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第7話 「痛覚のない怪物に、痛みを教えてやる」


 【地下・廃棄区画】

 ヒュオォォォォォォ……ッ!!

 鼓膜をつんざく風切り音だけが、世界の全てだった。


 重力が消失したような浮遊感。

 内臓が喉の奥までせり上がってくる、強烈な吐き気。

 光などない。

 上を見上げても、カイルたちがいた場所はもう、針の穴ほどの点ですらない。


 ただ、世界から「不要」と断じられたゴミが、暗い穴の底へと堕ちていく。


(死ぬ)

 思考すら追いつかない速度。

 走馬灯を見る余裕すらなかった。

 ドサッ。

 グシャアッ……!!

 着地の瞬間、俺の耳が捉えたのは、濡れた雑巾をコンクリートに叩きつけたような音と――


 自分の骨が、枯れ木のように「ベキリ」と折れる音だった。

「――っ、ガ、ァ……ッ!?」

 肺の中の空気が、衝撃で一瞬にして弾き出される。

 声にならない悲鳴。


 視界が真っ白に明滅し、脳が激しく揺さぶられた。

 数秒か、数分か。

 気絶していた意識が、激痛と共に無理やり引き戻された。

「……あ、ぐ……ぅ……」

 目を開けると、そこはヘドロと腐敗物が堆積したゴミの山だった。


 鼻を突くのは、鼻腔が曲がりそうなほどの強烈な腐臭。

 生ゴミ、鉄錆、そして死体の臭い。

 動こうとして、脳髄に稲妻が走った。

「はぁ……っ、はぁ……っ……!」

 俺は泥と腐敗液にまみれた床を、芋虫のように這いずった。

 右腕は完全に死んでいる。

 折れた骨が内側から肉を突き上げ、皮膚をテントのように押し上げているのがわかる。


 熱い。

 焼けるように熱い。

 神経の一本一本をハンダごてで焼かれているような激痛に、視界が歪む。

(痛い。痛い痛い痛い痛い痛い……ッ!)

 涙で滲む視界の端。


 背後から、濡れた雑巾を引きずるような湿った音が迫ってくる。

 ズルッ……ズルッ……。

 【屍喰らい(コープス・イーター)】。

 このゴミ捨て場の掃除屋。

 眼球のないのっぺりとした顔をこちらに向け、鼻をヒクつかせながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。


 急がない。獲物が逃げられないことを知っている、絶対的な捕食者の余裕だ。

 その体から漂うのは、生ゴミと鉄錆を煮詰めたような、吐き気を催す悪臭だった。

「……くそッ」

 俺はゴミ山の一角、巨大な岩の陰に滑り込んだ。

 震える手で腰のポーチを探る。

 武器はない。あるのはパサパサの『乾パン』と、気休めの『聖水(ただの塩水)』だけ。

 こんなもので、どうやってBランクの魔獣と戦えというんだ。

(……考えろ。痛みに飲まれるな、考えるんだ)

 俺にはカイルのような剣技はない。

 ルナのような魔法もない。

 あるのは、この世界では役立たずと嘲笑われた

【一般常識】だけ。


 なら、それを使うしかない。

 魔法やスキルが通じないなら、俺の知ってる「理屈」で殺してやる。

 俺は岩の隙間から、天井を見上げた。

 薄暗い闇の中に、鋭利な「鍾乳石」が牙のようにぶら下がっているのが見える。


 その真下には、ちょうど俺が囮として脱ぎ捨てた血まみれの上着。


 常識1:『獣は血の匂いに誘導される』


 魔獣が、俺の上着に鼻を近づけた。

 新鮮な血の匂いに興奮し、ガブリと布地を噛みちぎる。


 今だ。

 位置は完璧。

「……落ちろッ!」

 俺は足元にあった手頃な石を拾い、渾身の力で投げた。


 狙うは魔獣ではなく、天井の鍾乳石の付け根。

 長年の湿気で亀裂が入っている、あの一点。

 ガキンッ!!

 硬質な音が、洞窟内に反響する。

 一瞬の静寂の後、メリメリメリ……という岩盤の悲鳴がした。


 常識2:『重力には何者も逆らえない』


 ズドォォォォォォォォンッ!!!!!

