婚約者の幼馴染を、わたくしの妹に迎えました。もう守っていただかなくて結構ですわね
婚約披露の茶会で、わたくしの席に座っていたのはリゼット・オーブリー男爵令嬢だった。
中央の、背もたれに家紋の彫られた椅子。三日前にわたくしが自分で配置を決めた席である。そこに彼女が浅く腰かけ、両手を膝の上で固く握っていた。顔は白く、視線は卓の木目に落ちたまま動かない。
その隣で、わたくしの婚約者セドリック・ヴェルナー侯爵令息が立ち上がった。
「アニエス。怒らないでほしい」
怒る前に事情を聞きたい、と思った。
「リゼットは男爵家の出だ。端の席に座らせると、ほかの令嬢たちが彼女をじろじろ見る。君は強いから平気だろう。でも彼女は違うんだ」
庭に集まった四十人ほどが、扇の陰からこちらを窺っていた。
「だから、今日だけ」
セドリックは昔からこの言い方をする。今日だけ。この一度だけ。三年の婚約のあいだ、わたくしはこの言葉を数え切れないほど聞いた。冬の贈り物が先に届く先も、観劇の桟敷に招かれる人間の順も、わたくしの誕生日に彼が二刻遅れた理由も、すべて「今日だけ」だった。
誰かが、扇の陰で小さく笑った。
「まあ、リュミエール嬢はお優しいこと」
その声が誰のものかは分かっていた。三日前、席次の相談に乗ってくれと言ってきた侯爵夫人である。この方はいま、わたくしが席を譲ったのだと思っている。譲らされたのではなく。
その勘違いは、放っておけば明日には王都中に広まる。リュミエールの娘は婚約者に押し切られる、と。
「セドリック様」
わたくしは扇を閉じた。
「リゼット様のどこが可哀想なのですか」
彼は少し考えて、それからまっすぐに答えた。悪意はまるでなかった。そこが厄介だった。
「身分だよ。彼女は身分が低いだけなんだ。中身は君と何ひとつ変わらない。ただそれだけの理由で、彼女はいつも端に置かれて、誰からも数に入れてもらえない」
なるほど、と思った。
「だから君にも、彼女に君と同じだけの敬意を払ってやってほしいんだ」
同じだけの敬意。
わたくしはその言葉を、頭の中で二度繰り返した。
わたくしはアニエス・リュミエール。リュミエール伯爵家の一人娘で、去年の春から当主代理を務めている。父が寝ついて以来、領の裁可はすべてわたくしの署名で下りる。徴税の割付も、水路の修繕順も、小作の訴えも、家令の解雇も。
つまり、この家で人の身分に関わる書類を起こせる人間は、いまのところわたくししかいない。
「承知いたしました」
わたくしは言った。
「では、身分をなくしましょう」
セドリックが、口を半分開けたまま止まった。リゼット様が初めて顔を上げた。
「アニエス?」
「リゼット様。うちにいらっしゃいませんか」
§
その晩、わたくしは家令のマルタンを書斎に呼んだ。
「養子縁組の手続きを調べてください。男爵家の令嬢を、伯爵家の養女として迎えます」
六十を越えた家令は、一度だけ瞬きをした。この人は驚いても顔に出さない。父が倒れたと聞かされた朝も、同じ顔で湯を持ってきた。
「継承順位はいかがなさいますか」
「二位です。わたくしの次」
「……お嬢様。二位ということは、万一のことがあれば、あの方がこの家をお継ぎになります」
「ええ」
「三年前まで名も存じ上げなかった方に、ですか」
「マルタン」
わたくしはペンを置いた。
「継承順位を三位以下にすれば、それは『形だけの養女』です。社交界はそういうものを一日で見抜きます。わたくしが端の席に座らせたのと、同じことになります」
マルタンは少し黙ってから、深く頭を下げた。
「親族会議の招集状を書きます。十七名。最短で十二日後です」
付け加えるように、彼は言った。
「反対が出ますよ」
「出てもらわないと困ります」
わたくしは机の上の便箋を引き寄せた。反対されずに通る縁組なら、通っても意味がない。
§
十二日後、リュミエール邸の大広間に十七の椅子が並んだ。
三分の二は、わたくしが赤子のころから知っている顔だった。残りは領境を接する家の当主たちで、古い取り決めによって、この家の決定に口を出す権利を持っている。
半刻ほど、予想どおりの言葉が飛んだ。前例がない。男爵家から伯爵家への縁組など聞いたこともない。婚約者の幼馴染を家に入れるなど、外から見て体裁が悪い。お父上が目を覚ましたら何とおっしゃるか。
