まつよひ
熱で重くなった夜風が、仄かな火薬の匂いと共に鼻腔を刺激する。祭りの残り香だ、と思う間に、風はマチの前を通り過ぎんとする。何だか逃したくない気がしたマチは、深呼吸をして夜風の尾を掴み、気道から夏を呑んだ。
既に境内の方の喧噪も下火になりつつあり、参道沿いの植え込みに腰掛けるマチの前を通る人影もまばらになっている。マチが一度も露店に行くこともないまま、夏祭りは終わろうとしている。
「いつまでもグズグズしてるからこうなるんや。あんな男は早よ諦めて、一人でお祭りいけばよかってん」
「先にりんご飴食べてるところに、彼が来たら気まずいだろう。そういう機微が君には分からないのか」
「もう来んよ。お前も分かってるやろ」
「これから来るかもしれない。まだ来ないのは、何かアクシデントがあったのかもしれない」
「アクシデントって何やねん」
「お母さんが倒れたとか」
「それやったら連絡して、今日は行けないって謝るやろ。まともな男やったら」
こいつがまともを語るなど世も末だ、とマチは思った。
「そもそも、転校してすぐ男とデートできるなんて、甘い考えが間違いやってん」
「何が甘い。私と逢引したい男なんて、クラスだけでも、両手両足で収まりきらないほどいるはずだ」
「見た目も中身も中の下のお前に寄ってくる男なんて、おらんとは言わんが、一桁が限界や」
マチは臍下丹田に力を込め、思い切り腹をよじった。「むぎゃ」という短い悲鳴があがり、そしてしばらくの沈黙。
「……私に言うことは」
「すいませんでした」
「何がすいません?」
「中の下ではなく、中の上の間違いでした。どうかご寛恕を」
もう一度、腹をねじってやろうかと思ったが、あまりやり過ぎると腹筋ばかり鍛えられたアンバランスな肉体に変貌していきかねないので、控えた。
先程からマチが会話している相手は、保田という。年齢は分からない。顔も知らない。性別も不明である。
保田は、マチの身体の内側にいるのだ。彼奴は、マチの目を通じて外界を見、マチの鼻を通じて匂いを嗅ぎ、マチの口を通して喋るのである。
いつから保田がマチの内部に棲んでいるのかは、とんと検討がつかない。物心ついた時には既に、マチの体内からいちいち癇に障る発言をしていたと記憶している。
「君は何者だ? 私のもう一つの人格みたいなものか?」
「ちゃうよ」
「じゃあ何だ」
「何でしょう」
「もったいぶらないで早く言え」
趣が無いとぼやきながら、保田は自らを「体内霊」だと名乗った。
「何だそれ?」
「背後霊ってあるやん。それと同じ要領で、体内霊もおるんや」
「聞いたことがない」
「今聞いたやん」
この通り、淑女の繊細な神経を逆撫でする発言を平然と行うので、温厚篤実なマチの堪忍袋の緒も流石に切れることがある。その際は、マチが臍下丹田に思い切り力を入れ、保田をシメ上げる制裁を科す。シメられると保田は「むぎゃ」と悲痛な断末魔を残し、しばらくは黙るのである。
なお、緒の強度は年々低下しており、マチの腹筋がむやみに鍛えられるという不本意な結果を招来している。
「もし彼にふられたのなら、きっと君のせいだ。君のせいで、私の腹筋が六つになりつつあることが諸悪の根源だ」
「何をあほな。シックスパックの女子が好きな男もおるやろ」
「女の筋肉を愛好する男なんて、碌なものではない」
「ワオ」
保田の声はマチの口を通じて放たれているのだが、他人には壁蝨の放屁ほどの音量でしかないらしく、体内霊との会話を気取られたことは一度も無い(マチには骨伝導で聞こえているそうである)。
「ほら、腕時計見いや。こんな遅くに来るわけない。帰ろうや」
「黙れ。もう高校生なんだから、午後十時は昼間だ」