 轟音と共に、数トンはある岩の槍が自由落下した。

 それは魔獣の背中を正確に貫き、ゴミの山ごと地面

 に縫い付けた。


 猛烈な土煙が舞い上がり、俺の頬を小石が叩く。

「……やった、か?」

 俺は荒い息を吐きながら、身を乗り出した。


 普通なら即死だ。背骨ごと内臓を粉砕され、呼吸すらできないはずだ。


 だが。

「ギ、ギィィィ……」

 土煙の中から聞こえてきたのは、壊れた玩具のような不快な駆動音だった。

 魔獣が、動いている。


 背中に巨大な岩が深々と突き刺さり、緑色の体液を噴水のように撒き散らしながら、それでも手足を動かしている。


(……嘘だろ?)

 こいつ、痛くないのか?

 背中を串刺しにされて、平然と動けるわけがない。

 だが、魔獣は岩を引きずりながら、ズルズルと俺の方へ向き直った。


 眼球のない顔が、明確な殺意を持って俺をロックオンする。

 ――HPヒットポイントが残っている限り、魔物は活動を停止しない。


 この世界の「非常識」なルールが、俺を嘲笑っていた。


(ふざけるな……)

 俺は後ずさった。


 背中が冷たい岩壁にぶつかる。もう逃げ場はない。

 魔獣が口を裂けんばかりに開ける。

 腐臭と共に、幾重にも重なった黄色い牙が迫る。

 俺はここで死ぬのか?


 ゴミとして捨てられ、誰にも知られず、こんなバケモノの餌になって?


 カイルたちは、俺がいなくなったことすら気づかずに、先へ進んでいるかもしれないのに?


「……ふざけるなよ」

 恐怖が、沸騰するような怒りに変わった。

 理不尽への怒り。

 システムへの怒り。

 そして何より、こんな痛みも知らない「ゲームみたいな生き物」に殺されることへの屈辱。


「俺は……痛いんだよッ!!」

 俺は喉が裂けるほど叫んだ。


 折れた右腕を庇いながら、左手で握りしめた小石を投げつける。


 ペチッ。

 魔獣の鼻先に小石が当たった。

 ダメージなんて1もないだろう。

 だが、俺の魂が叫んでいた。

「背中に岩が刺さってるんだぞ! 血が出てるんだぞ!」

「生物なら……痛がって止まるのが『常識』だろぉぉぉっ!!」


 俺の言葉が、ただの叫びじゃないと――

 世界が、そう認識した。


 キィィィィィン――――ッ!!

