狩りする少年(下)
他サイトでは公開している章の後半部が長らく投稿されていませんでしたので、改めて投稿しました。
「承知した」
雲の去った方に告げて踵を返すと、元来た道が微妙に上り坂になった。
行く先では子敬の黒い鴉羽の扇が招くが如くひらひらはためき、狗が少年に先立って多勢に向かう。
だが、少年は歩みを早めない。衣の裾に貼り付いた狗の毛を取り払う手だけが忙しげに動いた。
主たる少年との距離が半ば程縮まると、臣下の一団も緩やかに動き出す。
と、一群の後尾から、先ほど捕らえられた獲物の白兎を抱いた侍従が直に吐き出された。
肩幅広く、ずんぐりした体つきをしているものの、まだ年配としては従僕たちの中でも一番幼い少年である。
まるで童女が人形でも抱く様に死んだ獣を両腕に納めていた。毛繕いでもする気なのか、虱取りでもしているのか、幼い侍従は蟷螂を捕らえた叢で目にした時と変わらず俯いたまま白い毛皮を摘んだり撫ぜたりしている。
すぐ前を歩く幾分年嵩らしき侍従が、その様を顧みて何事か口を動かすのが認められた。険しい表情からして、もたもたするな、とでも言ったのだろう。
すると、兎を更に強く抱きしめる格好で、少年の侍従は上目遣いにおたおたと足取りを早めた。
一歩踏み出す度に兎の尻に少年の膝が当たり、死んだ獣の下肢が大きく反り返る。
何と呆けた奴か。
普段なら吹き出したくなる光景に、主たる少年は思わず自分と同年配に見えるその従僕を張り飛ばしたい衝動に駆られ走り寄った。
「おい」
語気鋭く駆け寄る王太子の姿に従僕たちは一瞬固まった後、跪いて目を伏せる。兎を擁した少年も同様である。
前方の重臣たちもどうした事かと立ち止まる。
「お前だ」
熟し切らぬ齢を滲ませた太子の声が、足元にぬかずく従僕に落ちた。最も幼い従僕は、まるで守るかの様に息絶えた兎を胸に引き寄せたまま恐る恐る顔を上げた。
「獲物を見せてくれ」
命じる少年の声音は、ごく僅かにだが、穏やかなものに転じていた。
狗みたいな顔だ、と自分を見上げる従僕を眺めて思う。何か言い掛ける様に口を半ば開けているのは、本人には意図せぬ所作なのだろう。
主君たる少年は想像の中で眼下の従僕の鼻先に墨を塗る。そうするとますますその顔は狗に近付く気がした。
儂が仮にそんな戯れを働いてもこの者は辱められたとも思わないのだろうか。
自分を見上げる僕の目に畏怖や鈍重な忠実を認めると、少年の中で癇癪じみた怒りが急に解けていく。
何故一瞬でも激しい怒りを抱いたのか我ながら訝しく思った。
「良い兎だ」
少年はまるで眼前の僕が獲物を仕留めたかの如く告げると、兎越しに相手に微笑みかけた。
「そちの名は?」
薄く膜を通した様な従僕の眼光がたじろいだ。
「狗児と申します」
隣の従僕が代わりに答えた。先刻、叱り付けていた者である。
「狗に似ておるからか?」
太子たる少年は肩を揺らして笑う。
「それもございますが、昔は少々懲らしめただけでもわんわん泣きましたので」
跪いた従僕たちの間に押し殺した笑いが広がった。
狗児と呼ばれた従僕の少年は、殺された兎を高く掲げた態勢のまま、太子の肩越しに広がる空を見ている。
虚ろな鈍色の目に、流れていく雲が映っては通り過ぎる。
主の少年は、見下ろす相手の擦り切れた袖口から抜き出た裸の両腕に、治りかけの切り傷や痣、火傷の痕が点々と現れているのを見て取った。
「狗児、か」
声に出して従僕の名を繰り返しながら、少年は胸中自らの名を書く。
夫差。この名にはどんな謂われがあるのだろうか。
字面から卑屈な意味合いは読み取れない。
