01ローンで買ったレクサスSUV、異世界に着地する
納車の日、俺は三回も契約書を見直した。
月々八万三千円。
ボーナス払い年二回。
支払い総額――考えないことにした。
それでも、判子を押した。
社会人一年目。
貯金ほぼゼロ。
なのに選んだのは、分不相応なレクサスSUV。
理由は簡単だ。
「成功した側」に、なりたかった。
物流倉庫の管理職――といっても、まだ見習いだが――になって半年。
現場は戦場だ。
荷受けの遅延、在庫差異、ドライバーからの苦情、上司からの圧。
数字が一つ狂えば、全体が崩れる。
俺は毎日、コンテナの山に囲まれて生きている。
だからこそ、静かな空間が欲しかった。
レクサスのドアを閉めた瞬間、外界の音が一段遠くなる。
静かだ。
エンジンをかけても、ほとんど振動がない。
ナビ画面が点灯し、アンビエントライトが柔らかく足元を照らす。
この密閉空間だけが、俺の城だった。
初ボーナスが出た夜。
俺は高速道路へ乗った。
一定の速度で流すだけで、世界が滑っていく。
ロードノイズは抑えられ、ハンドルは指先で応える。
「……悪くない」
いや、最高だ。
ローンの数字は重い。
だが、この感覚を知った以上、後悔はなかった。
俺はアクセルを少し踏み込んだ。
静かな加速。
外の景色が後ろへ流れる。
そのときだった。
ナビの地図が、一瞬、乱れた。
「ん?」
現在地のアイコンが、道路から外れ、真っ白な空白へ滑っていく。
街灯が、ぼやける。
霧でもないのに、視界が白む。
メーターの光が一度、消えた。
心臓が跳ねる。
「ちょ、待っ……」
ブレーキを踏む。
踏んだはずなのに、減速の感覚がない。
いや、違う。
路面の抵抗が、消えた。
浮遊感。
落ちる感覚。
衝撃は、なかった。
ただ、完全な静寂だけがあった。
これ以上ないほどの、静粛性。
そして――
目を開けると、空がやけに広かった。
フロントガラス越しに、見たことのない青。
周囲に、街灯も、ガードレールもない。
「……は?」
エンジンは止まっている。
だが車は無事だ。
シートに身を預けたまま、俺はゆっくりと周囲を見渡す。
草原。
どこまでも続く草原。
舗装路はない。
高速道路はない。
代わりに聞こえるのは、風と、虫の羽音。
うるさい。
外の世界が、うるさすぎる。
レクサスの車内だけが、異様に静かだ。
まるで、世界から切り離された箱の中にいるみたいに。
恐る恐るドアを開ける。
途端に、ざわりと風が流れ込み、土の匂いが鼻を刺した。
タイヤの下は、アスファルトではなく、柔らかい土だ。
「夢、だよな?」
スマホを取り出す。
圏外。
当たり前だ。山奥なら電波が届かないこともある。
そう自分に言い聞かせた、そのとき――
遠くで、低い唸り声が響いた。
ぞわりと背筋が粟立つ。
振り向く。
草むらの向こうから、見たことのない獣が現れた。
狼に似ている。
だが体長は明らかにでかい。
牙が、やけに長い。
そして、赤い目が、三つある。
「……化け物!」
獣が、地面を蹴った。
一直線に、こちらへ駆けてくる。
速い。
土煙を上げながら、一気に距離を詰める。
俺は慌ててレクサスに飛び込んだ。
ドアを閉めるのと、獣が車体に激突するのが同時だった。
ドンッ、と鈍い衝撃。
車体が揺れる。
獣が唾液まみれの口を大きく開け、ドア越しにかぶりつこうとする。
牙がガラスに当たり、嫌な音が響く。
「ひいっ!」
震える指でスタートボタンを押す。
エンジンが静かに目を覚ます。
この状況で、その滑らかさが逆に頼もしい。
ギアを入れ、アクセルを踏み込む。
レクサスは一瞬の溜めもなく、前へと跳ねた。
四輪が土を噛む。
獣が車体から振り落とされる。
バックミラーに、追いすがる三つ目の赤が映る。
早い。
人間なら一瞬で追いつかれる速度だ。
だが。
レクサスの加速は、それ以上だった。
速度が上がる。
草原が流れる。
ハンドルはぶれない。
車内は、依然として静かだ。
外では化け物が走っているのに、ここだけ別世界のように安定している。
