どんな句のやりとりをしたんですか?」

「隠さないで、全部教えてくださいよ」

「隠したつもりはないのですが。結構前の話ですからねぇ……」

 そこで、ちょうど見計らったかのようにチャイムが鳴る。先生はしてやったりというようににやりと笑うと、「では、授業はこれでおしまいですね」と勝ち誇ったように言った。

 えぇ~! という不満げたっぷりな声が上がる。そんな彼らに先生は「嘘はついてないでしょう?」と告げた。どうやら、もうそれ以上のことを話す気はないらしい。いまだにドキドキは治まらないけれど、あのことを全部バラされなかったことに少しだけホッとした。

「じゃあ、最後に預かっていたノートを返却しますよ」

 ブーイングの嵐の中、先生は飄々とした態度で、一人ずつにノートを返していく。一人一人の席へと歩き、一冊ずつ机にノートを乗せていく先生を、私はぼんやりと眺めていた。

 やがて、私のノートを持って先生がこちらへやってくる。ノートを机に乗せられた時、ちょうど顔を上げると、先生と目が合った。

 ニヤリ、と意味ありげに笑まれて、落ち着いていたはずの心臓が再び早鐘を打ち始める。

「中身、確認しておいてくださいね」

 私にしか聞こえないぐらいの声で小さく告げると、先生は他の子のノートを配るために、ゆったりとした足取りで立ち去って行った。

 パラパラ、とノートのページを急いで捲っていく。一番最後に書いたページの端に目をやると、業務連絡風に『放課後、司書室へ』という何ともそっけない一言が書かれていた。

 言葉の意味を咀嚼しつつ、緩む頬をどうにか押さえながらノートを閉じようとして……ふと、手を止める。次のページにも、何やら文章が書かれているような形跡があったのだ。

 不思議に思い、ページをパラリと捲る。そこに書かれていたものを見て、私は大きく目を見開いた。

 真っ白なページの真ん中に、やたらと大きく書かれていたのは、可愛らしい一輪の花のイラストと、先ほどは紹介されなかった新たな三十一文字。


『飛鳥川ふちは瀬になる世なりとも思ひそめてん人は忘れじ』


 ――飛鳥川の淵が瀬になるという、変わりやすい世の中とはいっても、好きになったあなたのことです。決して忘れるはずなどありませんよ。


 いつの間にやら全員分のノートを返却していたらしく、教室から出ようとしていた先生は、案の定生徒たちから次々と質問攻めにあっていた。それでも追及の手をのらりくらりとかわしていく彼は、相変わらずだと思う。

 そんな先生を見つめながら、私は音もなくノートを閉じると、そっと腕に抱きしめた。

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