-03-
話しかけても今は音が聞こえないだろう。
そう思って、そっと瞼を手で覆う。
一瞬びくりとしたが、眩しさを軽減出来る事に安心したのだろう。しばらくそのまま大人しくしていた。
そして、そっと手を外してやると、ゆっくりと瞼を上げた。
(……なんか…ぼんやりしててよく見えねぇな。)
目の前に誰かいるのは分かる。先程机に突っ伏していた人物だろうか。
それと、部屋の灯りがついていた。
(あ、見えてきた…)
だんだんと目に映る風景が鮮明に見えてくる。すると、目の前にいる人物が男だと分かった。
若い。歳は同じくらいか、もしかすると下かも知れない。
明るい灰色の髪は肩くらいで、首の後ろで一つに纏めているものの、纏めきれない髪が両頬にかかっている。瞳は深い群青色だった。顔立ちは若干幼く見える。
その人物は、瞼からどけた手を、耳を塞いでいるフィフィの手に重ねてきた。
その行動に戸惑ったが、任せた方がいい気がした。
しばらくそのままで、やがてそっと手を離す。つられるようにフィフィも耳から手を離した。
「……聞…る?」
聴覚もやられていたらしい。フィフィが困った様に眉根を寄せると、その人物は大きな声で話した。そうすると丁度よく聞こえる。
「しばらくすれば戻るから。」
聞こえた言葉によくよく頷いた。それを確認すると、その人物は立ち上がり、奥の扉へ向かった。
(まだ奥があったのか…あいつがアシュリー様か?わっかいなぁ…さっきのニルヴァ—ナ様も若かったけど…)
そんな事を思っていると、アシュリーと思われる人物が戻ってきた。手にはポットとカップだ。足音がさっきよりも鮮明に聞こえた。
(耳も戻ってきたかな…)
そう思い、ゆっくりと立ち上がってみた。よろめく事もなかったのでもう大丈夫だと思われる。
試しに口を開くと、しっかりと自分の声が聞こえた。
「アシュリー様ですか?」
そう声をかけると、アシュリーと思われる人物は一瞬フィフィを見て固まり、続いて何も聞こえなかったかのように椅子を勧めてきた。
「まあ座って。お茶煎れたから。」
「…………」
言った本人はすでに座ってカップに口をつけていた。
「失礼します。」
腰掛け、有り難くお茶を頂く。
「書類は?」
言われて一瞬なんの事かと思ったが、慌ててニルに渡された書類を差し出す。
アシュリーと思われる人物はそれを受け取って、書類をじっくり眺めた。
「……助手?」
書類を見たまま、訝し気にそう言う。フィフィはギルドで見た紹介状を思い出して頷いた。
「それで来た筈です。」
「…筈って……」
「で、アシュリー様ですか?」
そう言うと、アシュリーと思われる人物はしばらく悩んだ。
(何悩んでんだよ。二者択一じゃねぇか。)
大丈夫だろうか。ちょっと不安だ。
「俺がアシュリーだけど…」
(やっぱそうだよな?何悩んでたんだ?)
そんな様子には気付かず、アシュリーは怪訝そうにフィフィを見た。
「なんだって、助手?」
「俺に聞かれても…そういう紹介だったんで。」
(なんで本人が分かんないんだ?)
「ニルヴァ—ナ様には、試用期間三ヶ月と言われました。」
「ニル……!」
驚いた次には、頭を抱えてしまった。ちょっと心配になってくる。
(もしかして助手って、頭のか?)
と、勝手に失礼な事を考える。すると、はっと顔を上げてフィフィを見た。慌てて姿勢を正す。
「…なんで希望したの?」
「…安定した高収入の為です。」
言われてアシュリーは慌てて書類を見直した。
「“月給200万ソル”?」
「…アシュリー様は御存知なかったんですか?」
「…………」
(冷や汗でてんぞ。大丈夫かぁ?)
口を開けたままわなわなしているアシュリーを見て、フィフィは丁寧に頭を下げた。
「でもまあ取り合えず助手なんで。よろしくお願いします。」
ぺこり、と頭を下げる。アシュリーはそれを呆然と見ていた。が。
「……要らない。」
「は?」
まさかと思って聞き返すと、さっきとは打って変わって、驚愕する様子も戸惑いもなく、迷惑そうな顔をしていた。
(…なんだコイツ)
思わずぴくりと口の端が動く。
「助手は要らない。俺には必要ない。」
「…そう言われても。」
言い返すのだが、ずい、と書類を押し付けられる。
「ニルにそう言って。」
一方的なアシュリーを無視して、フィフィは拒む。
「困ります。書類にはもう契約済みになってるじゃないですか。」
「でも要らないんだ。帰って。」
「帰りません。せめて三ヶ月は。」
睨み合う事しばし。アシュリーは何かに気付いて押し付けていた手を引っ込め、青ざめた。
「き、君…!」
(あ、そう言えばそうだった…。)
失念していた自分を少し恥じる。だが、済んでしまった事態は仕方がない。それよりもこの仕事を白紙にされては困る。
「なんと言われても帰りません。書類上では契約は済んでるし、せめて三ヶ月の試用期間は認めて下さい。」
フィフィが女である事に気付き一瞬怯んだアシュリーだったが、直ぐに体勢を立て直した。
「……ニルと話してくる。」
そう言って出入り口へ向かってしまう。
「ちょっと!俺はどうすれば?」
「そこに座ってて。」
思い切り睨みつけられた様な気がするのは気のせいだろうか。
「あっ」
さっと書類をかすめ取って、奪えないように上へ掲げる。
「書類は預かります。話し合いに必要ないでしょ?」
「………」
(このやろう、ってか?思ってる事顔にでてんぞ、アシュリー様。怖かねぇけどな。)
「ね?」
にっこり笑ってやると、アシュリーは一瞬目を丸くした。が、ちゃっかり書類を奪還したかと思うとぱっと身を翻して部屋を出て行った。
(……なんか、ガキみてぇ。)
小さな子供が急ぎ足で駆けて行く。周りの大人達は微笑んで、いつも通り道を開けてやる。
子供は大魔術師の回廊へやってくると躊躇い無くその扉を開き、入る。そのままの軽い足取りで奥へと進み、絵が沢山飾られた部屋へ入ると、目当ての絵を見つけて駆け寄り話しかけた。
「“しるべ”よ。主のもとへしもべをいざなえ。」
すると絵の人物は子供に手を差し伸べる。子供は素直に手を差し出し、絵は子供の手を取り、回廊の主の元へと誘った。
「ニルさま!」
幼い声が主を呼ぶと、ニルは愛おしそうに声の主を迎えた。
「お帰り、ユンファ。」
「ただいまもどりました!」
ユンファと呼ばれた子供が駆け寄れば、ニルは優しく抱きとめた。
「あの、アスさまが来るみたいです。」
困った顔でユンファが言うと、ニルは笑った。
「やっぱりね。あの男の事だから、絶対文句言いにくると思ったわ。」
そう。予期していた事なのだ。
気難しくて面倒くさがりの彼の事だ。助手なんて要らないと、それはもう不機嫌な顔をしてやってくるだろう。
「ニル!」
ほら。
噂をすればなんとやらだ。ユンファがさっとニルの後ろへ隠れた。