第30話 「無力な善意、嘲笑う英雄譚」
【王都・路地裏】
肺が焼けるように熱い。
遠くで響く爆発音と、人々の悲鳴が、BGMのように途切れることなく続いている。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
俺は泥水を跳ね上げながら走っていた。
鉄パイプでガードレールを叩き、ガンガンとけたたましい音を鳴らす。
「こっちだ! 追ってこい、石コロ野郎ども!!」
俺の計算は完璧なはずだった。
路地裏の狭い空間なら、翼を持つガーゴイルの動きは制限される。
マンホールの罠も張った。
これで数分は稼げる。その間に、あの老婆は逃げられる。
(……やれる。俺だって、やれるはずだ!)
俺は「一般人」だ。でも、知識がある。知恵がある。
力だけのカイルたちとは違うやり方で、人を救ってみせる。
そんな、身の程知らずの自負が、俺の足を動かしていた。
「……はぁ、はぁ! どうだ! ざまぁみろ!」
俺は角を曲がり、勢いよく振り返った。
3体のガーゴイルが、怒り狂って俺を追ってくる――はずだった。
「……あ?」
誰も、いない。
路地は静まり返っている。
罠を張ったマンホールも、そのまま口を開けているだけ。
――ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
無視された?
いや、最初から相手にされていなかった?
奴らにとって、レベル1の俺なんて「脅威」ですらない。
俺が必死に鳴らした音も、挑発も、奴らの捕食本能の前では雑音ですらなかった。
奴らが優先するのは、もっと動きが遅く、芳醇な「恐怖の匂い」を撒き散らす獲物――。
「……まさか」
俺は踵を返した。
足がもつれる。転びそうになりながら、元の場所へ走った。
頼む。嘘だろ。やめてくれ。
俺のせいで。俺が離れたせいで。
「……婆さん!!」
俺が路地を飛び出した、その瞬間だった。
グシャァッ。
濡れた雑巾を絞るような、鈍く、湿った音が響いた。
「…………あ」
時が止まった。
目の前の光景に、脳が理解を拒絶した。
さっきの老婆がいた場所。
そこには、白いガーゴイルが3体、群がっていた。
彼らの足元には、老婆が大切そうに持っていた買い物袋が散らばっている。
転がった真っ赤なリンゴ。
そして、それと同じ色に染まった、老婆だったモノ。
動いていない。
首があらぬ方向に曲がっている。
ガーゴイルの一体が、口元についたものをペロリと舐めた。
「……う、そ……だ……」
喉から、ヒューヒューと空気が漏れる。
助からなかったんじゃない。
俺が囮になって走っていた時間は、ただ「老婆を一人にして、確実に殺させるための時間」だったのだ。
俺の浅知恵が、彼女を殺した。
『……言ったじゃない』
ルミナスの声が、氷のように冷たく響く。
『力のない善意なんて、ただの自殺行為よ。……これが現実よ、レイ』
「……あ、あああああああああああああっ!!!」
俺の口から、言葉にならない絶叫が迸った。
恐怖? 後悔? そんな理性的なものじゃない。
目の前で「命」が「肉」に変わったことへの、生理的な拒絶とパニック。
「ふざけるな! 返せ! 返せよぉぉぉッ!!」
俺は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、パイプを振り上げた。
勝てるわけがない。分かっている。
でも、動かずにはいられなかった。この悪夢を物理的に叩き壊したかった。
ガィィィン!!
硬い音がして、手が痺れた。
ガーゴイルの白い皮膚には、傷一つついていない。
奴は「なんだこの虫は」とでも言うように、鬱陶しそうに腕を振るった。
ドゴォッ!!
「がはっ……!?」
ただの裏拳。
それだけで、俺の体はボロ雑巾のように吹き飛び、石壁に激突した。
肋骨が軋み、肺の中の空気が強制的に吐き出される。
痛い。痛い。痛い。
泥水の中に転がる俺の視界の端で、ガーゴイルたちは飽きたように飛び去っていく。
「ひぃっ! こっちに来たぞ!」
「あいつが魔物を連れてきたんだ!」
逃げ惑う市民たちが、路地に雪崩れ込んできた。
「お、おい! 助けてくれ……そこに怪我人が……」
俺は泥だらけの手を伸ばした。
だが、逃げる男が、俺の手を思い切り踏みつけた。
グリッ。
「あぐっ……!」
「触るな! お前のせいで婆さんが死んだんだぞ!」
「疫病神! こいつが囮になってる間に逃げるのよ!」
「英雄様ー! 助けてー!」
感謝なんてない。
あるのは、剥き出しの「責任転嫁」と「生贄の要求」だけ。
彼らは俺をまたぎ、踏みつけ、我先にと逃げていく。
「ま、待て……! 踏むな……!」
痛い。苦しい。
なんでだ? なんで誰も止まらない?
