02この世界のこと、レクサスのこと、俺のこと
牧場へ向かう車内で、俺はハンドルを握ったまま、恐る恐るアンナに聞いた。
「さっきの炎……あれは、なんだ? 魔法、なのか?」
アンナはきょとんとした。
「もちろん、魔法よ?」
当たり前でしょう、という顔だ。
「もしかして、タカセ……魔法を見るの、はじめて?」
珍しい動物でも見るような目で俺を見つめる。
アンナの説明によると、
彼女は父親から剣術を、母親から魔術を教わっているらしい。
父は戦士。
母は魔術師。
そういえば、今朝会ったとき、彼女は俺に杖を向けていた。
もしあのとき、俺が不審な動きをしていたら――
俺もあの三ツ目狼のように、丸焦げになっていたわけか。
背筋が、ひやりと冷える。
戦士。
魔術師。
魔法。
見慣れない人々。
聞いたことのない街。
俺は、ひとつの結論に至る。
ここは、おそらく――
俺の住んでいた世界とは、別の世界だ。
いまだに信じがたい。
だが、そう考えなければ説明がつかない。
レクサスの静かなエンジン音だけが、俺をかろうじて現実につなぎ止めている。
◇
ほどなくして、牧場に到着した。
日はすでに沈み、空は群青色に変わっている。
家の前にレクサスを止め、俺は深く息を吐いた。
あわただしい一日だった。
いや、とてつもなく長い一日だった。
ふと、視線がメーターに落ちる。
ガソリン残量計。
今まで気にする余裕がなかったが、改めて見て、凍りついた。
――ほぼ、ゼロ。
「……は?」
おかしい。
満タンだったはずだ。
体感的に、そこまで走っていない。
草原を走った時間も、街までの往復も、せいぜい数十キロのはず。
なのに。
メーターは、空。
そこで、恐ろしい事実が頭をよぎる。
この世界に、ガソリンスタンドはあるのか?
いや、ないだろう。
そもそも、車が存在しない。
ガソリンが尽きるということは――
レクサスが、ただの鉄の塊になるということだ。
さっと血の気が引いた。
俺の“城”が、終わる。
「どうしよう……」
だがそのとき、別の異変に気づく。
体が、妙に重い。
いや、違う。
何かが、抜けている。
腹が減ったような、脱力感。
だがそれは、空腹とは違う。
もっと内側の、芯の部分が空になったような感覚。
アンナが助手席で、じっと俺を見ている。
「……どうしたの?」
俺はできるだけ平静を装って言った。
「レクサスのエネルギーが、ほぼなくなった」
アンナは一瞬、目を細める。
「そうでしょうね」
あまりにあっさりしている。
「あなたの魔力が、ほとんどゼロになっているのを感じるもの」
「……魔力?」
「このレクサスは、あなたの魔力を消費して動いているのでしょう?」
魔力。
また知らない単語が増えた。
俺の、魔力?
ガソリンではなく?
確かに、燃料の減り方はおかしい。
もしかして――
くわしく聞き返そうとした、そのとき。
コン、コン。
窓を叩く音がした。
振り向くと、マルタばあさんが立っている。
「夕食ができているよ。さあ、入っておいで」
◇
俺は、マルタの家で夕食をごちそうになっていた。
木のテーブルに並べられた料理から、湯気が立ちのぼる。
香りをかいだ瞬間、俺の胃袋が盛大に鳴った。
ぐう、と、はっきり聞こえるほどに。
そういえば、朝から何も食べていなかった。
三ツ目狼に追われ、異世界らしき場所を走り回り、街へ行き、牧場へ戻り――
まともに何かを口にした記憶がない。
スープにパン、そしてチーズ。
どれも素朴だが、温かい。
スープをひと口すすった瞬間、全身に熱が広がった。
生き返る、というのはこういうことか。
俺は夢中で食べた。
そんな俺を見て、マルタが目を細める。
「いっぱいあるからね。ゆっくりお食べ」
その声は、思ったよりずっと優しかった。
◇
胃袋が落ち着いたところで、俺は改めてアンナに向き直った。
「さっきの魔力って話、もう少し詳しく教えてくれないか」
アンナは、はあ、と小さくため息をつく。
「そんなことも知らないの?」
呆れたように言いながらも、きちんと説明してくれた。
人にはそれぞれ魔力がある。
魔力を消費して、魔法を発動させる。
量は資質によって違い、鍛錬によって増やすこともできる。
アンナは魔術師としての手ほどきも受けているため、
人の魔力量をおおよそ感じ取れるらしい。
「タカセにも、ちゃんと魔力はあるわ。普通の魔術師くらいはね」
「俺が……?」
「ええ。レクサスを動かしている間、どんどん減っていくのを感じたもの」
その言葉に、昼間の違和感がつながる。
ガソリンの減り方が異常だったこと。
体の奥が空になるような感覚。
「だから、あれはあなたの魔力を使って動いてるんだと思う」
魔力で、車が動く?
