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第32話 「ゴミ溜めの診療所と、共犯者」


 【王都・最下層 廃棄区画】


 意識が浮上する。

 最初に感じたのは、強烈な薬草の匂いと、腐った水の気配。


 次に、全身を走る焼けるような激痛。


「……ぐっ……ぅ……」


「お、起きたか。暴れるなよ。肉繋ぎ(フレッシュ・ボンド)の術式が解けちまうぞ」


 しわがれた声。

 重い瞼を開けると、そこは薄暗い地下室だった。


 目の前には、眼帯をした薄汚い男が、死体袋を縫い合わせる手を止めて俺を見下ろしていた。


「……ここ、は……」


下層ボトムだ。上層の連中がゴミを捨てる場所だよ」


 男は顎で部屋の隅をしゃくった。


 そこには、昨日の騒ぎで死んだと思われる人々の遺体が、雑然と積み上げられている。


「俺はジャック。しがない掃除屋ドクターだ。……お前もゴミ山の中に埋もれてたから、ついでに拾ってやった」


「……余計なことを」


 俺は掠れた声で吐き捨てた。


 全身が痛む。だが、それ以上に心が鉛のように重い。


「俺は……もういいんだ。放っておいてくれ」


「あ?」


「英雄なんていない場所に行きたいんだ。……このまま死ねば、行けるだろ」


 俺は再び目を閉じようとした。


 もう疲れた。頑張っても、足掻いても、結局は見殺しにして逃げただけ。


 なら、ここでゴミとして終わるのがお似合いだ。

「……甘ったれてんじゃねぇぞ、ガキ」


 ドンッ!

 ジャックが俺の胸ぐらを掴み、寝台に叩きつけた。激痛が走る。


「い、てぇ……!」


「ここを見てみろ!」

 ジャックが無理やり俺の顔を向けさせた先には、解剖途中の遺体があった。


 ――ッ!!


 鼻を突いたのは、濃厚な鉄の臭いと、酸っぱい汚物の臭気。


 魔物に食いちぎられた腕。潰れた顔。白い骨が覗く断面からは、まだドロドロとした体液が滲み出している。


 それはもう「人間」ではなかった。ただの壊れた生肉だ。


「う、ぷ……っ!!」

 

 強烈な吐き気に、胃の中身が逆流する。


 胃液が喉を焼き、涙が滲む。

 昨日はアドレナリンで麻痺していた感覚が、最悪の形で蘇ってくる。臭い。怖い。


「こいつらはな、お前が見殺しにした連中かもしれねぇ。……昨日の英雄騒ぎの残りカスだ」


「やめ、ろ……! 見せ、るな……!」


 俺は口元を押さえ、必死に顔を背けようとした。だが、ジャックの手は万力のように動かない。


ひなたの連中は、聖女の魔法で綺麗な傷だけ治して解決と言う。……だがな、治せないグチャグチャの死体や、呪われた怪我人は全部こっち(下)に流れてくるんだよ!」


 ジャックの瞳には、昏い怒りが宿っていた。


 それは正義感じゃない。毎日毎日、むせ返るような死臭の中で、他人の尻拭いをさせられる者の苛立ちだ。


「お前もその一部だ。……背中の逃げ傷。泥まみれの服。お前はもう光の世界には戻れねぇ。俺たちと同じ、掃き溜めの住人だ」


 ジャックは手を離した。


 俺は咳き込みながら、自分の手を見た。

 薄汚い手。


 ああ、そうだ。俺はもう主人公じゃない。ただの敗残兵だ。


 その時、部屋の隅のラジオ(魔導放送機)から、ノイズ混じりの明るい声が響いた。


『――王都は歓喜に包まれています!』


『昨日の犠牲者たちは、国を守るための尊いいしずえとして、厚く埋葬されるでしょう!』


『さあ、我らが英雄カイル様に感謝の祈りを!』


「……ハッ。笑えるだろ?」


 ジャックが唾を吐き捨てた。

「これだよ。都合の悪い現実は全部『綺麗な物語』に書き換えちまう。……死んだ婆さんも、食い殺された男も、みんな尊い犠牲だとよ」


(……物語、か)


 俺は虚ろな目でラジオを見つめた。

 俺の卑怯な逃亡も、あの男の無様な死も、すべて「美談」という名のゴミ箱に捨てられていく。


 ――その時。


『……ねえ、レイ。気づいてる?』


 不意に、脳内にルミナスの声が響いた。

 腕輪が微かに明滅している。彼女の声は、いつになく真剣で、鋭かった。


『この放送……ただの音声じゃないわ。微弱だけど、広範囲の認識阻害と感情誘導の術式が乗ってる』


「……え?」


『市民の恐怖心を消して、「感動」だけを抽出するように調整されてるのよ。……こんな高度な精神干渉、ただのニュース速報にしては大げさすぎるわ』


 俺の背筋に、冷たいものが走った。


 精神干渉? あの熱狂は、作られたものだったのか?