「頼む、頼む……!」
俺はさらにアクセルを踏む。
エンジン音はほとんど響かない。
ただ、景色だけが後ろへと消えていく。
やがて、バックミラーの中の赤い光が小さくなる。
獣は速度を落とした。
それでも数秒、執念のように追ってきたが――
ついに立ち止まった。
草原の中で、こちらを睨みつけたまま、動かない。
その姿が、だんだんと小さくなり、
やがて見えなくなった。
俺はハンドルに額を押しつけた。
肺がようやく空気を思い出したみたいに、荒く上下する。
「……生きてる」
声が震える。
さっきのは、熊でも犬でもない。
どう考えても、普通じゃない。
だが。
レクサスは無傷だ。
警告灯も点いていない。
静かに、規則正しくアイドリングしている。
この車だけが、現実の延長線上にある。
それ以外のすべてが、異物だ。
俺はバックミラーをもう一度見た。
何もいない。
ただ、広すぎる草原が続いている。
「……ここ、どこだよ」
答える者はいない。
風の音だけが、遠くで鳴っていた。
◇
しばらく草原を走ると、ようやく“道”らしきものに出た。
道と言っても舗装されているわけではない。
草原の真ん中に、土が踏み固められた帯が、まっすぐ続いているだけだ。
幅は、だいたい二車線分ほど。
轍の跡が残っている。
少なくとも、ここを行き来する何かはある。
「道、だよな……?」
自分に言い聞かせるように呟く。
道があるなら、人がいる。
人がいるなら、町がある。
町があるなら――ガソリンスタンドもある、かもしれない。
希望的観測だが、今はそれでいい。
俺はレクサスをその土の道に乗せ、ゆっくりと走らせた。
ぬかるみも、石も、想像以上に安定している。
やっぱりSUVで正解だった。
しばらく進むと、前方に何かが止まっているのが見えた。
最初は岩かと思った。
だが、近づくにつれ、形がはっきりする。
人影。
そして、荷車だ。
荷車の片輪が外れ、傾いている。
人影はそれを覗き込んでいる。
「ひと、だ」
胸の奥が、ふっと軽くなる。
俺は速度を落とし、レクサスをゆっくりと近づけた。
近づくにつれ、相手の姿がはっきりする。
おばあさんと、十代半ばくらいの女の子。
車輪を覗き込む少女。
それを見守るおばあさん。
ふたりとも、妙に古風な格好をしている。
エプロンドレスに、編み上げの靴。
なんというか、ハイジに出てきそうな雰囲気だ。
荷車には、樽や木箱がぎっしり積まれている。
俺が近づくと、彼女たちもこちらに気づいた。
まず、驚き。
次に、警戒。
少女は背中から棒のようなものを引き抜き、こちらに向けて構えた。
杖……?
俺は少し手前でレクサスを止め、エンジンを切る。
ドアを開け、両手を上げながら声をかけた。
「あ、あの。こんにちわ」
我ながら間抜けな挨拶だ。
ここがどこか聞きたい。
だが、それよりもまず、この状況だ。
「どうしました? なにか、手伝いましょうか?」
杖を構える少女を、おばあさんが制した。
俺とレクサスを交互に見ながら、ゆっくり口を開く。
「見ての通り、市場に品物を運ぶ途中でしたが……荷車の車輪が壊れましてな」
視線が、俺の後ろの車体に戻る。
そして。
「あんた。その黒いでかいのは、いったい、なにかね?」
横で少女も、怪訝そうに眉をひそめている。
「え?」
質問の意味が、すぐに飲み込めなかった。
「だから、その黒いもの。馬車か? 魔獣か? それとも魔道具の類かい?」
魔獣?
魔道具?
この人たち、車を知らないのか?
「レクサスです」
とっさに答えてしまう。
「レクサス? それは、魔法の呪文かね?」
「え、いや……その……魔法の馬車、みたいなものです」
自分でも苦しい説明だと思った。
だが、おばあさんは目を丸くし、感心したようにうなずいた。
「ほう……こんなのは初めて見るねえ。たいしたもんだ」
少女も、杖を下ろし、じっとレクサスを見つめる。
好奇心が勝ったらしい。
頭が混乱する。
車を知らない?
魔法?
馬車?