二週間前、父の転勤に伴いこの平凡な地方都市に引っ越してきたマチは、太陽が恥じらい月が羨む美貌で転校先の全生徒の耳目を集め、先日、クラスの佐田という男子から、夏祭りを一緒に巡ろうとの誘いを受けたのであった。佐田は校内でも名高い美男子であり、マチとしては大いに面目を躍如したつもりだったのが、今となっては、悪辣な詐略だという保田の説が有力になりつつある。
「散々言うたやん。あんなイケメンがお前を相手にするわけないって」
「時間を守るのが苦手なタイプなのかもしれない」
「そんなレベルちゃうやろ。約束の時間から五時間経ってるやん」
「黙れ。君の意見は求めていない」
「何や!」
反射的にシメ上げてしまった。「むぎゃ」の声が響き、再び静かになる。
保田のみならず、境内の方も既に沈黙が支配しているようで、マチは一人で嘆息した。つい暴力に訴えたが、これは自らの焦慮の表れなのではないか。自信溢れる言動は保田に対してだけの内弁慶で、実際には自分から他人を誘う度胸も無い。だから、碌に話したことのない男の甘言に、簡単にひっかかったのではないか。
「……あの、マチさん」
「何だ」
急にしおらしくなった保田が、小声で囁いてきた。マチは自己嫌悪から不機嫌な声で応じる。
「もう子の刻です」
「だから?」
「だからじゃなくて。早よ帰ろう」
その時、石畳を踏みしめる音。
「き、来た」
足音は次第に近づいてくる。姿はまだ見えないが、得体の知れない瘴気に大気が微動するのが分かる。風に吹かれていた木立は気配を消すように静かになり、人の喧噪も、虫の羽音すらも聞こえない。ただ、保田が恐怖のあまり漏らす息遣いだけが、骨伝導で頭に響いてくる。気色悪い。
足音の主が、遂に姿を現した。二本の脚、二本の腕があり、見てくれは人間と変わらない。全身に目玉が生えていることを除いては。
「いああ」
保田が情けない悲鳴を漏らし、マチの臍下丹田で息を殺す。全身目玉男は、皮膚の色、頭の形が分からなくなるほどに敷き詰められた無数の目をいっぱいに開き、植え込みに座るマチを見下ろしてくる。鼻筋や唇に至るまで、まるで吹出物のように大小の目玉が埋め尽くしているのが分かる。
マチが微動だにしないでいると、全身目玉男が、やはり目玉が数多生えた手を顔に運び、頬の辺りの目玉を、指で圧迫した。目玉と目玉が圧し合い、やがてゴムをねじ切るような音がして、次々と破裂していく。
破裂した目玉からは、膿か脂のような黄ばんだゾル状の物質が、奔流となって溢れ出した。それらがマチの頭頂に降り注ぎ、垂れ流れていく。視界を塞ぎ、鼻孔や耳孔を包み込んでいく。息ができなくなっていく。
「い、嫌や、こんなの嫌やあ」
保田の震え声が、マチに訴えかけてくる。
* * *
「……おい、保田」
マチが小声で呼びかける。
「安心しろ、奴はもういないだろう」
「……嘘や。まだおるわ」
心なしか声が上ずっているが、何とか元の調子を取り戻しつつあるようである。参道は、再びマチ一人の静寂に帰っていた。
「あー、気色悪すぎる」
「私もあんなのは初めて見た」
マチは脳裏に百目という妖怪のことを思い浮かべたが、百目が目玉を潰して変な液を出し、人を窒息死させようとするとは聞いたことがなかった。
「なあ、帰ろうや。もうええやろ」
「……佐田君がまだ来ていない」
保田が「おい!」と憤りの咆哮をあげるが、マチは黙殺した。
「……ちょい、スマホ出して」
「何する気だ」
「もう佐田に電話しよ。それが一番手っ取り早い」
一応、スマホを取り出してみる。だが、異性の同級生と通話などしたことのないマチには、どうにも難度の高い行為である。
「……私と彼は、通話するほどの仲だろうか」
「あっちが約束破ってんねんから、催促の電話くらいええやろ」
