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第31話 「見殺しの論理(ロジック)」


 【王都・路地裏のゴミ捨て場】


 夜が更けた。


 悲鳴はまだ続いているが、少し遠くなった。

 俺は、酒場の裏にあるゴミ捨て場のコンテナの中に隠れていた。


 生ゴミの腐敗臭と、自分自身の血の匂いが鼻をつく。

 肋骨が折れているかもしれない。呼吸をするたびに鋭い痛みが走る。


『……生きてる?』


 ルミナスの声が脳内に響く。


「……最悪な気分だがな」


 俺は小声で答えた。


 パイプは手元にあるが、もう握る力も残っていない。


 その時。

 バシャバシャと、水たまりを蹴る足音が近づいてきた。

「はぁ、はぁ……! 誰か! 誰かいないか!」

 男の声だ。


 聞き覚えがある。

 さっき、倒れた俺の手を踏みつけて逃げた、あの市民だ。


「くそっ、行き止まりかよ! 開けろ! ここを開けてくれ!」


 男はパニック状態で、俺が隠れているコンテナの向かいにある、倉庫の扉を叩いていた。


 当然、鍵がかかっていて開かない。

 ギギッ……。


 路地の入り口から、白い影が現れた。

 ガーゴイルだ。


 ゆっくりと、獲物を追い詰めるように近づいてくる。


「ひぃっ! やめろ! 俺は納税してるんだぞ! 善良な市民だぞ!」


 男が腰を抜かし、失禁しながら後ずさる。

 その視線が、ふと、俺の隠れているコンテナの方を向いた。


(……目が合った)

 ゴミの隙間から、俺と男の目が合う。

「あ……!」


 男の顔に希望が浮かぶ。

「お前! さっきの薄汚いガキか! そこにいるんだな!」


 男は俺に向かって叫んだ。

「おい! 出てきて囮になれ! 石でも投げて気を引けよ! その間に俺が逃げるから!」


 当然の要求のように、彼は言った。


 自分は守られるべき市民で、俺は使い捨ての英雄モブだと信じているから。


 俺の手元には、空き瓶がある。

 これを投げれば、ガーゴイルの注意を引けるかもしれない。


 俺が飛び出せば、この男は助かるかもしれない。

 ……さっきの老婆のように。


 俺の体が、長年の癖で動こうとした。

 「困っている人を助ける」。それが主人公の条件だから。


 ――でも。


『……やめなさい』

 ルミナスが囁いた。


 いや、言われなくても、俺の体は凍りついていた。

 脳裏に浮かぶのは、老婆の血と、俺を踏みつけた足の感触。


 そして、あの煌びやかなスクリーンの中の英雄たち。

(……なんで、俺が?)


 俺が死んで、こいつが助かる。


 こいつは翌日、カイルたちに感謝し、俺のことなど「死んで当然のバカ」として忘れるだろう。


 それが「正義」なのか?


 それが「物語」なのか?


 ふざけるな。

 俺は、握りかけた空き瓶を、そっと置いた。

 そして、息を殺し、まぶたを閉じた。


「おい! 何とかしろよ! 聞こえてるんだろ!」


 男の絶叫。

 グシャァッ!!

 鈍い音と共に、悲鳴が途絶えた。


 肉を裂く音。骨を砕く音。

 咀嚼音。


「…………」

 俺は耳を塞がなかった。


 ただ、震えながらうずくまっていた。

 助けられたかもしれない命。

 それを、俺は「見殺し(スルー)」にした。


 罪悪感?