いや、いまはそれどころじゃない。
荷車を確認する。
シャフトが完全に折れている。
応急処置ではどうにもならない。
俺の視線に気づき、おばあさんが続けた。
「乳もチーズも積んできたのに、
このままじゃ街の店に顔向けできんでなあ……困ったもんだよ」
荷台を見る。
樽が三つ。
木箱が五つほど。
レクサスのラゲッジに押し込めば、十分載る量だ。
物流倉庫で鍛えた目が、瞬時に積載プランを組み立てる。
重量、バランス、固定方法。
いける。
「よかったら、俺のレクサスで、送りましょうか?」
口に出してから、少しだけ緊張した。
おばあさんは、即答した。
「それはありがたい……ほんとうに助かるよ。頼めるかい?」
さっきまでの警戒は、完全に消えている。
藁にもすがる思いなのだろう。
少女も、小さくうなずいた。
◇
荷物を積み込み、後部座席におばあさんと少女を乗せた。
ラゲッジスペースは樽と木箱でいっぱいだ。
後席も、足元に小さな箱を押し込んでいる。
レクサスは、ほぼ満車状態。
ふたりとも荷物に挟まれて窮屈そうだが――
「すごい。ふかふか。こんな椅子、はじめて!」
少女が初めて、はっきりとした声を出した。
さっきまでしかめっ面で杖を構えていたのが嘘みたいだ。
笑うと、驚くほどあどけない。
俺は思わずミラー越しに彼女を見る。
かわいい。
いや、落ち着け。
俺はエンジンをかけ、ゆっくりと車を動かす。
静かに始動するエンジン音。
「すごい……動いた」
少女が、ぽつりとつぶやく。
アクセルを少し踏む。
土の道を滑るように進む。
「は、早い……! え、揺れない。静か。すごい!」
少女は完全に興奮状態だ。
後部座席から身を乗り出し、前方を覗き込んでいる。
おばあさんも「ほお」と、低く感嘆の声を漏らす。
「これが……魔法の馬車か」
俺は苦笑する。
魔法じゃない。
ただの工業製品だ。
だが、彼女たちにはそう見えるのだろう。
運転しながら、事情を聞く。
なんでも、
牧場からベルクスという街まで、
乳やチーズなどの乳製品を運んでいるらしい。
「いつもは荷車を引いて、半日かけてな」
「半日?」
思わず聞き返す。
半日なんて、俺、そんなに歩いたことないぞ...
気が遠くなる。
「馬車を買うほどの資金はなくてね」
おばあさんが、ぽつりと言う。
その声に、生活の重みがにじむ。
俺はミラー越しにふたりを見る。
「私はマルタ。この子は孫のアンナ」
アンナが、ちょこんと頭を下げた。
俺は一瞬、名乗るのをためらう。
「俺は……高瀬匠です」
「タカセ?」
マルタが目を細める。
「珍しい名だね。
しかし、苗字持ちとは……あんた、貴族かね?
さすが、こんなすごい乗り物を持っているわけだ」
「え?」
貴族?
「い、いえ。ただのサラリーマンです」
「サラリーマン?」
ふたり同時に首をかしげる。
車だけでなく、サラリーマンも通じない。
それに、二人の名前や街の名前。日本のものではない。
ここは外国?