だが、この名が自分に与えられるまでには、型通り聞かされた以外の事情が含まれているのかもしれなかった。
白兎を通して従僕の面から肩にかけて落ちた自らの影を、夫差は視野で象る。
まだ字も知らない頃に自分を撫でた甘く優しい声の響きがおぼろに蘇って消えた。
それは仮に存在したにせよ、曖昧模糊とした過去の中に仕舞い込まれ、遂に捕らえる事が叶わないのだった。
母上も、既に亡い。自分の影に紛れながらも、鋭く通り抜けていく微小な影の形が夫差には透いて見える気がした。
「狗児、気を付けて持て」
「畏まりました」
そこで、従僕は初めて声を発した。
意外にも明確な語調で、しかも、夫差の年配に特有の割れた声ではない。
この者は、見かけよりもう少し年上なのかもしれない。
兎を腕に抱き直す狗児を見下ろしながら夫差は改めて思う。
この者もきっと昔は母親の腕に抱かれ、別の名で呼ばれていたのに、今はその名を忘れて侍従をしているのかもしれない。
白兎を抱きかかえた腕に残る、無数の黒ずんだ古傷の跡を眺めると、そんな思いも過ぎった。
「おお!」
背後の声が夫差の想念を打ち破る。
夫差が振り返ると、子胥の灰色の頭が目に入った。
少年の視線に背を向けたまま、老人は構えた弓を静かに落とすところであった。
「鷹ですか」
一団の前方から声が飛び出たが、甲高さで子敬と知れる。呼びかけた声は、語尾に何やら湿った笑いを含んでいた。
今の小さい雲の影は、実は鷹だったのだと夫差は気付く。
狗児ならぬ本物の狗が、新たな獲物を食わえて子肯の足下に駆けつける。
その様子に夫差は急速に両足の痛覚を取り戻した。
子胥の広い背中が息急く狗に向かって屈む。
狗が食わえた鷹は矢を腹に刺しつつもまだ息があり、鋭い爪を剥きだして脚をばたつかせている。
子胥の赤黒い手が体を掴むと、鳥は銅板を引っ掻く様な声を立てた。
夫差は身震いする。
老人はおもむろに主の少年に向き直った。
「まだ生きておるではないか」
早く殺せ、という言葉が、言い掛けた夫差の喉元で詰まる。
子胥は夫差の顔を見つめながら、懐から匕首を取り出した。
鷹は喚き続けている。矢に貫かれた腹が赤茶を滲ませつつ激しく上下した。
――殺せ。殺せ。早く殺せ。
夫差には何故か鳥がそう自分たちを挑発しているかのごとく映った。
子胥の双眸は相変わらず立ち尽くす少年の主君に注がれている。その一方で鳥の首を掴む赤黒い手が握り締められていくのを夫差は認めた。
絞められた鷹がギョロリと目を剥くのが、離れた地点に立つ夫差からも確かめられた。
子胥は突然倒れ込む様に青草に膝を着いた。草の激しくガサつく音がする。
――殺せ。殺せ。一思いに斬れ。
きつい沓が夫差の両足を締め上げる。
――殺すな!
子胥に釘付けられた一団の目に稲妻が走り、青草から覗く白髪頭から鮮血が散った。
夫差は弾かれた様に子胥に走り寄る。従僕の少年も狗の如く太子の後を追った。
「往生際の悪い奴ですな」
子胥は首と体が切り離されてもまだ僅かにわなないている鷹の爪を示した。血塗れの老人の顔は綻んでいる。
「所詮、畜生だからな」
そう応える少年は笑わない。
「ほう、見事な羽ですな」
いつの間にか子敬がやってきて扇子を口元に当てている。扇子の上の目が、朱に染まった鷹の羽を眺めながら、値踏みする様に細まる。
「一度で仕留めなければなりませんでしたわい」
疲れを滲ませた顔で呟くと、子胥は袖で顔に浴びた血を拭った。
「三日前、陛下にお供した際は、鵠を一矢でお仕留めになりました」
だが、老人がその言葉を未だ語り終えぬ内に、夫差は無言で日の傾いた緑野を歩き出していた。
伍子胥が鷹に止めを刺すのに使った匕首とは短剣のことです。