 あるわけがない。

 あるのは、奇妙なほど冷たい「納得」だけだった。

(……これが、正解だ)


 助けないことが、生き残るための唯一の論理ロジック


 善意を捨てた瞬間に、俺の生存確率は上がったのだ。

 しばらくして、満腹になったガーゴイルが飛び去る羽音が聞こえた。


 路地には再び静寂が戻る。


『……賢い選択よ』


 ルミナスが静かに言った。


『非情になれない人間は、ここでは生きられない。……ようこそ、冷たい現実の世界へ』


「……ああ」


 俺は乾いた唇を舐めた。


「悪くない気分だ。……少なくとも、痛くはない」




          ◇




 【翌朝】

 朝日が昇ると同時に、空の亀裂が塞がり、赤い結界が消滅した。


 まるで悪夢が覚めたかのように、王都に静寂と光が戻ってくる。


 俺はコンテナから這い出した。

 目の前には、食い荒らされた男の死体がある。

 それを跨いで、俺はふらふらと通りに出た。


「――確保完了! 負傷者の救護を急げ!」


「魔物は全滅したぞ! 我々の勝利だ!」


 騎士団たちが駆け回っている。


 そして、メインストリートの向こうから、白い鎧を汚したカイルたちが歩いてきた。


「大丈夫ですか! 怪我はありませんか!」


 リリィが市民たちに回復魔法をかけている。

「もう安心だ! 俺たちが守ったぞ!」


 カイルが大剣を掲げる。


 わぁぁぁぁっ!!


 生き残った市民たちが、涙を流して歓声を上げる。


「ありがとうございます! カイル様!」


「さすが英雄様だ! 一晩中戦ってくれたんだ!」

 感動のフィナーレ。


 悲劇を乗り越えた、美しい大団円。



その輪の外側。

 瓦礫の影に、泥と血にまみれた俺が立っていた。

 カイルたちは気づかない。



 彼らは「守った人々」の笑顔に囲まれ、達成感に満ちた顔をしている。


 俺の足元にあるような「守られなかった死体」は見えていない。


「……計算通りですね」


 遠くで、シリウスの声が聞こえた気がした。

「被害は最小限です。私たちの評価はこれで不動のものになります」


(……最小限、か)


 俺は自分の手を見た。


 昨日までは、誰かを助けようとしていた手。

 今は、誰かを見殺しにして生き延びた、薄汚い手。

 俺はもう、彼らの元へ駆け寄ろうとはしなかった。

 怒りも、悲しみもない。


 ただ、「ああ、俺は違う生き物になったんだ」という断絶だけがあった。


 英雄カイルたちは光の中で笑い、一般人モブはそれを称える。


 そして、物語から外れた「異物(俺)」は、舞台袖へと消えるのがお似合いだ。


「……行こう、ルミナス」


『どこへ?』


「ここじゃないどこか。……英雄なんかいらない場所へ」


 俺は踵を返し、光の当たる広場とは逆の、暗い路地裏へと足を向けた。


 もう二度と、正義なんて口にしないと誓って。



 だが。

 緊張の糸が切れた瞬間、世界がぐらりと傾いた。


「……が、ぁ……」

 肋骨の痛みが、遅れて爆発した。


 肺が焼け付くように熱い。足の感覚がない。

 アドレナリンだけで動いていた体が、限界を訴えて悲鳴を上げている。


 ドサッ……!

 俺は無様に前のめりに倒れ込んだ。

 倒れた先は、生ゴミの集積所だった。

 腐った臭い。汚泥の感触。


 だが、今の俺には、清潔な石畳よりも、この汚れた場所の方が相応しい気がした。


『レイ! しっかりして!レ….イ』

 ルミナスの声が遠くなる。


 視界が白く滲み、意識が闇へと溶けていく。


(……ああ、いいな。ここは)


 薄れゆく意識の中で、俺は自嘲した。

 誰も俺を見ない。誰も俺に期待しない。

 俺はただの、路地裏のゴミ屑だ。


 ――カツ、カツ、カツ。


 完全に意識が途切れる直前。

 誰かの、靴音が聞こえた気がした。


 騎士のブーツじゃない。もっと底の擦り減った、品のない足音。

「……おや。また『珍しいゴミ』が落ちているな」

 しわがれた声と共に、何者かの影が俺の上を覆った。


 それが、地獄への入り口なのか、それとも蜘蛛の糸なのか。


 確かめる術もなく――俺の意識は、プツリと断線した。

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