第7話 因子
シェードランプが照らす薄暗い部屋で、レイカは自らの腕の傷口が塞がらないことに安堵していた。
だが、フクロウの口から出た「まだ発動してないな」という言葉、そして「軍から流出した“アンプル”」「回復力と引き換えに脳に異常と寿命の短縮」という真実に、全身が凍り付く。
あの日打たれた「ビタミン剤」の記憶が、頭の中で鋭く脈打つ。もし、自分の体の奥にも、あの異形と同じ「因子」が眠っていたら? もし、「発動」したら――どうなる? あのビタミン剤の中身を確認しないと。
レイカは、いてもたってもいられなかった。自分のルーツ。自分の存在。それを確かめる唯一の方法は、過去を辿ることだ。しかし、賞金稼ぎとして裏社会に生きる彼女にとって、軍に残された自身の「公式な記録」は、軍隊時代を思い出し意識的に遠ざけてきたものだった。
だが、もう迷っている場合ではない。
翌日、レイカは、かつて自分が所属していた軍の情報管理施設へと潜入を開始した。それは都市郊外の、何気ないビルの中に偽装されていたが、レイカにはその冷たい壁の向こうに、かつての匂いが確かに感じられた。
鉄壁のセキュリティを、鍛え抜かれた身体能力と、過去の知識、そしてフクロウから得た最新の情報を駆使して突破する。レーザーセンサーの網を潜り抜け、監視カメラの死角を縫い、認証システムをハッキングする。その動きには、一切の躊躇がない。まるで、体がその場所を知っているかのように。
目的のデータルームは、最も厳重に管理されていた。分厚い隔壁と、幾重もの電子ロック。だが、レイカは冷静に、一つ一つその壁を破っていく。
データルームの中は、冷たい空気が張り詰めていた。無数のサーバーが轟音を立てて稼働し、壁一面に並んだアーカイブ棚には、膨大な数の記録カードが収められている。レイカは、自分の隊が所属していたセクションの棚へと迷わず向かった。
「レイカ」――自分の名前を冠した記録を探す。指先が、何百枚ものカードを滑らせていく。一枚、また一枚。しかし、どこにも「レイカ」の記録はない。
「そんな、はずは……」
冷徹な感情が、初めて焦燥に変わる。念のため、別のセクション、別の年度。あらゆる可能性を試したが、結果は同じだった。まるで、レイカという人間が、最初からこの軍に存在しなかったかのように、その記録は跡形もなく消え去っていた。
「くそっ……!」
怒りと、理解できない現実への苛立ちが、レイカの心を苛む。自分が何者なのか、全く分からない。そんな虚無感が、彼女の全身を包み込む。
その時、棚のさらに奥、厳重に施錠された小さな区画が目に留まった。そこには「人体強靭化計画」という簡素なラベルが貼られ、ごく少数の機密情報カードが収められていた。そのうちの一枚を手に取ると、古い写真が挟まっていた。そこには、軍服を着た数名の兵士たちが、明らかに異常な変異を遂げた人間を拘束している姿が写っていた。写真の下には、「被験体回収記録」「環境適応度」といった不穏な文字が並んでいる。
レイカの脳裏に、あの人間とは思えないターゲットの姿がよぎった。そして、自分の腕に残る傷跡――フクロウのナイフによってできた、塞がらない傷。
その時だった。
カチリ、と静かに部屋の照明が点いた。眩しさに目を細めるレイカの前に、ゆっくりと拍手の音が響き渡る。パン、パン、パン、と、嘲笑うかのような、あるいは称えるかのような乾いた音だ。
「…合格だ、レイカ。」
レイカの指が、ハンドガンのトリガーをかすかに震わせた。
影の中から姿を現したのは、スーツ姿の老いた男だった。かつてレイカが所属していた部隊の直属上司――あの「ビタミン剤」を注射させたレオンハルトだ。その顔には、一切の悪びれた様子はなく、ただ淡々とした、そしてどこか満足げな笑みが浮かんでいた。
レイカは怒りに震えながら、ハンドガンを向けた。
それでも、撃てない。いや――撃てるはずなのに。
レオンハルトは続けた。
「一体、どういうことだ……! 私の記録はどこだ? そして、この『人体強靭化計画』とは!?」
レオンハルトは、ゆっくりと腕を組み、レイカが手にしている写真と、その奥の棚をちらりと見た。
「焦るな。だが、その問いに対する答えは、お前には少々重すぎるかもしれんな。……お前がこれまで潜り抜けてきた任務、危険な敵、そしてフクロウからの情報。あれは全て、お前が『人体兵器』として、どれだけ環境に適応し、成長するかを測るための『実験』だった」
レイカの目の奥が、絶望に揺れる。
「私が……実験体……?」
声が、掠れた。
上司「お前が求めている『記録』は、ここには存在しない。なぜなら、お前は『作られた存在』だからだ。我々が生み出した、完璧な戦闘兵器として。お前は、我々の期待を完璧に超えてみせた。……合格だ、レイカ。」
レオンハルトは、さらに言葉を続けた。
「『あらゆる環境やシチュエーションを掻い潜る為に、我々は『レイカ』ほか、複数の人体兵器を野に放ち、データを収集していた。フクロウは、その『管理者』の一人だ。奴は、お前の成長を最も間近で見守っていた者と言えるだろう。」
レイカの頭の中で、フクロウの顔と、彼が口にした「まだ発動してないな」という言葉が繋がる。そして、あの日の「ビタミン剤」――。
「お前の記憶も、必要に応じて書き換えられ、あるいは最初から我々がインプットしたものだ。しかし、それはお前を『人間』として成長させるためのもの。真の目的を隠し、お前自身の意思で行動させるためのものだった。我々の兵器は、自らの意思を持つことで、より高い適応能力を発揮する。そして、お前はそれを見事に証明した。」
その言葉は、レイカの心臓を、冷たいナイフで抉るようだった。
彼女が今まで信じてきた全てが、音を立てて崩れ去っていく。
喉の奥が焼ける。呼吸が浅くなる。――だが、怒りも悲しみも、まだ出てこなかった。