「……誰が、なんのために、こんなことを?」


 俺は震える声で呟いた。

 単なるニュースじゃない。これは兵器だ。


「さあな。だが、ここ数ヶ月で急にひどくなりやがった」


 ジャックは苦々しい顔で、安酒を煽った。


「もともとこの国は暁の5英雄様を崇めるお国柄だ。だが、最近の熱狂ぶりは異常だ。……俺も危うくあっち側(信者)に行くところだった」


「……あっち側?」


「ああ。ある日、石を持たずに便所に行ったら、ラジオから流れる獅子王グレイドの演説に、涙が出るほど感動しちまってな。……で、部屋に戻ってこいつに近づいた瞬間、正気に戻った」


 ジャックはラジオの上に置いてあった黒く汚れた石を指で弾いた。『対魔障石アンチ・マインド』だ。


「『あれ? 俺なんであんな脳筋のオッサンに感動して泣いてんだ?』ってな。……俺は本業(闇治癒師)柄、精神汚染を防ぐためにコイツを持ってたから助かったが、ふつうのやつらはそうはいかねぇ」


 なるほど。

 彼は職務上の安全対策(石)のおかげで、偶然にもこの国を覆う洗脳から守られていたのだ。


 だが、待てよ。

「……なら、なんで俺は平気なんだ?」


 俺は石を持っていない。


 昨日のパレードでも、このラジオの前でも、俺は感動どころか吐き気を感じていた。


『……私がいるもの。当然でしょ?』


 呆れたような声が脳内に響いた。ルミナスだ。


『私の基本機能には、契約者の精神を守る精神防壁マインド・シールドが含まれてるわ。……こんな下等な音声魔術、私のフィルターを通せばただの雑音よ』


「……あ、そう」


 つまり俺は、この生意気な精霊のおかげで、知らず知らずのうちに狂気から守られていたわけだ。


「……なあ、ジャック。その石があれば、他の奴らも正気に戻せるのか?」


 俺は一縷の望みをかけて聞いた。


「ハッ、寝言を言うな」


 ジャックは鼻で笑い、黒い石を懐にしまった。


「そいつは一個で家が建つほど希少な闇の魔道具だ。光の国じゃ所持してるだけで火あぶりの重罪だぞ。……何十万人もの市民全員に配るなんて不可能だ」


 それに、とジャックは意地悪に笑った。


「あいつらは今、夢の中にいる。痛みも恐怖もない、英雄様大好きの幸せな夢だ。……それを無理やり覚まして、婆さんが死んだり、腕がちぎれたりしてる現実に引き戻してみろ。……感謝されるどころか、『なんで幸せな夢を壊したんだ!』って石を投げられるのがオチだぜ」


 俺は言葉を失った。


 ガーゴイルが現れた建国祭で市民に罵倒された記憶が蘇る。そうだ。あいつらは、現実を見ることを拒絶したんだ。


「……詰み、かよ」


 俺は唇を噛んだ。


 救う手立てはない。そして、救われる側も望んでいない。


『……用意周到すぎるわ』


 ルミナスが冷ややかに告げる。


『昨日の今日で、こんな完璧な洗脳放送が流せる? ……まるで、昨日のパニックが起きることを最初から知っていて、この原稿を用意していたみたいじゃない』


 ドクン、と心臓が跳ねた。


 自然災害じゃなかった?


 国民を「英雄中毒」にして、新しい英雄カイルたちをスムーズに受け入れさせるための……演出シナリオだったって言うのか?


「……ふざけるな」


 俺はベッドのシーツを握りしめた。


 カイルたちへの劣等感なんて消し飛んだ。

 もっと巨大で、もっと陰湿な顔の見えない誰かへの怒りが、腹の底から湧き上がってくる。

 

「俺たちが……ただの演出のために殺されたって言うのか……?」


「……おい、どうした?」


 ジャックが怪訝そうに声をかける。


「……ジャック、お前は言ったな。この国はイカれてるって」


 俺は震える手で、枕元の鉄パイプを掴んだ。


 杖代わりに突き、無様に、無骨に、床に足を下ろす。


「イカれてるだけじゃない。……誰かが、俺たちをゴミ扱いして笑ってやがる」


 俺は顔を上げた。


 瞳にあるのは、かつてのような純粋な憧れではない。


 見えない敵を睨みつける、冷たく鋭い殺意だ。

「俺は死なない。……こんなクソみたいな脚本を書いた黒幕を引きずり出すまでは、死んでたまるか」


 そう。今のカイルたちは、脚本の上で踊らされているだけのただの人形だ。


 俺たちを殺し、あいつらを英雄に仕立て上げている奴がいる。


 そいつを見つけ出し、その鼻っ柱をへし折ってやる。


 それこそが、物語から弾き出された俺の、唯一の復讐だ。


俺は懐から、血と泥で汚れたギルドカードを取り出した。


 銀色のプレートの上で、俺の歪んだ、しかし確固たる意志に応えるように、文字が書き換わっていく。


 『一般常識コモンセンス』 Lv.3

【 付与効果:『論理崩壊パラドックス』】

 効果: 対象の抱く「前提ルール」と「現実」の矛盾を突き、強制的に精神的動揺スタンを与える。

 ※発動条件:対象がその「前提」を強く信じていること。


「……なるほどな」

 俺はその説明文を見て、ニヤリと笑った。


 つまり、「馬鹿には効かないが、賢しい奴ほどよく効く」ってわけだ。


『厄介な制約ね』

 ルミナスがステータスを覗き込む。


「……いい目になりやがった」


 ジャックがニヤリと笑い、棚から青い石を放り投げた。


「なら、手始めにこいつを調べてみな。……昨日、死体漁りをしてた時に拾った録音魔石だ」


「録音魔石……?」


「ガーゴイルの死体のそばに落ちてた。……妙な声が入っててな。気味が悪くて放置してたんだが、お前なら何かわかるかもしれねぇ」


 俺は魔石を受け取った。

 ざらついた感触。これが、最初の「綻び」になる予感がした。


「……ありがとよ。ジャック」


「ふん。治療代は高くつくぞ」


 俺は魔石を握りしめ、口元を歪めた。


 待ってろよ、顔の見えない脚本家様。

 お前の書いた最高傑作を、俺が全部ぶち壊してやる。


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