-08-
「いらっしゃいフィアニス。無事にアシュリーの護衛になれて良かったわ。」
穏やかな笑みに迎えられ、フィフィは促されるまま椅子に腰かけた。
「お陰様で。ありがとうございました。でもあれ」
「殿下の体勢を崩す機会なんてそうそう出来ないのよ?とても良かったわ。」
「それって俺の事を喜んでくれてるんじゃなくて殿下の」
「そうそう、アシュリーにはきつーいお仕置きになっただろうから、今後は貴女の事を認めざるを得なくなるわね。無理矢理追い出そうなんて考えないでしょうから、安心なさい。」
「………ありがとうございます。」
ニルの笑顔と口調に完全に主導権を握られ、フィフィは口を出すのを諦めた。ニルの隣でユンファがにこにこと笑って話を聞いているのも、脱力を誘う原因だ。
「それでね」
ニルが楽し気に話を進める。なんだか無邪気に楽しんでいるように思えて、ついつい気が緩む。
何と言っても、まだ出会って一週間も経っていないのだ。
「アシュリーの事だから、貴女に城内の事や仕事について、積極的に教育や指導をするとは思わないのよね。どう?」
これには素直に頷いた。
「はい。今日はオルクス様、リディオス様、それと、ルキセオード様に紹介して下さったんですけど、名前だけ言ってもらって。助手は必要ないから要らないとか言ってますし。必要ないと思われてるなら教えようとか思わないでしょうね。」
ニルは気持ちよく相槌を打つ。
「ええ、そうでしょうね。どうせふてくされているんでしょう。殿下やオルクス様にからかわれてるでしょうから。けど、何も分からないんじゃ、満足に助手も出来ないわね?」
何かひっかかりつつも、本当の事なので頷く。
「まあ、書類なんて分かりませんし、お出かけなら付いていくしかないですし…?」
「それじゃあ困るわよねぇ。クライスト王国の大魔術師、その助手ともあろう者が、その恰好、その言動では、ね?」
ちょっと腹の立つ言い方だが、まあ、そういう見られ方には慣れている。だが確かに、フィフィがこれでは“どこにでもついていく”助手兼護衛という立場からは困るかも知れない。そう思い、フィフィは頷いた。
「はあ……どういう事があるのか分かりませんし。」
「もちろん大魔術師ともなれば、様々な式典にも出席しなければいけないし、そういう時は、例え隣にいる事が出来なくても、側に控えていなければいけないわ。そう、衆目があるのだから、それ相応の身なりと言動を身につける必要があるわよね?」
ニルはユンファを見て微笑む。
「ユンだって正装をして場に出るものね?」
「はい!ニル様のおそばにいるのが、わたしのしごとですから!」
歓喜のオーラいっぱいのユンファを見て、思わず微笑む。するとそれを狙ったかのように、ニルはフィフィに微笑んだのだった。
「だから貴女も、大魔術師の助手に相応しいものを身につけなくては、ね?」
ユンファの笑顔につられて頷く。
「……そうですね。それなりには努力しないと…」
ニルの笑みが変わった。それに気付いた時には、もう、遅い。
「では、今日から始めましょう。貴女の教育に当たる人を紹介するわ。」
「は?」
和やかな会話に流されていた自分に気付く。ニルの勝ち誇ったような笑みに、一気に冷や汗が噴き出した。
「どうぞこちらにいらして。」
「え?」
ニル達がいる部屋の奥の扉が開くと、そこには、一目で上流階級の育ちだと分かるような、上品で可憐で、凛とした雰囲気の女性が立っていた。
「こちらは今日、今から、貴女の教育指導にあたる、ハンスファルク家の御息女で、クルスティーユ嬢です。クルス嬢、この方がアシュリーの助手兼護衛の、フィアニス=ルセです。」
紹介された女性は、きりりとした目でフィフィを見ると、優雅な礼をしてみせた。
「クルスティーユ=ハンスファルクと申します。僭越ながらフィアニス様の教育指導をさせて頂く事になりました。ぜひ、よろしくお願い致します。」
突然の事態に対応出来ないフィフィ。しかしニルは、容赦なく言った。
「名乗りを返すのが礼儀というものよ?」
「え?あ、でも…」
「ねぇ?」
「…………フィアニス=ルセです………よ、よろしくお願いします…」
「さ、ではさっそく始めましょうか。クルス嬢、頼みますね。」
「はい、ハディエス様。私にお任せ下さいませ。」
「は?え?」
ニルは戸惑うフィフィを無理矢理部屋から押し出し、クルスはフィフィの戸惑いに構わず、参りましょうとだけ言ってフィフィの前を歩き出す。フィフィはかろうじてついて行くものの、事態を整理するのには数分かかった。
