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(っ…!無理矢理、血を抜かれているみたい…!)
遠くなりそうな意識を必死に留め、指先に意識を集中させて幹に文字を刻む。ニルがなぞると、そこに文字が刻まれた。
特に道具を使って削るわけではなく、ただ、魔力を込めてなぞるだけで、そこに術を刻める。それが書術だ。ニルはその技術が格別に高い。それ故に、若くして大魔術師として迎えられたのだ。
(…《構成を歪め…あるべき形を崩せ》…)
植物を作り出す力が正常に働かないよう、存在が安定しないように書き記す。
(…《魔力の流れを戒めの風へ》…)
溜め込んでいた魔力が、アシュリーの術の助けになるように、これも書いていく。そうすると少しだけ、ニルの身体を弄る動きが弱ったように感じた。だが、依然として魔力が抜けていく事は止められない。
(…貪欲な術ね…。私は結構魔力が多い方なのに…)
目の前がくらくらする。頭を振って耐える。きつく目を閉じて、気合いを入れて開けた。
(…《連なる全てはこれに従う》…)
フェルウェイルから広がったであろう全ての植物に、同じ効力を発揮するように刻み込む。指先が震えた。視界がぼやける。
最後の一文字を書き終えると、ニルは意識を失った。
「——ニル様っ!!」
ニルが倒れたのを見て、ユンファが駆け出そうとした。
「いけません!」
とっさにルキセオードがその腕を引っ掴んで止める。
「はなしてください!ニル様が!」
倒れた途端に力ある水がニルを覆った。蠢く様は、本当に生き物であるかのように見える。
「ユンファ様、私が行きます。貴女があのようになれば、悲しむのはニル様ですよ。」
「っ……!」
諭されて、呆然とニルを見つめるユンファの背をぽんと叩き、ルキセオードはすぐさまニルの元に駆け寄り、抱えて結界から飛び出した。水は粘度があり、ニルを逃がすものかと絡み付いてくるようだったが、結界を出てしまえばただの水と化した。
「ニル様!ニル様、しっかりしてください!」
全身ずぶ濡れとなったニルに縋りついて、ユンファは今にも泣きそうになりながら必死に声をかけた。
「…ユンファ様、大丈夫ですよ。気を失っているだけです。」
ルキセオードの落ち着いた、柔らかな声音が耳に届いて、ユンファはただ無言でニルを見つめた。小さく、呼吸をしている。
「…よかった……」
心の底から安堵して、ユンファは幸せそうにニルを抱きしめた。
(……このお二人は……お互いがとても大切なのだな…)
ニルのユンファに向ける、切ないくらいの愛情や、ユンファがニルに向ける、怖いくらいの依存心。見ていると、こちらの心がかき乱される程の。
しがみつくユンファを宥め、ルキセオードは立ち上がった。
「さあ、このままにはしておけません。戻りましょう。乾いたものに着替え、ゆっくり休ませて差し上げなければ。」
「………あ…はい。」
不安気に揺れる瞳は、おどおどしながらもニルとルキセオードを見た。そして、しっかり頷いて、ユンファは城へ帰還するための陣を創り出した。自分と、ニルを抱えたルキセオードが陣に入っているのを確認すると、主に習って歌うように詠唱する。
「——汝は“移ろい”。われはユンファソルシア=ミット。主ニルヴァーナ=ハディエスのゆるしをもって、わが支配を受け入れよ。せいやくに従い、その力を示せ——」
幼い声が精霊を喚び、縛り、使役する。そんなユンファは、やはり唯の子供にはなり得ないのだと、ルキセオードは悲しくも思い知った。
ニルを抱きかかえて陣のある部屋からニルの回廊へ移動する。ユンファはその先を行って回廊を開き、途中出会った女官にニルの着替えを頼んだ。
女官はニルとルキセオードを見てぎょっとしていたが、すぐに走って行ってくれた。
ルキセオードはニルの執務室へ入ると、一先ず厚手の布でニルを覆った。椅子へもたれさせ、女官が来るのを待つ。
「あの…ルキ様…」
ユンファがニルの側で膝立ちになりながら、顔をルキセオードへ向けて、落ち込んだ様子で声をかけた。
「……ありがとう、ございました…」
その様子を見て、ルキセオードは胸が詰まった。主が倒れた時、思うままに助けられなかった事が悔しくて、ふがいなさを感じているのだろう。あの時ばかりは、ユンファは子供なのだと意識せざるを得ない。
「…そうご自分を責めないで下さい。」
「え……?」
どうして自分の気持ちが分かったのか、不思議そうにルキセオードを見つめる。見つめ返す瞳は、心が解れる程に温かかった。
