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静かな感知者  作者: ISSEY
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透明な存在

朝の薄曇りが東京湾上空を覆う中、柿沼大地は東京国際展示場の西展示棟トラックヤードに向かって歩いていた。時刻は午前7時22分。集合時間の8時まで、まだ38分ある。


足音が一歩ずつコンクリートに響く。その音が大地の耳には太鼓のように大きく聞こえる。遠くのトラックのエンジン音は低い唸りとなって空気を震わせ、彼の胸の奥まで振動が伝わってくる。


突然、近くでトラックのドアが勢いよく閉まった。ズドン。その音が大地の鼓膜を直撃し、まるで頭の中でギギギギ…と耳の奥から嫌な圧力を感じる。反射的に両手で耳を押さえ、身をかがめる。心臓が跳ね上がり、冷や汗が背中を流れ落ちる。普通の人なら気にも留めないような音の粒ひとつひとつが、大地には鮮明に、時として痛いほどに届いてしまう。


いつものことだった。不安が胸の奥で蠢くたび、大地は早く現場に着くことで心の平衡を保とうとする。遅刻への恐怖、職長に怒られることへの恐怖、そして何より、注目されることへの恐怖。それらすべてが彼を早足にさせていた。


広尾の高級マンション——父親が購入した3億はくだらない2LDKの部屋——から電車を乗り継いでここまで来る間も、大地の感覚は休むことがなかった。電車のドアが開くたび、車内の気圧が変化し、空気が一気に流れ出す。その瞬間、大地の耳の奥に鋭い痛みが走る。まるで耳の中に針を刺されたような感覚で、思わず顔を歪めてしまう。


電車内の蛍光灯は青白く鋭利な光を放ち、彼の視界を白く染める。座席のクッションから漂う化学的な匂い、隣に座った乗客の整髪料の甘ったるい香り、そして誰かが食べていたコンビニのおにぎりの海苔の匂い。すべてが鼻腔の奥を刺激し、時として吐き気さえ催させる。


何度も手を握りしめた。微かに震える指先を隠すように、作業着のポケットに突っ込んだまま歩く。172センチ59キロの痩せた体躯に、色白の顔。艶のある黒髪は前髪で目元を隠すように切り揃えられている。深い黒色の瞳は、いつも下を向いていた。まっすぐ前を見ることができない。他人の視線と交差することが、大地には耐え難い苦痛なのだった。


トラックヤードに到着したのは午前7時30分ちょうど。まだ誰もいない。大地はほっと息をついた。人がいない空間は彼にとって束の間の安らぎだった。しかし、それでも感覚は途切れない。コンクリートの冷たい匂いは鉄とセメントの粉っぽさを伴い、遠くから聞こえるトラックのエンジン音は低音から高音まで幾重にも重なって聞こえる。海風の塩気は舌の上に薄く膜を作り、そこに混じったディーゼル排気の苦味が口の中に残る。


HSPの彼には、世界がまるで音響機器のボリュームを最大にしたような状態で聞こえ、照明をすべて点けた舞台のような明るさで見え、香水売り場にいるような匂いの洪水として感じられる。普通の人が「静か」だと感じる環境でも、大地には無数の刺激が降り注いでいるのだった。


作業用手袋を装着しながら、大地は今日の仕事内容を頭の中で整理した。ビッグサイトでのイベント設営。毎回現場は違うが、流れは大体同じだ。職長の指示に従い、黙々と作業をこなし、できるだけ目立たないように一日を終える。それが26歳の大地が選んだ、いや、選ばざるを得なかった生き方だった。


定職に就くことができない。面接で人の目を見ることができず、相手の感情が波のように押し寄せてきて圧倒される。面接官の微かなイライラ、失望、時には同情。それらの感情が大地の心に直接流れ込み、手の震えを引き起こす。そして、その震えを指摘されることへの恐怖で声も出なくなる。悪循環が彼を社会から遠ざけていった。


父親は大手物流会社の役員として成功を収めている。その偉大さが大地にはコンプレックスとしてのしかかる。幼少期、仕事に明け暮れる父とはほとんど遊んだ記憶がない。唯一覚えているのは会社のパーティーに連れて行かれた時のことだ。7歳の大地は人見知りのため、華やかな会場から逃げ出してバックヤードに隠れていた。そこで感じたのは、厨房から漂う油の匂い、食器を洗う水音、そして遠くから聞こえる大人たちの笑い声。その笑い声が、なぜか大地には自分を嘲笑っているように聞こえたのだった。


優しかった母は、大地がまだ小さな頃に事故で亡くなった。母の死後、大地の感覚過敏はさらに強くなった気がする。まるで世界から保護膜を失ったかのように、すべての刺激がより鋭く、より痛々しく感じられるようになった。


