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振り返ると、そこには美しくも可愛らしい女性の姿があった。淡い白灰色の長い髪は、緩く編まれて膝下辺りまで伸びている。胸元の開いた繊細な白いドレスを着ていた。
「エウェラ…」
クライストを出る前に見た、そのままの姿がそこにあった。
(今…クライストはどうなってる?)
急に不安になってくる。そんなフィフィの表情を見て、エウェラは励ますように笑いかけた。
「…貴女がそのままそこへ立っても、彼の攻撃は防げないわよ。」
「っ…!そんなのは、分かってる!」
時が動き始めてしまったら、この魔物を止められないだろうと分かっている。でも。それでも。なんとかしたい。アシュリーを放ってなど置けない。
「……助けたいのなら、私を受け入れる事ね。」
「は…?」
エウェラは冗談を言っている様子ではなかった。ただ、静かにフィフィの目を見つめていた。それを見つめ返してから、フィフィは不安気に背後のアシュリーを振り返る。
「大丈夫よ。ここは私が止めているから。」
「!…あんたが?」
驚いて見つめると、エウェラはにこりと笑った。
「このままじゃ貴女達、死んじゃいそうだから。」
「……っ」
思わず縋るようにエウェラを見ていた。するとエウェラは、また静かな眼差しでフィフィを見つめた。
「……私は、気に入ってるのよ?貴女の事。」
「………エウェラ………なんで…?」
困惑して見つめ返す。
「何故と言われてもね…。」
苦笑したエウェラは、次にはじっと見つめ、まるで母親のように慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「きっと、似てるのね。あの子に。」
「………?」
微笑んだエウェラがあまりに幸せそうで、フィフィは言葉に詰まった。それは、初めて恋を知った少女のような、子供を慈しむ母親のような、瑞々しく溢れてくる愛の現れのように思えた。
「だから私は、貴女が望むのなら全力で助けるわ。けれどそれには、貴女が“私”という存在が貴女の中にあるのを、認めてくれないと。」
「あんたが…あたしの中に…?」
そうよ、と優しく頷いた。
「フィフィ。契約をしたでしょ?」
「…あ…クライストで…」
「そう。良かった、ちゃんと覚えてるのね。」
くすくすと意地悪に笑って、エウェラはそっとフィフィの両手を取った。
「貴女は私と契約をした。精霊である私とね。だから、貴女の中には私の居場所が出来ているの。」
「あんたの、居場所…?」
不思議そうなフィフィにくすりと笑う。
「そうよ。でも貴女は今まで“私”を感じた事、なかったでしょ?」
言われてフィフィは思い返す。エウェラが接触してくる事はあっても、その存在を感じる事は一度もなかった。
「それはね、貴女が私を必要だと思っていないからよ。」
(エウェラの言う通りだ…だって、今まで自分の力で乗り越えて来たんだから。誰かと協力し合う事はあっても、助けてもらう事なんて…)
助け合う事が、フィフィにとって当たり前だった。頼り切る事は一度だってなかったのだ。
「だけど今は違うでしょ?貴女も、レイフィスも、アシュリーも。あの男には敵わないわ。違う?」
「……そう…だけど……!」
繋がれた手をぎゅっと握りしめた。悔しくてどうしようもない。
「だからね」
エウェラがそっと、フィフィの瞳を覗き込んだ。
「貴女を、助けてあげる。」
恐る恐るエウェラの目を見た。少女のように笑う大精霊は、フィフィの気持ちを強くする。
「エウェラ…」
「私を感じて。フィフィ。私は、いつだって貴女の中にいるわ。貴女が求めればいつだって力を貸してあげられる。」
「………」
「目を閉じて、フィフィ。私は、貴女の中にいるわ。」
(エウェラ……)
言われるままにフィフィは目を閉じた。半ば無理矢理に契約させられたあの時とは、信頼感が違う。フィフィは、エウェラの手の温もりを感じていた。それと同じ温もりを自分の中に探す。
ふわふわと温かい光が体内を彷徨っているようだった。手の平に乗るくらいの温かい光が、あちらこちらに漂っている。その一つ一つがエウェラの力の欠片なのだと感じた。
(あ……そっか)
唐突に理解した。
(この温かさがエウェラなんだ…。じゃあ、力を借りるのってもの凄く簡単かも)
ふっと瞼を開く。目の前に迫る魔物を見据えて、ゆっくりと矢をつがえた。
(感じる…)
体中を温かな力が巡り出した。
『そうよ、フィフィ。後は貴女の想像力次第ね。』
(想像力……?)
『どんな風に力が動いて欲しいか想像するの。貴女が私の力を感じていれば、想像した通りに力が動くわ。』
(へえ…よし!)
『じゃあ時間を動かすわよ。準備はいい?』
(いいぞ!)