怪我人がいたら助ける。困ってる人がいたら手を貸す。
それが人間だろ? それが当たり前だろ?
「スキル発動……! 『一般常識』ッ!!」
俺は踏みつけられながら、半狂乱で叫んだ。
対象:パニックの群衆。
適用する理:『人は困っている人を助けるべきだ』『理性的な行動を取れ』。
ブォン。
スキルが発動する。だが――誰も止まらない。
【 エラー:対象の行動は「生存本能」に基づき合理的です 】
【 修正の必要なし 】
「……は?」
合理的? 俺を見捨てて逃げるのが、正しいって言うのか?
そんな理屈があってたまるか!
「おい、婆さん……起きろよ……」
俺は這いつくばって、老婆の遺体に手を伸ばした。
ぐちゃぐちゃになった肉塊。でも、これは婆さんだ。さっきまで話してたんだ。
「スキル……発動……! こんなの嘘だ……人間は、こんなに簡単に壊れたりしない……!」
対象:老婆の遺体。
適用する理:『人間は生きているべきだ』『ハッピーエンドであるべきだ』。
戻れ。生き返れ。
物語なら、ここで奇跡が起きて目が覚めるはずだろ!?
ピコン。
無機質なシステム音が、俺の脳髄を殴りつけた。
【 エラー:対象は「死亡」しています 】
【 死者は蘇らない。それがこの世界の「常識」です 】
「……あ、あ、ああ……」
俺のスキルが、俺を否定した。
俺の頼みの綱である「常識」が、「婆さんは死んだ。それが当然だ」と冷酷に告げている。
「……ふざけんな……! なんだよそれ……!」
俺は地面を殴った。何度も、何度も。
役立たず。ゴミクズ。
魔物に勝てないだけじゃない。俺のスキルは、残酷な現実を追認するだけの、クソみたいな機能しかなかったんだ。
「うああああああああああっ!!」
俺は泥水の中に顔を埋め、慟哭した。
その背後で、頭上の巨大スクリーンからは、英雄を称えるファンファーレが鳴り響く。
『――すごい! またしてもカイル様、敵を撃破!』
『スコア更新! 市民の避難完了まであと少しです!』
画面の中のカイルは、美しく輝いていた。
その背後には、守られた市民たちの笑顔。歓声。拍手。
(……なんでだよ)
壁一枚隔てた向こうは、天国のような英雄譚。
こっちは、血と汚物と罵声にまみれた地獄。
カイルは気づかない。
俺がここで這いつくばっていることに。
老婆が死んだことに。
市民たちが、俺を踏み台にして逃げていることに。
彼はただ、システムが用意した「正義の敵」と戦い、「正義の勝利」を積み上げているだけだ。
◇
【王城・司令室】
その様子を、ワイングラスを片手に眺める男がいた。
ゼクスだ。
「……順調ですね」
ゼクスは、路地裏で倒れているレイの反応を見つめ、さもつまらなそうに鼻を鳴らした。
「見てください、あの無様な姿を。……必死にスキルを使っているようですが、皮肉なものです」
彼はグラスを揺らした。
「彼の『常識』こそが、彼に絶望を与えている。……『死んだ者は戻らない』『弱者は踏みにじられる』。……その正しい理に、彼は心を折られたのです」
「……このまま死にますか?」
ジェイドの問いに、ゼクスは冷酷に微笑んだ。
「運が良ければ生き残るでしょう。ですが、彼の心はもう壊れている。……この街において、無力な善意ほど滑稽で、惨めなものはありませんからね」
◇
【路地裏】
「……カハッ」
口の中に鉄の味が広がった。
俺は震える手で、散らばったリンゴを一つ拾った。
老婆の血で真っ赤に染まったリンゴ。ぬるりと手から滑り落ちる。
「……ごめん」
誰にともなく謝った。
俺が弱かったから。
俺のスキルが、こんなにも無慈悲だったから。
『……立つ気力、ある?』
ルミナスが静かに聞いた。
「……ねぇよ、そんなもん」
俺は地面に突っ伏したまま、輝くスクリーンの中のカイルを見た。
まぶしい。
同じ世界にいるはずなのに、もう、声が届く距離じゃない。
俺は目を閉じた。
周囲には悲鳴と、咀嚼音が響き続けている。
誰も俺を助けには来ない。
これが、英雄のいない世界の、ありふれた現実だった。