「随分急に決まったんですよねぇ?」
フィフィはニルの顔を思い浮かべながら聞く。急ではないに違いないと確信しつつ、いやそこまで強引じゃないだろうと信じたい。が、クルスはいたって冷静沈着に答えた。
「いえ、フィアニス様がこちらへいらしてすぐに、ハディエス様からお話がありましたよ。」
「……やっぱそうなんですね…」
(あの人は小悪魔だな…いや、本性が。)
「フィアニス様には」
「は?」
何故か若干語気が荒いクルスの台詞に、フィフィは小首を傾げた。クルスはきっ、とこちらを見据えて(睨んで?)言う。
「まず、言葉遣いを中心に学んで頂きます。歴史や情勢などは、後々やりましょう。」
「……………」
(なんか…初対面にも関わらず敵意を感じるな…)
フィフィは黙って彼女の後について行く。こういう理由の分からない怒りはつつかない方がいいのだ。
そうやって大人しくついて行ったのだが、アシュリーの回廊まで来ると、クルスはぴたりと足を止め、フィフィに道を譲った。
「ん?」
わけが分からずに首を捻ると、若干苛立った様子で言われた。
「フィアニス様が先にお入りになって下さいませんと、私が侵入したと思われてしまいます。」
「そんな大袈裟な…俺が後ろにいるんだし。」
そう言うと、クルスは信じられないとでもいうように目を見開いた。
「な……まさか、本気で仰られているのですか?それとも、私がそんなにお嫌いですか?」
「え?」
(嫌ってんのはあんただろーに。)
ますますわけが分からない。さらに首を捻るフィフィに、クルスは何かを耐えるように一度目を伏せ、フィフィに言った。
「…どうかお先にお入り下さいませんか?大魔術師の回廊に印だけで入るような権利は、私にはないのです。」
(印……?)
そう言われてフィフィは思い出した。ここへ初めて足を踏み入れる時、あの兵士は“書類を持っているから大丈夫だ”と言った。そして、“だから危険はない”と。
(そうか……なるほどな。)
「すいません。…けど、俺が先に入ればクルス嬢も入れるもんなんですか?」
え、とクルスの目が言っている。無知をこれ程驚かれる事に、フィフィは驚いていた。
「……フィアニス様には、まず回廊についてのご説明が必要ですわね…。」
「頼みます。なんせアシュリー様はかなりの面倒臭がり屋で、何も教える気がないもんですから。」
そう言った途端、クルスはフィフィを睨みつけた。
「御自分の主をそのように言うものではありません!貴方は、礼儀というものを知らないのですか?」
「……………」
本気で怒っている。フィフィは驚いて声も出ない。
「良いですか、フィアニス様。主を侮辱するような発言は、断じてしてはいけない事なのです。それに、貴方はギルドで働いていたようですけれど、そこでの常識は通用しないものと思って下さい。ここはクライスト城。陛下の御元なのですよ!」
「…………はい…」
クルスは、フィフィを快く思っていない。それはフィフィの身元に関係していたのだ。
彼女はギルドの者を良く思っていない。本来ならば関わりたくないのだ。それがニルに頼まれ、受けるしかない悔しさと、フィフィの、忠誠心のかけらもない態度をプライドが許さないのだろう。
(この人は、自分に誇りを持ってる。)
地位の高さや育ちの良さにではない。自分の身分と、その意味に。
「…すいません。クルス嬢。まず回廊について詳しく教えて貰えますか?」
そう言うと、クルスは憤りを抑える為に一呼吸おいてから、説明をしてくれた。
「………この回廊は、ウィルレイユ様ご本人が定めた方だけを受け入れます。王族の方はもちろん、同じく大魔術師であるハディエス様も受け入れられます。定めた方以外が、万一この回廊に入ろうとすれば、すぐに魔術が働きます。」
一旦言葉を切り、クルスは少し恐ろし気に回廊を見やった。
「例外として、一時期のみこの回廊の出入りをされる方は、陛下を通じてウィルレイユ様に許可を伝えられ、印を渡されます。そして、その印を持っていなければ、回廊に入る事は出来ません。」
「助手は入れるって事ですね?」
「もちろんです。常に大魔術師様のお側にいなければならないのですから。」
「で、そういう人と一緒なら、誰でも入れるって事ですか?」
クルスは少し考えながら言った。
「…いいえ。誰でもというわけではありません。印を持つ者で、尚かつウィルレイユ様かフィアニス様…その助手の方が一緒であれば入る事が出来るのです。」
「結構厳重なんですね…」
