2.忍ぶることの
本日のお勤めを果たすため学校へと来た僕は、いつも通り職員玄関の下駄箱を開ける。その時、靴を出そうと伸ばした手の横をすり抜けるように、かさり、と音を立て一枚の紙が落ちてきた。
折りたたまれた白いメモ帳サイズの紙を拾いながら、ふと、ひと月ほど前にもこのようなことがあったと思い出す。ひとりの女子生徒の顔を思い浮かべて、僕はクスリと小さく笑みを零した。
恋文とはまた、酔狂なことをするものだ――……初めて貰った時は、ただ単純にそう思った。正直、今でも同じ考えを抱いている節がある。
もちろん、奥ゆかしいと言えば聞こえはいいのだろうが……それでも、かつてそんな手段に出たあの少女に、自分は今やすっかり落ちてしまっているのだから、人生とは何があるか分からないものである。
今回のこれは、再び彼女の仕業か。それとも、彼女のやり方に倣った(かどうかは知らないが)、また別の人間の仕業か。
はたまた、恋文などという甘い響きをもつ種類のものとは百八十度異なる、別の何かか。ひょっとして脅迫状めいたものだろうかと、少しだけ不安が過ぎる。……いや、もちろん恨みなど買った覚えはないけれど。
ゆっくりと紙を拾い上げ、開いて中を確かめてみれば、あの時と同じ筆跡で、文章が一言だけ書かれていた。
僕は一瞬、思わず目を見開く。それから書かれている内容の意味、そして書いた本人の意図を瞬時に理解して、徐々に表情を和らげた。片手で元通りに折りたたみ、スーツのポケットへと滑らせる。
「おはようございます」
「あぁ、おはようございます」
後ろから掛けられた同僚教師の声に、得意のおっとりとした笑みで応えながら、僕は早くも放課後のことに考えを巡らせていた。
――今日もまた、呼び出し。ですね。
◆◆◆
「……失礼します」
どことなく不満げな、耳をそばだてていないと聞こえないのではないかと思うほどに小さな声と共に、一人の女子生徒が姿を現す。自分の席でパソコンのキーボードを叩いていた手を止め、僕は敢えてゆったりとした動きでそちらへと振り返った。
「あぁ、来ましたか」
こちらへいらっしゃい、と軽く手招きすれば、きまり悪そうに、それでも足取りだけはしっかりと、言われた通りにこちらへ近づいてくる。そんな彼女に僕は、僕の席の隣にある、部活の監督に行ってしまった教師の席へと座るよう促した。
この司書室には現在、僕と彼女の他に誰もいない。今のところ誰も来る気配はないし、この後もきっと誰も来ないだろう。いつも使っている職員室ではなく、普段めったに使われていないこっちの部屋へ呼び出したのは、もちろん僕なりの意図があってのことだ。
彼女が僕と向かい合うようにして座ったのを確かめてから、僕は笑みを絶やさぬままにこう言った。
「今日、君をこうして呼び出した理由。分かりますね?」
「わかりません」
クールに振る舞う彼女の口から出たのは、予想通りの淡々とした返答。僕は小さく笑うと、スーツのポケットに手を滑らせ、今朝僕の下駄箱に入っていたあの紙を取り出した。
彼女を始めて呼び出した日と同じように、机の空いたスペースに折りたたまれたそれをスッと置く。
パラリ、と開いて中身を見せれば、彼女の顔が僅かに強張った。
囁くように、僕はすっかり暗記してしまっているそれ――百人一首の一つである、有名な一句を口にする。
「『玉の緒よ絶えねば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする』」
――私の命よ、絶えるならばいっそ絶えてしまえばいい。もしこれ以上長く生きていたら、これまでずっと隠し通してきたこの気持ちがいずれ露見してしまうだろうから。
彼女の頬が、カァッと朱く染まった。色づいた唇が小さく開き、言葉にならない言葉と共に、途切れ途切れの甘い吐息を吐き出す。あっという間に高校生らしからぬ壮絶な色気をまとった彼女に、触れたくなるのをぐっと堪えながら、僕は笑みを深めた。
「どうして、このようなものを僕に書いて寄越したのです?」
恥ずかしそうに目を伏せた彼女は、軽く唇を噛む。それから一転して、キッと強気なまなざしをこちらへ向けてきた。どうやらもう、下手な言い訳をしても無駄だと悟ったらしい。
妙に棘のある声で、彼女は一言こう言った。
「先生なら、とっくにお見通しなんじゃないですか」
私が書いた、この文章の意図くらい。
僕は唇に笑みを刻んだまま、すっと目を細めた。
もちろん、分からないわけがない。君の考えていることなら、僕は手に取るように理解できてしまうのだから。
だけど……簡単にそう即答してしまうのは、いささかつまらない。
不意に生まれたのは、子供じみた悪戯心。
「さぁ、わかりませんね」
「先生!」
彼女が激高した様子で、椅子から立ち上がる。それからすぐに自分の浅はかさを反省したかのように、シュンと小さくなった。「ごめんなさい」と呟いて、もう一度椅子に座り直す。先ほどの扇情的な雰囲気とは打って変わって、それはさながら小動物のように可愛らしかった。