それもそうかもしれない。現時点で、メッセージには既読すらついていないが、通話ならマチが散々待たされている状況が伝わるかもしれぬ。それに、佐田と通話してみたい気持ちもある。
マチは通話の画面を開いた。が、そこで新たな懸念が噴出する。
「……何と言って話せばいいだろう」
「あ?」
「確かにこちらは待たされているが、だからといって、怒っているかのように受け取られるのもまずいだろう」
「あー、じゃあ、『チャオ』って言おう。フレンドリーや」
「男性はそれを言われると喜ぶのか」
「うん? おん」
「分かった、『チャオ』だな」
「もう何でもええよ」
マチは着信ボタンを押下した。呼び出し音は三十秒ほどで途切れる。
「佐田君? チャオ」
マチは、精一杯の明るく、そして落ち着いた声音を演出した。だが、それに続いたのは、マチの台詞の残響すら聞こえてきそうなほどの沈黙であった。
不審に思って画面を見てみると、佐田は応答しておらず、「〈佐田君〉が退出しました」の文字が表示されている。
「どういうことだ、これは」
「あー、連絡先を削除されてるやん」
「何がおかしい」
実に愉快そうな保田の引き笑いに、マチは須臾にして自分が嵌められたのだという考えに達した。
「き、貴様、たばかったな」
「何がやねん」
「佐田君の機嫌を損ねるため、私に通話するよう仕向けさせたんだろう」
「意味わからんわ。ほら、もう佐田との連絡手段も無いし帰ろうや」
憤怒に震えるマチは、自分の腹部を思い切り殴った。拳が見事に鳩尾に入り、保田が「ぐえ」と悲鳴をあげるが、マチ自身も悶絶する。
「な、何すんねん、このあばずれ」
「だ、黙れ、お前なんて豆腐の角に頭ぶつけて脳挫傷で死ね」
「俺に頭も脳も無いわ!」
「お前の母ちゃん出べそ、お前も出べそ、子々孫々末代まで出べそ!」
「へそも無いわ!」
切腹して保田ごと死んでやろうかという考えが浮かんだ時、辺りの木立や、虫や鳥が、さっと静かになった。保田がはっとしたように押し黙る。今度は境内の方から、車輪が転がるような音が近づいてくる。
「……あんな大声出すからや、どうすんねん」
「大声を出したのはお前だろう」
「く、来る」
マチの前に現れたのは、台車と、それを引く白い法被姿の男であった。男は随分上背があるが、法被の裾がそれ以上に長く、半ば地面に引きずって歩いている。台車上には大きな黒いゴミ袋。「何だ、祭りの片づけか」と、保田が安堵の声を漏らした。だが、境内から聞こえる声から鑑みて、祭りはとっくの昔に終わっていたのではなかったか。
「……お嬢さん、こんな遅い時間にどうしたの」
台車を引く男が立ち止まり、俯きがちにしわがれた声をかけてくる。
「……人を待っています」
「……もうお祭りは終わったよ」
そう言うと、男が顔を上げた。
「今からは、俺たちの祭りだ」
男の顔は、生まれたばかりの赤ん坊の顔であった。
「おわあああああ」
保田が絶叫する一方、マチは微動だにしない。まだ羊水の乾かない顔が大柄な成人男性の体躯の上に乗り、しわがれた声で黒いゴミ袋の方へ呼びかける。
「……お母さん、獲物ですよ」
黒いゴミ袋を振り払い出てきたのは、餓鬼のようにやせ細った女であった。腐りかけの海藻のような髪の間から、土気色の顔と、不釣り合いなほど光る両眼が覗いている。ほぼ骨と皮だが、腹だけが大きく膨らんでいて、その腹は真ん中で切り裂かれ、羊水と血液を垂れ流していた。
「お、おい、頼む、やめてくれ」
「お母さん、今です」
赤ん坊男が呼びかけると、女の腹から無数の赤子が這い出してきた。血と用水の泥濘の中、母親の皮膚を押しのけ、赤ばんだ身体をてからせ、互いに押し合いへし合いしながら、マチにまとわりついてくる。
「嫌や、無理や、嫌すぎる」