「こればかりは仕方ありません。例えユンファ様が成人されていても、体格がありますから…やはり、男手が必要だったでしょう。」
言われて初めて、ああそうか、と思い至った。確かにそうだ。今は子供だからと嘆いても、結局大人になってもニルをここまで運べたか分からない。
「そう…か……そうですね…」
なんだか唖然としてしまったユンファを見て、思わず笑ってしまう。
「そうですよ。」
そう返したところで、回廊に訪問者ありと知らせが入った。
「ああ、先程の女官でしょう。それでは私は…これにて失礼致します。」
「はい。ありがとうございました、ルキ様。」
幾分明るくなった顔を見て、ルキセオードはほっと胸を撫で下ろしたのだった。
ハークヴェル帝国からラナス国へと移動する前夜。フィフィは宿の部屋で、窓を開けて夜空を眺めていた。たくさんの星が瞬いて、優しい光が降り注いでいるようで、ほっと落ち着く。
出窓に肘をついて眺めていると、隣の窓が開いて、アシュリーが夜空の遠くを見ていた。
「アシュリー様。」
声をかけると、ちょっと驚いて身を引いた。
「…何してるんですか?」
「…別に。」
二人ともそう言ったきり、夜空を眺め続けた。
ぱさり、と夜空の向こうから羽音が聞こえた。するとウィスペルが耳飾りから飛び出して、アシュリーの前でふわり、ふわりと飛び始めた。
「…何してるんですか?」
もう一度そう聞くと、ちらりと目線だけ向けられた。
「…帰って来た。」
「帰って?」
何か送り出しただろうかと首を捻ると、羽音が近づいてきて、姿が見えてきた。
(あ……)
アシュリーがニルへ送った精霊だ。仄かに光を纏っているのが分かった。
「ニル様からですね。」
アシュリーはそれには答えず、さっさと鳥と共に部屋の中へ引っ込もうとした。
「あ、待って下さい。今そっち行きますから。」
「は?」
不可解そうにするアシュリーににやりと笑いかけ、フィフィは出窓に足を置いた。
「えっ?」
驚くアシュリーに目もくれず、フィフィは軽く勢いをつけて窓を飛ぶ。
「よっ、と。」
一瞬後にはアシュリーの部屋の出窓へ足をつけて、するりと部屋入り込んだ。さて、と振り返ってみると、アシュリーが大きな溜息を吐いていた。
「なんですか?」
「なんで回って来ないの?」
「だって飛んだ方が早いじゃないですか。」
「……君は、やっぱり変。」
(変って…)
思ったものの、へそを曲げられてニルからの報告を聞けなくなったら嫌だ。ここは黙っておいた。
アシュリーが椅子に座ると、フィフィも近くの椅子を引き寄せて腰を降ろす。特にフィフィがちゃんと座るまでは待たず、アシュリーは精霊の魔力を解き放った。
すると精霊は精石へと姿を変えながら、陣が水平に広がり、光と風が二人を包み込む。目を閉じて、集中すると、ニルの声が響いた。
『——無茶な事言ってくれたわね。戻ってきたら…覚えてなさいよ!』
一言目から怒っている。ちらりとアシュリーに目をやると、目が思いっきり泳いでいた。
(なに無茶言ったんだろ…)
ちょっと笑ってしまう。
『植物の“生長の阻害”と“全体への伝達”は上手くいったわ。
溜め込んだ魔力は貴方の“遮断”へ流した。“停止”は上手くいかないみたいね。海の精霊が力を貸しているみたい。
それから、他国への警告は陛下が。すでに噂は回っていたようで、思ったよりすんなり頷いたそうよ。
あとはハークヴェルね。こちらは今の所目立った動きはないようだけど…あいつがこそこそ笑っているから、まあ、何か企んでるのは間違いないわ。用心しておく。
早く片をつけてくれないと、殿下が大暴れするわよ——』
ニルからの伝言は、それで終わった。
溜息を吐くアシュリーに、フィフィは訊ねた。
「で、結局よく分からなかったんですが、どういう事でしょう?」
「………」
面倒くさそうに見やるアシュリーににっこり笑ってみる。と、案外素直に教えてくれた。
「あの植物はニルがなんとか広がらないようにしてくれた。ただ、海の加護が邪魔して“停止”の術がうまく働いてない。そのせいで魔力を喰らうのは完全に止められない。」
「とりあえず今以上は浸食されないんですね。」
「そう。あとはハークヴェルの状況だ。」
そこまで言ってアシュリーは少し逡巡しているようだった。
「どうかしました?あ、部屋に魔術かけなくていいんですか?」
「“静寂”ならかかってる。そうじゃなくて……」
僅かに視線を落として、アシュリーは言った。
「本来なら俺が言う事じゃないけど、話しておく。」