午前7時45分頃、同じチームと思われる人物がゾロゾロと集合場所に現れた。途端に、大地の感覚世界は一変した。


展示場の入口ドアが開閉するたび、建物内の気圧が微妙に変化する。その変化を大地の敏感な耳が捉え、ギギギギ…と鼓膜が萎むような痛みが始まる。空気の流れが肌に触れるだけで、まるで目に見えない手で撫でられているような不快感が全身を這い回る。


複数の足音が重なり合い、コンクリートを叩く音がまるで雨粒のように聞こえる。しかし、その中で一人の作業員が工具箱を地面に置いた音が、ガシャン、と大地の頭蓋骨に響いた。瞬間的に視界がぼやけ、平衡感覚が狂う。音の衝撃で脳が揺れたような感覚に、大地は密かに壁に手をついて身体を支えた。男性の低い声、作業着の擦れる音、そして誰かが飲んでいるコーヒーの香ばしい匂い。さらに、タバコを吸い終えたばかりの人の体から漂う煙草の匂いが、大地の鼻を刺激する。彼は無意識に鼻を押さえそうになったが、注目されることを恐れて手を下ろした。


大地は彼らから少し離れた位置に立ち、視線を足元に向けた。しかし、HSPの彼には、人々の感情まで読み取れてしまう。朝の疲れ、仕事への憂鬱、誰かの苛立ち。それらの感情が空気中に漂い、大地の心に直接触れてくる。まるで他人の感情が自分の感情であるかのように感じられ、境界線が曖昧になる。


「おはようございます」


小さく挨拶をするが、声は震え声になってしまい、ほとんど聞こえない。誰も大地の存在に気づいていないようだった。いつものことだ。大地は透明人間になったような気分で、チームメンバーたちの雑談を遠くから聞いていた。彼らの会話の一言一句が、大地には異様にクリアに聞こえる。普通なら聞き流すような内容でも、すべてが記憶に刻まれてしまう。

午前7時55分、職長が到着した。


その瞬間、大地の全身に緊張が走った。40代前半の男性で、無精髭を生やした男らしい顔立ち。髪は少し茶色に染められ短くカットされている。身長は180センチ近くあり、がっしりとした体格。しかし、大地が最も敏感に感じ取ったのは、その人物から発せられる「威圧感」という名の感情的な圧力だった。


それは目に見えないが、大地には確かに感じられる。まるで重い毛布を肩に掛けられたような圧迫感。普通の人なら「なんとなく迫力のある人だな」程度に感じることを、大地は全身で受け止めてしまう。反射的に身を縮め、目が勝手に泳いでしまった。


「今日、職長を任された木嶋だ」


太い声が朝の空気を切り裂く。その声の響きが大地の鼓膜を直撃し、まるで頭の中に雷が落ちたかのような衝撃が走る。大地の耳には、その声がまるでスピーカーから発せられたかのように大きく響く。声の振動が胸に伝わり、心臓の鼓動と混じり合う。肩がわずかに震えた。


その時、近くの事務所棟からスタッフが出てきて、重いスチール製のドアが閉まった。バン、という音と同時に、建物内から外への空気の流れが一瞬で変わる。気圧の変化が大地の耳の中で小さな爆発を起こし、耳の奥に鋭い違和感が突き刺さる。思わず片手で耳を押さえそうになったが、人に見られることを恐れて必死に我慢した。


「今日の目標は夕方までに壁を立てて、床を貼り終えること。クライアントさんは午後イチで一度見に来ます」


職長の木嶋がタイムスケジュールとブースの図面を配りながら説明を続ける。大地も図面を受け取ったが、手の震えで紙がわずかに揺れた。紙の質感が指先に伝わる感覚さえも、普通の人より鮮明に感じられる。ざらつき、厚み、そして印刷インクの微かな匂い。隣の作業員に気づかれないよう、急いで図面を作業着の胸ポケットにしまった。


木嶋の声には、仕事への責任感と同時に、部下に対する期待という感情が込められている。大地にはそれが手に取るように分かってしまう。他の作業員たちの「頑張ろう」という気持ちと、「早く終わらせたい」という願望も、空気を通して伝わってくる。感情の洪水に溺れそうになりながら、大地は必死に自分を保とうとした。


「安全第一で、ご安全に!」


木嶋の掛け声と共に、他のチームメンバーたちが声を揃える。その声が一斉に響く瞬間、大地の頭の中で音が爆発した。ズドドドン。まるで複数の太鼓が同時に叩かれたような衝撃が、鼓膜から脳へと直撃する。視界が一瞬白くなり、立っているのがやっとの状態になる。


同時に、風向きが変わり、展示場の大きな搬入口から突然空気が流れ込んできた。気圧の急激な変化に大地の耳が反応し、まるで高度の高い場所に一瞬で移動したような圧迫感と痛みが襲う。耳の奥でキーンという高音が鳴り響き、平衡感覚が狂いそうになる。