保田の絶叫も空しい。赤子の群れは一体となってマチを絡めとり、呑み込み、そのまま彼らの母胎へ引きずり込まんとする。赤子とは思えない力である。マチの視界は、次第に赤子の短い手や脚に埋め尽くされ、暗転していった。
* * *
「……おい、保田」
マチが小声で呼びかける。
「安心しろ、奴はもういないだろう」
「……嘘や。まだおるわ」
心なしか声が上ずっているが、何とか元の調子を取り戻しつつあるようである。参道は、再びマチ一人の静寂に帰っていた。
「あー、気色悪すぎる」
「私もあんなのは初めて見た」
マチは脳裏に産女という妖怪のことを思い浮かべたが、産女の腹から大量の赤子が出現し、人を胎内へ取り込もうとするというのは聞いたことがなかった。
「なあ、帰ろうや。もうええやろ」
「……佐田君がまだ来ていない」
保田が「おい!」と憤りの咆哮をあげるが、マチは黙殺した。
「そんな汚い浴衣で佐田が来たってどうしようもないやろ。もう待たんでええやん!」
マチの浴衣は、先程の赤ん坊の群れにまとわりつかれたために、血や羊水であちこち汚れていた。せっかく今日のために用意したのに、台無しである。
「佐田君は、人を見た目で判断する人間じゃない」
「血まみれの浴衣なんか誰でも引くわ!」
マチは、今夜四度目となる腹筋シメ技を仕掛けて保田を黙らせた。
とはいえ、時刻は現時点で零時を回っている。十七歳の一人娘の夜遊びを、両親は許したもうか。いや、許したまわぬであろう。ならば、何かうまい言い逃れを考えなくてはならない。それまで帰ることはできない。
「保田」
「おん?」
「今帰っても、両親から雪隠詰にされるだけだ。何か適切な言い訳は無いか」
「んな都合いいものあるわけないやん。正直に男に騙されたって言えよ」
「それは私の矜持が許さぬ」
じゃあ自分で考えろ、と無礼なことを言うので、マチは再び臍下丹田を締め上げた。今晩、腹筋が鍛えられてしまうのは仕方ない。もう諦めよう。明日、一日中寝て腹筋を使わなければ、帳尻は合う。
「……いっそ、朝帰りしようか」
「そんなことしたら余計に怒られるやろ……」
「いや、男性とのデートの末に朝帰り、その結果として怒られるのであれば、私の矜持に傷はつかない」
「意味わからんて。もう眠いし帰ろうや」
保田はすっかり疲れ切った声をあげた。だが、こいつは普段、夜中まで変な歌を歌うなどしてマチの睡眠を妨げているので、眠いというのは虚言に違いない。
「……誰か来る」
不意にマチが感じた気配を、保田も感じ取ったようであった。「……おい、これやばいって。いい加減に帰ろうや」と、消え入りそうな声で哀願してくる。
それでもマチが動かないでいると、辺りの木立は枯れ果て、虫や鳥は死に絶えたかのような、いわば致命的な静けさが参道を覆い始めた。それと共に、息の詰まるような瘴気が身体に絡みついてくる。
「マチ、おい……」
「……佐田君」
マチは、保田の言を無視して思わず立ち上がった。透き通るような雪膚が夏の夜闇に浮かび上がり、やがてその全身が現れる。参道を上ってきたのは、紺色の浴衣に身を包んだ、眉目秀麗な青年であった。
「……ごめん、遅くなっちゃって」
「大丈夫、全然待っていない」
普通なら保田がここで「さすがに嘘やろ」とつっこむものだが、かつてなく怯えているのか、一言も発さない。マチは止める者もおらぬまま、突如現れた佐田と話し続ける。
「浴衣、素敵だね」
「ありがとう」
わざとらしく自らの髪をなでたマチの手を、佐田が慣れた様子で握った。「じゃあ、お祭りに行こうか」と言って、そのまま歩き出す。
「……もう、お祭りは終わってると思うが」
動こうとしないマチに、佐田の足が止まった。ちょうど見えない角度にある佐田の口から、「どうして?」という声が聞こえてくる。マチにはその背中と、マチの繊手を離そうとしない白い手だけが見える。