わたくしは全部聞いた。聞き終えて口を開こうとしたとき、扇の先が卓を叩いた。
叔母のオデットである。父の妹で、わたくしの縁組を三度まとめようとして三度とも失敗した人だ。
「アニエス。あなたは自分が笑われるのが我慢ならないだけでしょう。婚約者に軽んじられた腹いせに、その原因の娘を家に引き込む。世間はそう読みますよ」
「読ませておけばよろしいかと」
「あなたの評判が落ちます」
「落ちた評判で困るのは、わたくしの縁組だけです」
わたくしは叔母の顔を見た。
「叔母さま。この十四か月、わたくしの署名で下りた裁可は千二百件を超えます。そのうち縁組を理由に覆ったものは一件もありません。世間はわたくしの評判で小麦を買っているわけではないのです」
叔母は扇を閉じ、もう何も言わなかった。
そのとき、窓際の席の男が手を挙げた。
「一つだけ伺いたい」
ガルニエ辺境伯領の当主代行、テオドール・ガルニエ。二十六か七の、笑わない男だ。去年の秋、わたくしが水路の分配を変えたとき、唯一その理由を書面で問い合わせてきた人でもある。
「リュミエール嬢。あなたはこの縁組で、何を得ますか」
広間が静かになった。ほかの十六人は「なぜやめないのか」を聞いていた。この男だけが「何を得るのか」を聞いた。
「二つあります」
わたくしは立ったまま答えた。
「一つ。わたくしの婚約者は、リゼット様を『身分が低いだけで中身は同じ』と評しました。もし本当にそれだけの違いなら、身分を与えれば違いは消えます。消えなければ、彼の評が間違っていたことになります。どちらに転んでも、わたくしは三年間の疑問に答えを得ます」
「二つ目は」
「この家の継承者が、わたくし一人しかいないことです」
誰かが息を呑んだ。触れてはいけないことになっている話だった。
「父は起きません。わたくしが落馬すれば、リュミエールは領地ごと王家に返上されます。小作を含めて四千人の生活が、一人の娘の馬術にぶら下がっている。これは経営として下手です」
テオドール・ガルニエは、わたくしをしばらく見ていた。
「二つ目を先に言うべきでしたね」
「一つ目が本音ですので」
彼は初めて、ほんの少しだけ口の端を動かした。
「賛成します」
採決は十一対六で通った。
§
リゼット・オーブリーが屋敷に来たのは、その三日後だった。
彼女は玄関で、荷物を自分で持って立っていた。鞄は一つきりだった。
「あの、アニエス様。わたし、やっぱり辞退させていただきたく」
「理由を」
「……セドリック様が、心配なさっています。アニエス様が怒っておいでなのだと。わたしのせいで婚約がだめになるくらいなら、わたしは」
「リゼット様」
わたくしは彼女の鞄を取り上げた。思ったより軽かった。
「いま、あなたは自分の話を一度もしていません」
彼女が、言葉の途中で止まった。
「セドリック様が心配している。わたくしが怒っている。婚約がだめになる。全部、他人の話です。あなた自身はどうしたいのですか」
リゼット様は長いこと黙っていた。玄関の石の床は冷たく、外では馬丁が馬を引いていく音がしていた。
「……分かりません」
絞り出すような声だった。
「十四のときからずっと、どうしたいかを考えないようにしてきました。考えても、どうにもなりませんでした。可哀想でいれば、皆が優しくしてくださるので」
「では、それをやめるところから始めましょう」
わたくしは扉を開けた。
「うちでは、可哀想は通用しません。誰も助けてくれませんから、自分で決めてください。今日のうちに決めていただきたいのは一つだけ。朝食を何時にするかです」
彼女は、わたくしの顔を見た。
「……七時では、遅いでしょうか」
「六時半です。次から自分で決めて結構です」
§
九十日。
次の夜会までに残された日数である。貴族の養女には、それだけの時間で叩き込まねばならないものがある。所領の名と当主の名。序列と挨拶の高さ。書面の様式。金額の読み方。断り方。
最初の一月、リゼットは何を聞いても「はい」と答えた。二月目に、初めて「いいえ」と言った。領の小作から上がってきた訴状の写しを読ませていたときだ。
「これは、いいえです」
「理由は」