そんな彼女を見て、思わず零れる笑みを抑えきれず、僕はついクスクスと笑ってしまった。恨みがましげな視線に気づき、口元を押さえながら「ごめんなさい」と形だけの謝罪を入れる。
頭に手を乗せ、そのままよしよし、と撫でてやった。
「少し、いじめすぎてしまったようですね」
「っ……馬鹿」
「おやおや、先生に向かって馬鹿は失礼ですよ?」
彼女の頭から手を離すと、僕は少しだけ彼女との距離を詰める。わざと声を低くして、意味深に視線を向けてみせれば、もともと朱かった彼女の頬がさらに染まった。
「それで……どうなんです?」
もちろん、追及の手を止める気はさらさらない。このような彼女の頬を染める姿は艶やかで美しく、また動揺する姿は小動物のように可愛らしい。つまり、困らせれば困らせるほどに彼女は魅力を最大限に発揮するわけだ。
このようなことを考えてしまう自分は、相当に悪趣味なのではないかとも思うけれど……これも愛情の裏返しだと思ってくれればそれでいい。伝わるかどうかは、微妙なところだが。
彼女は真っ赤な顔でうつむくと、ぼそぼそと、小さな声で呟いた。
「――かった、から」
「え?」
彼女との距離をさらに詰め、聞き返す。意地悪ではなく、本当に聞こえなかったのだ。
意を決したように顔を上げた彼女は、思いの外近かった僕の顔に驚いたように一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、少し潤んだ瞳に再び強気な光を宿す。それからまるでやけくそでも起こしたかのように、大きめの声で半ば叫ぶようにこう答えた。
「だからっ、寂しかったんです!」
予想外の言葉に、今度は僕の方が目を見開く番だった。
――寂しかった?
ただ単に、こうして逢引するための口実が欲しかったからじゃなくて?
「どうして……」
口を開きかけて、ハッとする。
こちらを一心に見つめる彼女の瞳は、先ほどと違って不安げに揺れていて……今にも、滴が零れてしまいそうだった。唇を噛む姿は、何かに耐えているようにも見える。
確かに、ここで彼女と『恋に落ちてみないか』と言ったあの日から、僕は彼女のことをほとんど構っていなかった。こうして彼女を呼び出して二人きりになったことだって、あの日以来今日まで一度もなかったのだ。
僕自身、仕事が忙しかったために構えなかったというのももちろんある。けれどそれ以上に、教師と生徒ということで、普通の恋人同士のように付き合うにはそれなりに他人の目を気にしなければならなかったし、彼女だって受験という一大イベントを控える大事な年だったから、どこかで遠慮していたのかもしれない。
僕なりに、彼女を大切にしたかったから。僕のせいで、不用意に傷つけたくだけはなかったから。
けれど……それが逆に、彼女を傷つけていたのだとしたら?
今まで何も言ってこなかったから、彼女はきっと僕がいなくても大丈夫なのだろうと思っていたけれど……本当は、ずっと我慢してきたのかもしれない。本心を、隠し続けてきたのかもしれない。
それこそ、あの紙に書かれていた句のように。
本心を隠し、耐えることに疲れたあまり、いっそ死んでしまいたいとさえ考えるほどに……いや、死んでしまいたいというのはさすがに大げさかもしれないけれど、とにかくそれほどまでに彼女が追い詰められていたのは間違いない。
膝の上で握りこんだ拳に力を込め、うつむいたままぷるぷると震えている彼女の手を取ると、そのまま自分の方に引き寄せる。座っていた椅子から離れ、僕の腕の中にすっぽりと収まった彼女の身体は、突然のことに驚いているのか、ガチガチに固まってしまっている。そんな背中を、安心させるように優しくポンポン、と叩いてやった。
彼女の身体から力が抜けたのを見計らうと、真っ赤な耳に唇を寄せ、吐息交じりに囁く。
「『春たてば消ゆる氷の残りなく君が心はわれにとけなむ』」
――春が来れば溶けて消えてしまう氷のように、あなたの心もすっかり私に打ち解けてほしいものですね。
「……っ」
彼女が息を呑んだのが分かる。何か言われる前に、僕は声のトーンを変えぬままさらに言葉を続けた。
「人の目もあるから、君が卒業するまでは色々連れ回したりできないけど……これからはできる限り、構ってあげられるようにする。だから、遠慮しなくていい。いつでも……こうやって、逢いに来てくれていいんだよ」
だって僕たちは……恋人に、なったんでしょう?
「先生……」
背中に華奢な手が回され、ギュッと抱き着かれる。小さな身体のぬくもりが愛おしくて、僕もまた、抱きしめる腕に力を込めた。
「ふふ。それにしても、君の方から行動を起こしてくれる日が来るなんて、思いませんでしたよ」
まぁ、かなり遠回しではありましたけれどね。
茶目っ気たっぷりな声と表情でそう口にすれば、顔を上げた彼女はむぅ、と不満げに唇を尖らせた。
「私だって……先生の敬語が抜けた言葉遣いが聞けるなんて、思いませんでした」
きっと、精一杯の意趣返しのつもりだったのだろう。
僕は小さく笑うと、黙って彼女の顎に手を掛けた。何かを感じたのか、彼女が真っ赤な顔でギュッと目を瞑る。
いい子だ、と小さく呟いて、そっと顔を近づけた。