理屈はわからない。
だが、ガソリンは減っていなかった。
減っていたのは――俺の中身だ。
それなら、辻褄は合う。
「あなた、そんなことも知らずに、あのレクサスを動かしていたの?」
アンナが本気で呆れた顔をする。
俺にとっては、青天の霹靂だった。
しばらく言葉が出ない。
俺はただ、テーブルの上のパンを見つめていた。
魔力。
俺のレクサスは、俺の魔力で動いている。
つまり――
燃料タンクは、俺自身だ。
「でも安心して。魔力は一晩休めば自然と回復するわよ」
その一言で、ようやく息が戻る。
レクサスが、ただの鉄の塊にならなくて済む。
それだけで、胸の奥が軽くなった。
だが同時に、別の事実に気づく。
一日の走行距離には、限度がある。
しかも、今日の感覚からして、結構しょぼい。
三時間を三十分に短縮できる。
だが、無制限ではない。
魔力が尽きれば、終わり。
魔力を増やすことを考えなければならないようだ。
それにしても、
アンナの説明は、簡潔でわかりやすかった。
感情的にならず、必要な情報だけを伝える。
たいしたものだ。
少し、感心する。
そして思う。
この世界は、魔法で動いている。
なら。
レクサスも、魔法の理屈で最適化できるのではないか。
俺はスープの残りを飲み干した。
胃は満ちた。
魔力も、少しは回復しているのだろうか。
◇
「タカセの家はどこなの?」
アンナの、なんでもない一言だった。
だが、その問いに、俺は答えに詰まる。
家。
住所も、最寄り駅も、帰り道も――
すべて、あの世界のものだ。
俺は、箸を置いた。
「……信じてもらえないかもしれないけど」
前置きしてから、正直に話した。
別の世界に住んでいたこと。
ローンで買ったレクサスごと、この世界に飛ばされたこと。
話しながら、自分でも現実味がないと思う。
だが、隠しても仕方がない。
「ああ」
マルタが、あっさりと相槌を打った。
驚きは、ほとんどない。
「そういう人が、たまに現れると聞いたことがあるわねえ」
アンナも頷く。
「異邦人とか、転移者とかって呼ばれてるよ」
たまにいるんだ。
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
俺と同じ境遇の人間が、他にもいる。
なら、いつか会えるかもしれない。
だが。
「まあ、めったにあることではないしね。私も見るのは初めてだよ」
マルタのその一言に、ほんの少し、肩が落ちた。
結局、俺はレアケースらしい。
頼れる“先輩転移者”が都合よく現れる、なんてことはなさそうだ。
すると、マルタがふっと表情を和らげた。
「行くところがないのなら、うちにいればいいさ。困ったときはお互いさまだよ」
思わず顔を上げる。
「部屋がひとつ空いているからねえ」
アンナも、隣でこくりと頷いた。
それは、正直ありがたい。
こんな未知の世界で、夜に放り出されたら――
いくらレクサスがあっても、さすがに心細い。
「いいんですか?」
思わず聞き返す。
「ただし」
マルタが、にやりと笑う。
「また街へ行くときは、手伝ってもらえるかい?」
そりゃそうですよね。
タダ飯、タダ宿とはいかない。
だが、レクサスでの輸送なら、お安い御用だ。
「もちろんです」
俺は、深く頭を下げた。
ありがたく、お言葉に甘えることにする。
だが、ふと冷静になる。
こんな見ず知らずの男を、簡単に家にあげていいのだろうか。
今日は、アンナの両親は冒険者の依頼で不在らしい。
若い女性と、おばあさんだけの家に。
そこまで考えて――
夕方の光景が脳裏に浮かぶ。
三ツ目狼を一撃で焼き払った、あの炎。
もし俺が妙な真似をしたら。
俺も、ああなる。
……一捻りだな。
妙に納得した。
◇
夜。
俺はあてがわれた部屋のベッドに横たわっていた。
父親のだけど、と貸してもらった部屋着に着替えている。
少し大きめで、袖が長い。
ほんのりと乾草のにおいがした。
牧場の匂いだ。
今日は疲れているはずなのに、なぜか眠気が来ない。
興奮しているのだろう。
目を閉じると、今日一日の出来事が一気に押し寄せる。
高速道路。
白く歪んだ視界。
草原。
三ツ目狼。
魔法。
魔力で動くレクサス。
とんでもないことになった。
俺は元の世界に戻れるのだろうか。
ローンの支払いはどうなる?
俺が消えたら、会社は?
親は?
そんなことを考え出すと、胸の奥がざわつく。
コンコン。
不意に、ドアを叩く音がした。
「は、はい」
少し上ずった声で返事をする。
ドアがゆっくり開き、アンナがひょっこりと顔を出した。
寝間着姿だ。
柔らかな布のワンピースに、ほどけた髪。
妙に、どきりとする。
「ねえ、タカセ。ちょっといい?」
少しだけ、はにかんだ声。
その目は、きらきらと輝いている。
心なしか、顔も紅潮しているように見える。
「はひっ」
情けない声が出た。
アンナは首をかしげる。
「あのね……レクサスのこと、もう少し教えてくれないかしら?」
目がぎろり、と輝く。
ああ。
俺じゃない。
レクサスだ。
そっちか。
なんだろう、この肩透かし。
……いや、わかる。
あれだけの“魔法の馬車”だ。
興味を持たないほうがおかしい。
「もちろん」
俺はベッドから起き上がった。
アンナは遠慮なく部屋に入り、椅子に腰かける。
「どうやって動くの? なんであんなに速いの? あの光る板はなに?」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。
俺は思わず笑った。
その夜遅くまで、俺は愛車レクサスについて熱弁をふるい、
アンナは目を輝かせて聞いていた。