「大魔術師は国の要。クライストの盾であり剣なのです。故にそれだけ、日々に危険が伴うのです。」
ここでフィフィは首を傾げた。
「…そんな大事な国の柱なのに、俺なんかが助手だからってこうも簡単に側にいれていいんでしょうか?」
そう質問すると、クルス嬢は驚いたようにしばしフィフィを見つめ、若干微笑んだように見えた。
「…そうですね…それだけ御自分の立場に責任を感じて頂けるのは良い事ですわね。………もちろん、フィアニス様を信頼なさって、陛下も助手とお認めになったのでしょうけれど、まだまだ心から信頼するには当たらないとお考えかと思います。」
「なら、俺がさっさと出入り出来ちゃっていいんでしょうか?なんか緩い気がするんですが…」
そう言うと、クルス嬢は深く頷きながら答えた。
「ええ、ご安心下さい。大魔術師様には使い魔がいますから。」
「使い魔?」
言いながら思い当たり、ああ、と頷く。
「ウィスペルの事か!」
期待を込めてクルス嬢を見ると、若干困ったように眉根を寄せた。
「……?わたくしなどではウィルレイユ様の使い魔を拝見出来る機会はありませんから、ウィルレイユ様の使い魔がどのようなものなのかは、分かりませんわ。」
「あ、そうなのか…」
フィフィはアシュリーと出会う前に、まずウィスペルに会っている。それに、ウィスペルはよく耳飾りから出てきてはフィフィの周りをうろちょろしている。だから滅多に見れない存在だとは思いもしなかった。
「ともかくも、例えばフィアニス様が、万一ウィルレイユ様に危害を加えようとさなる事があっても、使い魔がそれを防ぎます。」
「へぇ……」
言われてフィフィは思い出した。出会った時、ウィスペルにはひどい目に会わされたのだ。思わず苦い顔でもしていたのだろう。クルス嬢は首を傾けて訊いてきた。
「…まさか、そのような経験がおありですか?」
「あ、いや…俺がこの城に来て初めてアシュリー様の回廊に入った時ですね。その使い魔が威嚇してきたんですよ。こっちはアシュリー様探してただけなんですけどね…」
まあ、とクルス嬢は心底驚いたようだ。
「不思議な事もあるものですわね…。もちろん書状か何かお持ちだったのでしょう?それなのにそんな事が起こるなんて…」
「アシュリー様が言うには、“城にはない気配”だったからじゃないかって言ってましたけど。」
「城にない気配…?ギルド特有の気配でもあるのでしょうか…」
「俺にはさっぱり分かりませんけどね。」
おどけて見せると、クルス嬢はくすりと笑んだ。その様はとても愛らしく、先程からのあまり表情の浮かばない様子とはまったく違った。思わず息を呑む程だ。
(……いつもああやって笑うのか?…同性でも可愛いと思うよなー…)
「さあ、立ち話はこれくらいに致しましょう?フィアニス様、お先にお入り下さい。」
「あ、はい。」
どうやらクルス嬢のフィフィに対する心構えは、若干柔らかくなったようだ。
回廊に入り、アシュリーを探して奥の部屋へ向かう。石の壁に扉が現れたのを見てもクルス嬢はさほど驚いた様子はなかった。おそらく魔術を見るのはそう珍しい事ではないのだろう。灯りの灯った階段を降りていき、突き当たりの扉を開ける。
と、アシュリーの側をうろついていたウィスペルが、一瞬で耳飾りの中へ戻っていった。ちらりとクルス嬢を伺うが、彼女は気付かなかったようだ。机に向かい、本に没頭している主に、フィフィは声をかける。扉からだと机にいるアシュリーは背を向ける形となる。
「アシュリー様」
「何?」
見向きもしない。取り合えず用件を言う。簡潔に。
「俺に先生が付きました。」
「は?」
耳慣れない言葉に、アシュリーは思いっきり迷惑そうな顔をして振り返った。
「クルスティーユ嬢です。今日から俺に色々教えて下さるそうです。」
「クルスティーユ=ハンスファルクと申します。以後、お見知り」
「ちょっと待って。なんで?」
クルス嬢が丁寧に挨拶する中、アシュリーはクルス嬢の方を全く見ようともせずにそう問いかける。その様を覚悟していたとはいえ、クルス嬢はひどく悲しかった。だが、フィフィはそれに気付けなかった。
「ニルヴァーナ様からそう言われましたので。」
「…まさかその話だったの!?」
その慌てように、思わずにやけそうになる。
「ええ、そのお話でした。アシュリー様のお側にいるからには、色々勉強しないといけませんから。」
「なっ…また、ニルのやつ…!」
「まさかアシュリー様が俺に礼儀作法など教えてくれるんですか?」
「なんで俺が?別に知る必要もないだろ?」
「必要だ重要だとニルヴァーナ様は仰ってましたよ?」