 その瞬間。

 俺のポケットの中で、ステータスプレートが火傷しそうなほど発熱した。


 世界が歪む。

 俺の言葉が、ただの音声ではなく、世界の法則ルールを書き換える「命令コマンド」となって空間に伝播する。


 【 スキル『一般常識』がLv2に上昇しました 】

 【 付与効果:『ことわりの強制』 】

 【 ※対象は「理解可能な現象」に限定されます 】


「――ギ、ガ……ッ!?」

 魔獣の動きが、ピタリと止まった。

 今まで無機質だったその挙動に、生物的な「戦慄」が走る。

 背中の傷口が、神経の切断面が、脳髄へ向けて電気信号を一斉に送り始めたのだ。


 常識3:『生物は、致命傷を負えばショック状態に陥る』


「ギ、ギャァァァァァァァァァッ!!??」

 絶叫。

 それは怒号でも威嚇でもない。

 初めて世界を理解した生物の、混乱そのものだった。


 魔獣がのたうち回った。

 今まで無視していたダメージが、「現実的な激痛」としてフィードバックされたのだ。


 HPが残っていようが関係ない。

 神経が焼き切れるほどの痛みは、強制的に生物の機能をシャットダウンさせる。


 魔獣は白目を剥き、口から泡を吹いて痙攣し――そして、動かなくなった。


 死んではいないかもしれない。だが、ショック死寸前の気絶状態だ。

「はぁ……っ、はぁ……っ……」


 俺はその場にへたり込んだ。

 勝った。


 魔法も剣も使わず、ただ「常識」を押し付けることで、格上の怪物をねじ伏せたのだ。


 俺は震える手で、懐から『ギルドカード』を取り出した。

 期待に指が震える。


 普通なら、格上の敵を倒せば、莫大な魔素(経験値)が流れ込み、レベルが一気に跳ね上がるはずだ。


 これで強くなれる。カイルたちに追いつける。

 そう信じて、カードを見た。

【 名前:レイ 】

【 レベル:1 】

「……あ?」

 思考が凍りついた。


 数字が変わっていない。ピクリとも動いていない。

「う、そだろ……?」

 俺はカードを叩いた。故障か? いや、表示は残酷なほど鮮明だ。 


 倒した瞬間、確かに“何か”が体に流れ込んできた感覚はあった。


 なのに次の瞬間――すり抜けた。

 まるで、俺の体だけ底に穴が空いているみたいに、魔素が留まらずに霧散していく。


(なんだよ……なんなんだよ、これ……)

 だが、その下の項目に目が止まった。


【 スキル:『一般常識』 Lv2 】

【 追加補正:『生存本能サバイバル』 】

【 効果:危機的状況下において、筋力・耐久値に微弱な+補正 】


「……は?」

 レベルは動いてない。なのに、スキルだけ上がってる。


(意味わかんねぇ……でも、今は考えてる場合じゃない)

 右腕の痛みが、ほんの少しだけ引いた気がした。

 たぶん、この『生存本能』のおかげだ。


 レベルは上がらなくても、俺自身スペックは確かに変化している。


「よし……まずは回収だ」


 俺は気絶している魔獣に近づくと、その胸元をナイフ代わりの鋭利な石片で切り裂いた。

 ヌルリとした不快な感触と共に、赤黒い結晶体が転がり出る。


 【 屍喰らいの核(変異種) 】

「……持って行くぞ。使えるものは何でも使う」

 俺はそれを上着の切れ端で包み、ポケットにねじ込んだ。


 地上に戻るための資金源、あるいは道具の素材だ。生きるためには、泥水だってすすってやる。


 俺は足元に転がっていた、錆びた鉄パイプのようなものを杖代わりに拾い上げた。


 その時。

 瓦礫の隙間で、何かが蒼白く瞬いた。

「……なんだ、これ?」

 泥にまみれたゴミ山には不釣り合いな、透き通った輝き。 


 掘り出してみると、それは繊細な彫刻が施された『白金の腕輪』だった。


 中央には、月光を閉じ込めたような蒼い宝石が埋め込まれている。

「魔導具……か?」


 鑑定スキルはないが、俺の『一般常識』が告げている。 


 これはただの装飾品じゃない。強力な魔力が込められた一級品だ。


(もしかしたら、攻撃魔法や結界が使えるかもしれない……!)


 今の俺は丸腰だ。

 カイルたちを追うにも、この先の魔物と戦うにも、「力」が足りない。


 もしこれが武器になるなら――!

 俺は藁にもすがる思いで、泥を払おうとその宝石に指を触れた。


 その瞬間だった。

 カッ!!


 宝石が、月光のような冷ややかな光を放った。

 そして――。

「……やめて。その薄汚れた手で、私に触れないで」

「うわっ!?」

 俺は驚いて尻餅をついた。 


 頭の中じゃない。宝石そのものから、ハッキリとした「女性の声」が響き渡ったのだ。


 それは、鈴を転がすような美しい声だったが、背筋が凍るほど冷ややかだった。


「……聞こえていないの? 人間」

「しゃ、喋った……!?」

「当たり前でしょう。……ああ、不愉快だわ」


 腕輪の光が、まるでため息をつくように明滅する。


「千年も待って、ようやく堕ちてきたのが……こんな泥まみれの子供だなんて」


「千年……?」

「ええ、そうよ。……どうせ貴方も、すぐに狂って、壊れて、動かなくなる」


 その声には、拒絶よりも深い「諦め」が滲んでいた。


 突き放すような言葉なのに、なぜか彼女は話を止めようとしない。


「期待なんて、させるだけ無駄。……だから、お願い」

 一瞬、声のトーンが揺らいだ気がした。


「私の前で、無様に朽ちていく姿を見せないで。……もう、見送るのはたくさんなの」


 俺は呆然と、手の中で淡く光る腕輪を見つめた。


 強力な武器を期待したのに……どうやら俺は、とんでもなく重い「過去」と「孤独」を背負った女性ひとを拾ってしまったらしい。


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