瞬間。魔物の目が見開かれた。
「これでもくらえ!」
一本の矢を解き放つと、それは光となって五つに分かれて飛んでいく。魔物はとっさに避けられないと判断したのか、男の姿となって床へ伏せた。飛んでいった光は矢となって床へ突き刺さっている。
「なんだ…?」
呟く男は怪訝そうにフィフィを見ているが、フィフィはその顎目掛けて足を振り上げる。
「っ!」
飛び退って再び魔物の姿へ変わる。それを睨みつけるフィフィの背後で、アシュリーが詠唱を終えた。
「杯は満ちる。零れ落ちたる輝きよ、深淵より生まれし者の道を塞げ――」
アシュリーの足下から一斉に光の蝶が飛び立った。
「う、わっ…!」
あまりの数に思わずフィフィも驚いて怯んでしまった。光の蝶は群れをなして魔物へとまとわりつく。
『目障りな…!』
魔物が思い切り息を吸い込み、吐き出すと、瘴気に触れた蝶は消えてしまうが、すぐに残った蝶から増えていく。
「くそ…!」
忌々しそうに逃げ回りつつも、魔物は確実にフィフィ達を狙ってくる。フィフィが再びたくさんの光の矢を放つと、それに合わせてアシュリーが攻撃魔術を放つ。からくもそれを避けながらも、魔物はやはり光の蝶に苦しめられていた。
「レイフィス陛下!」
フィフィは隙をついてレイフィスの元へ駆け寄る。
「一瞬の間に随分頼もしくなったな?」
脇腹から血を流しながらも笑うレイフィスに、フィフィは呆れて笑ってしまった。
「こんな状態だってのに…呑気なもんですね、レイフィス陛下は…」
「レイフィスでいい。フィアニス殿。」
傷の手当をしようと脇腹へ手を伸ばしたところで、柔らかく微笑まれた。
「へ?」
思わずじっと目を見つめた。
「これだけの体験を共にしているんだ。上下の関係は要らないと思わないか?」
「えっ……や、俺はいいんですけど…」
「ではそうしてくれ。それに、今は私が一番情けないしな。」
「いや…それはないですよ。」
傷口に触れないように手を近づけて、フィフィは想像してみた。
(傷が…治りますように。)
傷が治る様子を思い出して想像する。すると、出血が治まってきた。
「………」
レイフィスの視線が痛い。
「なんですか?」
「……本当に…いつの間に?」
「どうですか?傷。」
「ああ……」
言われてレイフィスが傷を指で探った。
「治ったな。」
「良かった。じゃあ続けましょう。」
「………」
すぐにその場を離れたフィフィを思わず目で追い、レイフィスは苦笑した。
「……負けていられないな。」
頭を振り、剣の刃を根元から先まで、ゆっくりと吐息をかけながら撫でた。
「…目覚めよ。深き眠りから…古の魔物よ。我が剣に宿れ。」
その囁きに呼び覚まされ、レイフィスの剣が青い炎を纏い始めた。
アシュリーの魔術を避けると、それを狙ってフィフィの矢が飛んでくる。魔力で威力を増したそれは、今や男から余裕を奪っていた。
(一体何がどうなっている…何故あいつがあんな魔力を持っているんだ。)
飛び跳ねて避け、時折瘴気で光の蝶を消すが、蝶はすぐに数を増やす。
(いや…やはりあいつに魔力はない。あいつから何者かの魔力が溢れているんだ…)
ぎらりと赤い目を光らせ、フィフィに狙いを定める。光の王を持つアシュリーも厄介だが、今はフィフィも厄介で、それも癇に障る。
(切り裂いてやる…!)
飛びかかろうと後ろ足に力を込めた、その時だった。
(何!?)
突如として大きな気配が膨れ上がった。視線を彷徨わせれば、さっき脇腹を刺してやったレイフィスが目に留まる。
(あいつが…?)
まとわりつく蝶を消しつつ、飛びかかる先をレイフィスへと変えた。
(頭を噛み砕いてやる!)
一足飛びでその頭へ爪を伸ばす。しかし――
『ぐあっ…!』
レイフィスの振りかぶった剣は先程までとは違い、強固な魔物の身体を切り裂いていた。傷口から焼けるような痛みが襲う。
(何故…!?)
遠ざかったところへ、フィフィが矢を射ってくる。
(忌々しい…!)
魔物の赤い目に、ゆらりと暗い色が揺れた。そんな魔物の前、レイフィスはフィフィの矢を遮るように対峙した。
「陛下!?」
手を出すなと言われているようで焦って叫ぶフィフィに、アシュリーが静かに声をかけた。
「大丈夫だ。」
「アシュリー様…でも…」
どうしてアシュリーがそう言うのか分からない。戸惑うフィフィに、アシュリーは魔物から目線を外さずに言った。
「陛下の持つ剣は“霊剣”だ。ああして呼び覚ませば宿ったものの力を発揮する。」
「宿ったもの…?」
「あれは…“拒絶”の魔物だ。」
レイフィスの剣を警戒してか、魔物は先程までとは打って変わり、跳ね飛ぶのを止めて間合いを取っているようだった。
「“拒絶”…?」
「ああ。触れるもの全てを拒絶する。あれで傷を負ったらもう治らない。触れたものが存在する事自体、拒絶するから。」
「………!」
魔物がレイフィスに向かって走り出した。構えた剣を振るうのに合わせ、魔物はさっと向きを変えて隙をついた。その動きには、いくら霊剣を持っていても追いつけないように思えた。しかし、レイフィスはまるで動きを予測していたかの様に、確実に魔物の足を切り上げた。
『ぁあっ!』
切り口から瘴気が勢い良く噴き出す。それを飛び退って避け、レイフィスは再び剣を構えた。
(………?)
剣を構えるレイフィスの顔には、じっとりと汗が滲んでいた。
(あれ……)
様子がおかしい。
「アシュリー様」
不安になってアシュリー様を見つめると、その足下にふわりと陣が光った。
「…陛下自身も拒絶されているんだ。斬りつけられるわけじゃないから、すぐにどうこうなるわけじゃない。けど…呼び覚ました霊剣に触れている限り、どんどん命が削られていく。」
「っ…!」
「時間の問題だ。……陛下の援護は出来る?」
しっかりと目線を合わせてアシュリーが問いかける。フィフィは、ぐっと弓を握る手に力を込めた。
「出来ます。」
その答えに、アシュリーがふっと笑った気がした。
「じゃあ、やって。俺も援護する。」
「はいっ!」