「ご安全に!」


大地も口を動かした。しかし、声はほとんど出ない。喉が締まって、かすれた音さえ出せずにいる。口パクのような状態で、必死に周りに合わせようとしていた。


心臓が激しく鼓動する。その音が自分の耳の中でドラムのように響く。以前、別の現場で職長に「声をもっと出せ!お前、やる気あるのか!」と怒鳴られた記憶が鮮明に蘇る。あの時の屈辱感、周りの視線、そして帰り道で一人で泣いた夜のことまで。怒鳴り声の音響、その時に感じた羞恥心という感情の重量、電車の中で涙を堪えながら感じた孤独感。すべてが昨日のことのように思い出される。それ以来、この「ご安全に!」の瞬間がとても嫌いになった。一日で最も辛い時間となった。


幸い、木嶋は大地の方を見ていない。指摘もなく、注意もない。見向きもされていない。大地はそっと安堵のため息をついた。しかし、その安堵さえも、HSPの彼には強烈に感じられる。まるで緊張という重いコートを脱いだ時のような、全身に広がる解放感。


チーム構成を確認すると、大地と職長の木嶋以外に6名のスタッフがいる。5人は男性、1人は女性だった。大規模なイベントでは「天吊り」や特殊な施工が必要となり、専門チームが配属されることもあるが、今回は一般スタッフと音響スタッフといったところだろう。


大地の視線がそっと女性の作業員に向いた。珍しく女性がいるので、この人が音響担当かなと勝手に想像した。20代後半だろうか。ショートカットの髪から漂うシャンプーの香り、きびきびとした動作から感じられる自信という感情。そして、男性ばかりの職場に慣れているという安定感。大地にはそれらすべてが感じ取れてしまう。最近は女性の技術者も珍しくない。


彼女から発せられる感情は、他の男性陣とは明らかに違っていた。より集中していて、より冷静。そして、僅かな緊張感も混じっている。おそらく技術的な責任を負っているのだろう。大地はそんなことまで読み取ってしまう自分に、時として嫌気が差す。


「それじゃあ、作業開始だ。資材の搬入から始めるぞ」


木嶋の指示で、チームが動き出した。途端に、大地の感覚世界はさらに複雑になった。複数の人が同時に動き出すことで生まれる音の重なり、足音のリズムの違い、そして全員の気持ちが「仕事モード」に切り替わる瞬間の空気の変化。


大地も黙々と資材運搬の列に加わった。重いパネルを持ち上げる時、金属の冷たさが手袋を通して伝わる。その冷たさは普通の人が感じるより遥かに鋭く、まるで氷に触れているかのよう。


作業が進む中、フォークリフトが近くを通り過ぎた。ガラガラという車輪の音と、エンジンの唸り声が重なり合う。その音が大地の聴覚を襲い、ズドン、ズドンと頭蓋骨の中で響く。まるで脳が音の波に揉まれているような感覚で、一瞬めまいがした。


さらに、大型トラックが荷物を降ろすため、荷台のリフトゲートを下ろした。ガシャーン、ドスン。金属が地面に当たる音が空気を震わせ、その振動が大地の全身を貫いた。同時に、トラックのドアが開いたことで車内の空気が一気に外へ流れ出し、気圧の変化が大地の耳に鋭い痛みをもたらす。まるで耳の中で小さな風船が破裂したような感覚だった。


パネル同士がぶつかる音は、彼の耳には金属楽器の不協和音のように響く。


運搬作業中も、大地の感覚は休むことがない。他の作業員の息遣い、汗の匂い、作業服の擦れる音。そして、それぞれの人が抱く微妙な感情の変化。疲労、集中、時には苛立ち。それらがすべて大地に流れ込んでくる。


彼は今日一日を無事に乗り切ることだけを考えていた。感覚の洪水に溺れないように、意識を作業だけに集中させようと努力する。しかし、HSPの彼にとって、それは非常に困難なことだった。


ヘルメットのあご紐を締め直し、作業用手袋を確認する。ヘルメットの内側の汗臭さ、手袋のゴムの匂い、そして自分の緊張から出る汗の塩辛い味が口の中に広がる。いつもの作業、いつもの不安、いつもの孤独感。そして、いつもの感覚過敏による苦痛。大地にとって、これが日常だった。


しかし、この日は何かが違った。まだ大地自身は気づいていないが、彼の超敏感な感覚が、いつもとは異なる何かを捉え始めていた。それは音でもなく、匂いでもなく、感情でもない。もっと別の、言葉にできない「何か」だった。


誰も知らない。この日が、柿沼大地の人生を根底から変える始まりの日であることを。透明な存在だった彼が、やがて誰よりも重要な役割を担うことになるとは、この時の大地には想像もできなかった。彼の極度に発達した感覚が、普通の人には決して感じ取ることのできない「未来の断片」を捉え始めているということを。


朝の冷たい風が会場を吹き抜ける中、運命の歯車が静かに回り始めていた。これは、社会不安とHSPに悩む一人の男性が、その「弱点」だと思われていた特殊な感覚によって、人生を、そして多くの人の運命を変えていく物語である。

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