「この人は三年続けて同じ理由で猶予を願い出ています。一度目は水害でした。二度目も水害。三度目も水害。でも三年とも水が出たのは、隣の畑ではないんです。台帳に、書いてあります」
わたくしは台帳を確認した。彼女が正しかった。
「では、あなたが返事を書いてください」
「わたしが……?」
「猶予は認めない。代わりに水路の付け替えの願いなら受理する。そう書いて、あなたの名前で出しなさい」
彼女の手は震えていた。震えたまま、最後まで書いた。
その週から、わたくしは毎晩四半刻、断り方の稽古をつけた。
貴族の令嬢にとって、断るのは話し方の技術ではない。姿勢の問題だ。
「わたくしが何か頼みます。あなたは断ってください。理由は言わなくて結構です」
「はい」
「明日の朝、わたくしの代わりに来客の応対をしてください」
「……申し訳ございません、それはちょっと」
「いま、あなたは謝りました」
リゼットが口を押さえた。
「断ることは悪事ではありません。謝る必要はない。もう一度」
「……いたしません」
「声が小さい」
「いたしません」
「結構です」
十日ほどで、彼女は謝らずに断れるようになった。二十日目には、断ったあとで代案を出すようになった。
稽古を始めて三十日目、わたくしが「その髪型は古い」と言うと、彼女は「わたしはこれが好きです」と言い返した。
わたくしはその晩、自分の部屋で少し泣いた。誰にも言っていない。
三月目には、彼女は朝食の時間を変えていた。六時に起きて台帳を読み、七時に食べる。誰にも断らずにそうした。
夜会に出せる程度になったのは、九十日目の少し前だった。
最初の夜会で、彼女は五人から挨拶を受けた。リュミエール伯爵家の令嬢、継承順位第二位。誰も彼女を端に置かなかった。誰も彼女を見て囁かなかった。当然だ。そういう仕組みなのだから。
帰りの馬車で、彼女は窓の外を見たまま言った。
「お姉さま。わたし、今日、一度も可哀想じゃありませんでした」
わたくしは返事をしなかった。喉のあたりが少し痛かったので。
§
セドリックが屋敷を訪ねてきたのは、その翌週である。
彼は玄関で足を止めた。マルタンが行く手に立っていたからだ。
「リゼット様への面会をご希望でしたら、当主代理の許可が必要でございます」
「……許可?」
「リゼット様は当家の令嬢でございます。婚約のないご令息が個別に面会をお申し込みになる場合、家の許可が必要になります。ヴェルナー家でも同じかと存じますが」
セドリックはわたくしを探して大広間まで来た。
「アニエス、これはどういうことだ」
「どういうこと、とは」
「僕はリゼットに会えないのか。三年間ずっと会ってきたのに」
「三年間、あなたが会ってきたのは男爵家の令嬢です」
わたくしは書きかけの書類から目を上げなかった。
「いまの彼女は伯爵家の令嬢で、継承順位第二位です。手続きが変わるのは当然でしょう。あなたが望んだ『同じだけの敬意』とは、こういうものです」
彼の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「……そんなつもりじゃなかった」
「ええ。そうでしょうね」
わたくしはペンを置いて、初めてまっすぐに彼を見た。
「あなたはリゼット様に同じ敬意を払ってほしかったのではありません。可哀想なままの彼女を、自分だけが庇っていたかったのです。彼女が可哀想でなくなると、あなたは何の役にも立たなくなる。だから三年間、一度も彼女を引き上げようとしなかった」
「違う」
「では、なぜあなたは一度も、オーブリー男爵家に融資の口利きをしなかったのですか。ヴェルナー侯爵家なら三日でできたことです」
彼は答えなかった。考えたこともなかったのだろう。
§
十日後、ヴェルナー侯爵家から正式な書状が二通届いた。
一通目は、アニエス・リュミエールとの婚約解消の申し入れ。
二通目は、リゼット・リュミエールとの婚姻の申し入れだった。
わたくしは二通とも、当主代理として受理した。
一通目には、その場で承諾の署名をした。三年分の疑問には、すでに答えが出ている。
二通目は、リゼットの部屋へ持っていった。
「あなた宛です。当主として意見を述べることはできますが、述べないほうがよろしいですか」
彼女は書状を受け取り、最後まで読んだ。そう時間はかからなかった。