でも、言葉は通じる。
頭の中がぐるぐるする。
レクサスの静かな車内だけが、現実をつなぎ止めている。
そうこうしているうちに、遠くに建物が見えてきた。
オレンジ色の屋根が、無数に並んでいる。
大きな街だ。
「すごい……もう着いた!」
アンナが叫ぶ。
「いつもなら、三時間はかかるのに!」
俺はメーターをちらりと見る。
出発してから、まだ三十分も経っていない。
三時間の距離を、三十分。
これ、やばいんじゃないか。
物流的に。
俺の胸が、少し高鳴る。
倉庫管理として、数字に置き換えてしまう。
配送効率六倍。
腐敗リスク激減。
回転率向上。
頭の中で、勝手に計算が走る。
そんなことより。
ふと気づく。
この車に、女性を乗せたのは初めてだ。
なんだか無性に、気持ちが高揚する。
まあ、
……乳製品も、初めて積んだんだけど。
◇
ベルクスの街は、
レンガや石づくりの家々が整然と並ぶ、とてもきれいな街だった。
オレンジ色の屋根が陽を反射し、大通りには店や露店が立ち並ぶ。
行き交う人々、ゆっくりと進む馬車、荷を担ぐ商人たち。
その中を、レクサスは静々と進んだ。
エンジン音はほとんど響かない。
だが、存在感だけは圧倒的だった。
ひとり、またひとりと振り返る。
驚愕の表情を浮かべる者。
口を開けたまま立ち尽くす者。
好奇心に負けて、車体に触れようと近づいてくる子ども。
どうやら、車を見るのは初めてらしい。
マルタやアンナだけではない。
この街の誰もが、レクサスを知らない。
俺は二人の指示に従い、得意先を回った。
乳製品の樽を降ろすたびに、商人たちは目を丸くする。
「もう着いたのか?」
「荷車はどうした?」
マルタは得意げに言った。
「これが、魔法の馬車さ」
俺は苦笑しつつ、ラゲッジを閉める。
市場でいくつか彼女たちの買い物を済ませると、
俺たちは街を後にした。
成り行きで、俺は二人を牧場まで送ることになった。
「みんな、わたしたちのこと、見てた!」
アンナが車内で興奮気味に言う。
「すごかったね、あの人たちの顔!」
俺は笑う。
牧場には一時間もかからずに到着した。
低い石垣に囲まれた広い草地に、白い牛がのんびりと草を食んでいた。
赤茶色の納屋からは、干し草の匂いが風に乗って流れてくる。
アンナは改めて驚く。
「いつもなら、へとへとになるのに……」
そこで修理道具と木材を積み込み、
マルタを残し、アンナと二人で壊れた荷車の場所へ向かった。
今度はアンナが助手席だ。
もちろん、女性を助手席に乗せるのも初めて。
しかも、こんなかわいい子を。
俺は内心、妙にテンションが上がっていた。
アンナも、最初の警戒はすっかり解けている。
道中、家族の話をしてくれた。
牧場には四人で住んでいること。
両親は冒険者も兼ねていること。
「冒険者?」
「そう。依頼を受けて、魔物を倒したり、護衛をしたりするの」
便利屋みたいなものか?
アンナは十九歳。
俺より三つ下。
……ありではないか?
いや、何を考えてるんだ俺は。
しかし、
アンナと二人でドライブ。
正直、楽しい。
ずっとこのまま走っていたい。
だが三十分もしないうちに、壊れた荷車の場所へ到着してしまった。
このときばかりは、レクサスの速度を少し恨む。
アンナは手際よく修理を済ませ、荷車をレクサスで牽引し、帰路についた。
空は夕暮れ色に染まり始めている。
再びアンナと並んで走る時間に、俺は少し浮き立っていた。
そのとき――
前方の道の真ん中に、黒い大きな影があった。
近づく。
それは、獣。
今朝遭遇したのと同じ、狼に似た化け物。
三つの赤い目が、じっとこちらを睨んでいる。
「ひっ」
俺は短く悲鳴を上げ、レクサスを急停車させた。
獣は、今にも飛びかかってきそうだ。
どうする?
Uターン?
だめだ。荷車が邪魔で回れない。
振り切るしか――
怖い。
その刹那。
「三ツ目狼ね」
アンナが、落ち着いた声で言った。
次の瞬間、アンナはドアを開け、車外に出た。
「ちょっ、あぶない!」
俺の制止と同時に、三ツ目狼が地を蹴った。
アンナは杖を前方に構える。
空気が震えた。
轟音。
杖の先から、赤い火球が放たれる。
熱風がレクサスの中にまで伝わる。
火球は三ツ目狼に直撃した。
爆ぜる炎。
吹き飛ぶ巨体。
赤い目が揺らぎ、やがて光を失う。
燃え盛る炎の中で、三ツ目狼は動かなくなった。
静寂。
アンナは何事もなかったように振り返る。
「大丈夫?」
唖然とする俺を尻目に、彼女は再びレクサスに乗り込んだ。
ドアが閉まる。
外界の音が、また一段、遠くなる。
エンジンの静かな振動だけが、現実を繋いでいる。
俺は、呆然とアンナを見る。
……魔法?
いや、そんな。
アンナは、困ったような顔でつぶやく。
「あいつら、街への道中、よく邪魔してくるのよ。」
レクサスの車内は、静かだった。
だが俺の頭の中は、さっきの爆発よりもずっと騒がしかった。
読んで頂きありがとうございます。
第2話、今晩20時公開予定です。
よろしければ、
引き続き読んで頂ければ、
幸いです。