「あ、はい。」
神妙な面持ちだ。自然と座り直した。
「…ニルの名前…ハディエスというのは、闇の精霊を示す言葉だ。まあ、単純に言えばハディエスという一族は、闇の精霊に愛されてる。」
「あ、愛…?」
失笑だ。なんだその一族は。
「一族は生まれながらに闇の精霊に憑かれてる。だから、争い事や企みの気配がすると、闇の精霊が喜んでいるのが感じられる。ニルが言ってたのは、そういう事。」
「ああ…あいつっていうのは、その精霊の事ですか。」
「そう。」
「で、やっぱ何か企んでるんですね。ハークヴェルは。」
アシュリーは頷いた。その目に剣呑な光が灯る。その目に、魅入ってしまった。
(アシュリー様が言う、“クライストに仇為す”状況になりつつあるって事か…)
これは自分の得意分野かも、と思うと嬉しくなって、思わずにんまりと笑った。
「…何がおかしいの?」
アシュリーが、いきなりにんまりし出したフィフィに怯えていた。それにさらに笑みを深めて、フィフィは颯爽と立ち上がる。
「いえいえ、なんにもおかしくありませんよ?明日はようやくここから出れるわけですし、張り切って寝ます!」
「え?なんで張り切るのに寝られるの?」
アシュリーがまともに突っ込む中、フィフィは笑顔でアシュリーの部屋を後にする。
(暴れると思うと、嬉しいな!)
スキップでもしそうな程うきうきしながら、フィフィはご機嫌で寝台へ潜り込んだ。
(早く出発したいなー…)
しかし、そこまで興奮して、寝られるわけがないのだった。
「……なんなの?」
朝、宿の前に集まって、開口一番にそう言われた。
「………」
アシュリーを始め、皆呆れた顔で見ている。
「気にしないで下さい。」
つまりは、眠れなかった。それで、ひどい顔だ。
「…サージェス達の手を煩わせないように。」
アシュリーにそう言われてむっとするが、自業自得なので仕方ない。
「はい。」
大人しく頷いて、ひょいと騎乗した。
進み出してすぐに、サージェスに気遣われた。
「大丈夫ですか?フィアニス様…」
「大丈夫だよ。三日寝なくたって賞金首捕まえられたんだから。」
そこは自身を持って笑うと、少しほっとしたようにサージェスが笑った。
「それでは護衛の方、よろしくお願い致します。」
「おう!」
頼むと言われて、ちょっと気合いが入った。
ハークヴェル帝国を出ると、ラナス国へ入る。ラナス国はその半分が海へ面していて、植物の浸食がひどいと思われた。救出する事も考えないといけない、とアシュリーが言っていた。
そこを抜けるとピスティル・オス共和国。王、というよりも、国民の代表といえる者が纏めている。帝国には及ばないが広い土地があり、落ち着きと活気があってなかなか人気がある。
そこを抜けるとイイェル国で、レシテに負けないくらい小さな国だが、こちらは荒くれ者が集まっているので有名だった。まあ国が小さいのでそう大した脅威にはならないし、第一荒くれ者が団結するわけもない。
が、国王はなかなかのもので、荒くれ者が暴れようものなら即座に出向いて叩き潰す。という行動力の持ち主だった。故に、以外にも安全な国だったりする。
そこを越えたら、目指していたフェルウェイル国に着く。国王レイフィスにはすでに話しが通してある。当然、今までの調査報告は済ませていた。
「レイフィスってフェルウェイルの国王の事だったんですね!」
今更だが、その事が分かってすごくスッキリした。そんなフィフィを見て、アシュリーは諦めて首を振った。
フィフィには何事も、一から説明しないといけないかも知れない。
「君って賞金稼ぎだったんだよね?他国には行かなかったの?」
「そりゃあ行ってますよ?けどその国の王が誰かなんて気にしませんよ。」
「……そう。」
それもそうかも知れないな、とアシュリーは思った。ただ狙って相手を追いかけていくだけなのだ。そこには国同士の利害関係など意味がないのだろう。
「君って面倒くさい。」
思わず零れた言葉にフィフィが食い付くかと思いきや、なんだか笑われた。
「…………」
笑う理由が聞くにも聞けず、馬車の窓越しに黙って見ていると、フィフィがそれに気付いてこちらを見た。
「…いや、なんか…アシュリー様の嫌味に慣れました。」
「は?」
「ちなみにアシュリー様も面倒くさいですよ。」
「は!?」
言うだけ言って、フィフィはさっさと前の方へ移動していった。
「………どっちが嫌味だか。」
小さく溜息を吐いて。
その後自分が笑っているだなんて、気付きもしなかった。