「お姉さま。この方、わたしのことを一度も『リゼット嬢』と書いていません」
「そうですね」
「ぜんぶ『リゼット』です。それから、『君を守らせてほしい』と四回書いてあります」
彼女は書状を膝の上に伏せた。
「わたし、守ってほしいとは一度も言ったことがないんです。十四のときから一度も。言わなくても守ってくださるので、ありがたいと思っていました。でも今なら分かります。あの方が守っていたのは、わたしじゃありません」
彼女は立ち上がって、机に向かった。
「お返事、自分で書きます」
返書は三行だった。写しをあとで読ませてもらった。
――お申し出は辞退いたします。わたくしはもう可哀想ではございませんので、守っていただく理由がございません。三年間、一度も身分を上げてくださらなかったご厚意に、心より感謝申し上げます。
最後の一行をどうしても足したかったのだと、彼女は少し赤くなって言った。
「意地が悪いでしょうか」
「上等です」
§
返書が届いた三日後、セドリックがもう一度屋敷に来た。
今度は許可を取っていた。正式な面会申請書に、彼自身の署名があった。三年間で初めて、彼がリゼットのために書いた書類らしい書類だった。
面会は、わたくしの立ち会いのもとで行われた。それが規則である。
「リゼット」
「リゼット・リュミエールです」
彼女は正面から名乗った。背筋が伸びていた。
「……君は、変わってしまった」
「はい」
「僕は、君が前のままでよかった」
そこで彼は、自分が何を言ったのか気づいたようだった。口を開いたまま、しばらく黙っていた。
「僕は」
「セドリック様」
リゼットが遮った。遮るのも、稽古したことの一つだ。
「わたし、あなたに感謝しています。本当です。十四のときから、あなただけがわたしに声をかけてくださいました」
「なら」
「だから三年間、わたしはずっと待っていました。いつかあなたが、わたしを引き上げてくださると思っていたんです。庇うのではなく」
彼女は一度だけ息を吸った。
「アニエスお姉さまは、三日で書類を出しました」
セドリックは、それ以上何も言わなかった。帰りぎわに一度だけ振り返って、大広間の中央の椅子を見た。あの茶会のために庭へ運ばせた、背もたれに家紋の彫られた椅子である。
そこには誰も座っていなかった。リゼットはもう、自分の椅子を持っている。
§
年が明けて、父が短い時間だけ目を覚ました。
枕元に二人いるのを見て、父はしばらく考えてから、リゼットのほうに手を伸ばした。
「新しいほうの娘か」
「はい。リゼットと申します」
「アニエスは、無茶を言わなかったか」
「たくさん言われました」
父が笑ったのを、わたくしは十年ぶりに見た。
春、ガルニエ辺境伯領から書状が来た。差出人はテオドール・ガルニエ。中身は、三枚にわたる水路の共同管理案と、末尾に二行だけの求婚だった。
――あなたが落馬しても四千人が困らない仕組みができたと聞きました。ならば、あなた個人の都合を伺ってもよろしいか。
わたくしは返事を書くのに三日かかった。人生で最も長くかかった三行である。
――わたくし個人の都合を申し上げます。わたくしは、人を庇う殿方が好きではありません。人の背を押す殿方が好きです。あなたは去年の秋、水路の理由を書面で問うてくださいました。あれが答えです。
書きながら、婚約者のいたころの自分を思い出していた。
あのころのわたくしは、セドリックが「今日だけ」と言うたびに、自分が心の狭い女なのだと思っていた。四十人の前で席を譲らされても、腹を立てる自分のほうがおかしいのだと。
おかしくはなかった。ただ、書類を出すのが三年遅かっただけだ。
その年の夏、リゼットは自分の名前で最初の裁可を下した。三年続けて水害を訴えた小作の、水路付け替えの願いである。認可。費用は領が六割。
書類を運んできたマルタンが、廊下でこう言った。
「お嬢様。反対は、出ませんでした」
「出てもらわないと困りますのに」
「次はきっと出ますよ」
窓の外で、リゼットが家令補佐と何か言い合っていた。声が大きい。譲る気がまるでない。
あの茶会の日、あの子はわたくしの席に浅く腰かけて、木目を見ていた。
いまは自分の椅子に深く座り、自分の名前で人の暮らしを決めている。
もう、誰にも守っていただかなくて結構ですわね。二人とも。