「ニルはそういうのが大好きなんだよ。礼儀作法とか行儀作法とか。ああいうの。」
「まあ俺も、お城にお世話になるわけですし、せめて最低限の作法は身に付けておいた方がいいのかなーと思いまして。そういうわけで教えて頂きますから。」
「ちょっ……」
言いかけ、アシュリーは少し考えて言った。
「……一応訊くけど、どれくらいかかる?」
「さあ、どれくらいでしょう…?」
振り返ってクルス嬢に訊く。彼女は軽く頭を下げたままで答えた。
「…フィアニス様にもよりますが、およそ三ヶ月、とハディエス様より仰せつかっております。」
「その間君の仕事はどうするつもり?」
答えたクルス嬢ではなく、あくまでフィフィに問いかける。
「あー…どうなんですかね。」
またも振り返って訊く。クルス嬢は若干困ったように答えた。
「詳しくは伺っておりませんが…一日、数時間頂ければ幸いでございます。」
「言っとくけど、俺は君をいちいち呼んだりしない。いい?」
「じゃあ誰か呼びに寄越して下さい。」
「だから、そういう事はいちいちしな…?」
突然、可愛らしい音が聞こえた。まるで鈴を一振りしたかのような。クルス嬢も思わず目で探しているが、おそらくウィスペルだろう。その証拠にアシュリーは半眼で耳飾りの方を睨んで黙っている。
「………?」
ウィスペルと耳に聞こえない会話でもしているのだろうか。しばらく黙っていたアシュリーは、何か嫌な事でもあったのか、顔をしかめた。片手は腰、片手は顎に添え、何やら考えているようだ。
「あのー…?」
問いかけるフィフィに答えもせず、アシュリーはついには目を閉じて考えている。
(ウィスペル…か?……どうしたんだろう。)
黙って見守っていると、今度は目を開けてフィフィを見つめ出した。
「え…なんですか?」
聞こえているのかいないのか。アシュリーは黙ってしばらくフィフィを眺めた後、しぶしぶといった様子で首を振り、深く溜め息をついた。そして、おもむろに耳飾りを外した。
「?」
フィフィとクルス嬢が見つめる中、ウィスペル入りの耳飾りを、アシュリーはフィフィに突き出した。
「これを身につけろ。」
(うわっ…めっちゃ嫌そう!しかも命令口調!)
口の端が動きそうになるが、必死に押しとどめる。
「…なぜですか?」
「………いいから。」
(説明するの面倒臭いししたくないって、顔に出てますよー。)
思いながらもフィフィは取り合えず受け取った。
「……これ、どうやって付けるんですか?」
そう言ったフィフィを面倒臭そうに見やり、アシュリーはここで初めてクルスの方を見た。見たと言っても、ちらりと視線を送っただけ。クルスは即座に一礼し、部屋を出て行く。
「え、クルス嬢?」
「こっち向いて。」
アシュリーの命令に、多少腹立ちつつも向き直る。フィフィが何か言うより先に、アシュリーはフィフィの手を掴み、動かす。
「こうやって抑えてて。」
「…………」
耳飾りの石を下から持ち、耳朶に金属が当たるようにさせる。支えたフィフィの手を支えつつ、アシュリーはもう片方の手で動かないようにフィフィの頬を支えた。そして、目を閉じて唱える。
「——汝は我に住まう動かぬ時。我の吐息に道を繋ぎ、再び自由を与えるまで離れる事を禁ず——」
言い終えると、耳飾りの付け根に口を寄せ、封印の魔力を吐息に込める。吐息はわずかあれば充分で、アシュリーは確かに封印されたのを確認した。
アシュリーが呪文を唱え、封印を行った直後。フィフィはアシュリーを思い切り突き飛ばした。本当は殴り倒したかったが、さすがにそれはまずいと思って止めた。すぐに殴れば良かったと考え直したが。
「何するんだよ!」
怒るアシュリーに怒鳴り返す。
「あんたこそ何してんだ!!気色悪いだろーが!」
「は?」
アシュリーが本気で分からないようなので、フィフィは教えてやった。
「耳に息吹きかけられて気色悪いっつってんだよ!」
一瞬の沈黙の後。事態を理解したアシュリーは奮然と言い返した。
「そうしようと思ってやったんじゃない!」
「結果そうなってんだよ!」
「封印しただけだろ?」
「他にやり方なかったのか!」
「ない!!」
きっぱりと言い放つアシュリー。フィフィは両手を握り閉めた。その様子を見て危険を感じたのか、アシュリーは一歩下がった。
「何、殴る気?」
「俺が言うのもなんだけどな」
フィフィは本当になんだけど、と思った。
「何?」
「……ちょっとは慎みを持てよ!」
「は?」
目を丸くするアシュリーを一瞥し、フィフィは足音も荒く部屋を出た。