「どうしてって……」
「今からが、僕たちのお祭りじゃないか」
夜気を震わす音律が次第に崩れ、マチの知らないものになる。そこでマチは初めて、佐田の浴衣の背中が、何か隠れているかのように、奇妙に蠢いていることに気づいたのであった。
「今夜はみんなが集まる。丑の刻を回ったら、境内で僕らの祭りが始まるんだよ」
紺色の浴衣が裂け、背中の皮膚が裂け、現れたのは肉と骨ではなく、無数の蛞蝓であった。気づけば、マチがつないでいた手も蛞蝓の群れと化し、指や手の平を這いずり回っている。
振り向いた佐田の顔が、急速に歪み、膨れ上がり出す。目玉は飛び出て蛞蝓の糸玉に戻り、鼻を形作っていた蛞蝓は散開して、頭頂へとよじ上っていく。そうして残った口だけが、人ひとりを丸呑みできるほどに大きく開かれた。
「君は今夜の酒の肴だ」
殆ど頭部と口だけになった化物が、猛然と飛びかかった。マチは微動だにしない。テントほどの大きさのある白い口腔は、蛞蝓の体液で夜光に鈍くてかり、一種の野外彫刻に見える。その中に蠢く無数の蛞蝓は、モザイクアートのようである。
蛞蝓の先端がマチの鼻先に迫ったその刹那。
マチの顔が、唇を裂け目にめくれ上がった。
蛞蝓の大群はこの時、何を思ったであろうか。彼らは一言も発することができずに、マチの顔全体を塗り潰すように現れた、洞々たる闇の中へ須臾にして吸い込まれた。後には夜と沈黙だけが残された。
「……おい、保田」
マチが小声で呼びかける。
「安心しろ、奴はもういないだろう」
「……嘘や。まだおるわ」
心なしか声が上ずっているが、何とか元の調子を取り戻しつつあるようである。参道は、再びマチ一人の静寂に帰っていた。
「……おい」
「どうかしたか」
マチの顔は、いつの間にか元に戻っている。
「どうかしたかちゃうわ! 何で蛞蝓なんか食うねん! 俺のこと考えろよ!」
「どうせ消化されるんだからいいだろう」
「それまでずっと蛞蝓とおらなあかんやん! ていうか、俺みたいに消化されんかったらどうすんねん!」
「うるさいな、私が何を食べようが勝手だろう」
マチには生まれながらにして、妖怪変化を食べる能力があった。どんな巨体でも関係なく呑み込み、何の支障もなく消化することができる。特に美味しいわけでもなく、栄養になっているかも判然としないが、マチはこうして時々、妖怪変化の通り道で、例えば今夜なら彼らの夏祭りの会場へと続く道で待ち伏せして、彼らを捕食しているのであった。
そしてマチの体内に棲む保田は、思うに、マチが初めて食べた妖怪であった。保田はなぜか、きちんと消化されずにマチの体内で喋ったり歌を歌ったりしているが、これは当時、捕食の能力がまだ発達途上にあったからだとマチは考えている。もっとも、これらの事情について、保田は未だにはっきりと語らないが。
「マチ」
「何だ」
「マチ」
「何だ」
「マチ」
「だから何だ」
「あああああああああ!」
保田が奇声をあげるが、特に珍しいことではないので黙殺する。今頃、保田は融けかけの目玉と赤子と蛞蝓に浸かっているのであろう。マチに散々罵詈雑言を浴びせた当然の報いである。
「何やねん、これ。気色悪すぎるやろ! おい!」
「私もあんなのは初めて見た」
マチは脳裏に狸や狐といった人を化かす妖怪のことを思い浮かべたが、蛞蝓が群れをなして人を化かすというのは聞いたことがなかった。
「帰るか。もう満腹だ」
「は? 佐田はええんか」
「愚物め。彼を待つというのはただの方便だ。食事のついでに待っていたに過ぎない」
「嘘つけや!」
マチは臍下丹田に力を込め、保田の「むぎゃ」という短い悲鳴が、宵の闇に響いた。
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