レイニーゴースト
梅雨の時期、重苦しい曇り空と降りしきる雨の中、傘を差して学校から帰宅しているところだった。
自宅から高校までは自転車で10分弱だが、雨の日は歩いて登下校することにしているので、片道30分往復1時間かかってしまう。
そのおかげで家に着く頃には靴下がびしょびしょに濡れ、膝と肩がクタクタに疲れてしまうのだが、なぜ雨の日に苦労してまで徒歩にするのかというと、雨合羽を着たくないからである。
自転車の傘差し運転は禁止なので雨合羽着用が必須なのだが、雨合羽を着ると、せっかく毎朝セットしている髪のセットが崩れてしまうし、何よりダサい。
華の女子高生なのだから、人生の中で限られた時間しか着ることができないセーラー服はもっとファッションとして可愛く着て周囲に発信すべきだと私は思う……ということを以前お父さんに話したら、
「水香はファッションセンスを磨くより赤点ギリギリの成績をどうにかする方が先だろう」
と軽くたしなめられた。
学校におけるスクールカーストは学業よりも圧倒的にビジュアル重視だっつーの。
男子は身長とカッコよさ、女子は可愛さとファッション。
これが全国の高校生の常識ではあるが、50歳を超えるお父さんに説明を尽くしたところで徒労に終わるだろうから理解してもらうのは諦めた。
薄ピンク色の傘を絶え間なく叩く雨音。
パシャリと水溜まりを弾くローファー。
周囲に広がる田んぼを見回すと、稲が水没しそうなくらいにまで水かさが増している。
どこまでも広がる田園風景も、畦道のぬかるみも、雨の匂いも、何もかも6年前のあの日から何も変わっておらず、梅雨の時期が来るたびに私は憂鬱になる。
その時、遠くから雨音に混じって電車の走行音が響いてきてハッとした。
数十メートル先で鳴り響く踏切の警報音。
ボーっと歩いていて、気がつくとあの場所まで来ていた。
今日は6月23日。
つまり、6年前のちょうどあの日だ。
私は傘をやや前方に傾けながら踏切を渡る。
視線は落としてすぐ目の前の地面を見下ろしながら視野を極力狭くして歩いていると、すぐに車通りの多い県道が見えてきた。
緊張で傘の柄を持つ手にじんわりと汗が滲んでくる。
恐る恐る、僅かに傘を上げて前方を覗き見ると、横断歩道前に白いワンピース姿の女が立っていた。
やはり、今年もレイニーゴーストが現れた。
毎年梅雨の時期、6月23日に踏切近くの横断歩道前に立っている白ワンピースの女、通称レイニーゴースト。
傘も差さず、ずぶ濡れ姿でただ立ち尽くしている。
長い黒髪は雨で肌に張りつき、顔のほとんどは髪で覆われていて相変わらず気味が悪かった。
ただ、私の目にはその姿があまりにも不憫に映り、胸に疼く罪悪感が刺激される。
女の目に映らないよう私は俯きながら足早に横断歩道を渡った。
レイニーゴーストの足元には、いつ置かれたのかも分からない古いお菓子や飲み物と、すっかり枯れてしまった花束が未だに置かれていた。
家に帰宅した後、私は早速食卓で今年もレイニーゴーストがいつもの場所に立っていたことをお父さんとお母さんに話してみた。
「健太君が亡くなったあの事故からもう6年も経つだろう。気の毒だとは思うがもういい加減にしてほしいな。辛いだろうけど現実に向き合っていかないといけない時期だ。そもそも、あの事故で水香に落ち度はないんだから、必要以上にお前が気に病む必要はないんだぞ?」
「……………………う、うん」
お父さんの励ましに対して言葉が見つからず、ぎこちなく返答する。
「水香ちゃん、健太君のお母さんのことを幽霊みたいに言っちゃ駄目よ。前にも注意したでしょ」
「だって幽霊みたいなんだもん。それにあだ名つけたのは、黒崎君と麻里ちゃんだし」
「黒崎さんとこの息子さんと井上さんとこの娘さんでしょう。あの子達だってあの事故の日、健太君や水香ちゃんと一緒に遊んでたじゃないの。そんな不謹慎で失礼な事を平気で言うような子達になっちゃったのねぇ。水香ちゃんはもう言っちゃ駄目よ」
「レイニーゴースト?」
「駄目!!」
お母さんがもの凄い剣幕で畳みかけてきたので、私は気まずそうに口を噤んで食事に箸を向けた。
翌日、学校で黒崎君と麻里ちゃんに昨日レイニーゴーストと遭遇したことを話すと、
「健太の母ちゃん、息子の命日に毎年あの踏切前の横断歩道に立ってるんだな。まるで俺達への当てつけみてぇに感じるぜ。文句があるならはっきり言えってな?自分から不注意で車道に飛び出したっつーのに、俺達はどうしようもなかっただろうが」
黒崎君は苛ついたように廊下の壁を蹴飛ばした。
「水香ちゃんももうあの道通るの止めなって。毎年あの日に健太君の事故の事思い出しちゃうよ?」
「でも、あの道が登下校で一番の近道なんだよねぇ……」
「また来年の6月23日にもレイニーゴーストに遭遇しちゃっていいの?」
********************
あの時の麻里の問いに答えが出せぬまま、1年後の6月23日を迎えた。
17歳になった私の身長は少しだけ伸びて、ほんの少しだけ大人に近づいた。
湿気に満ちた空気とざーざー降りの雨の中、重い足取りで家へ向かって歩いている。
幼い頃からずっと変わらないここの風景は、まるで時間が止まっているかのような錯覚を引き起こさせる。
あの事故の日を再現しているような感覚。
あの日、学校帰りの放課後、黒崎君と麻里ちゃんと健太君の4人で近くの公園で缶蹴りをして遊んでいた。
途中で小ぶりの雨が降り始め、すぐに本降りへと変わっていったのを今でもはっきりと覚えている。
私達は急いで家へ帰ろうと走って踏切を渡り、そのまま横断歩道を突っ切ろうとしたが、車通りが多くやっぱり足を止めた…………黒崎君と麻里ちゃんと私の3人は。
健太君は――――――――。
ハッとして気がついたら、いつの間にか踏切を横断し切っていることに気がついた。
額から冷や汗がブワッと噴き出る。
そのままボーっと歩いていたら、赤信号の歩道に突っ込んでしまっていたかもしれない。
ドクドクと脈打つ鼓動。
胸を手で押さえながら乱れた息を整える。
前方に視線を向けると、今年の6月23日も、やはりそこの横断歩道にレイニーゴーストが立っていた。
白いワンピースに腰まで伸びた長い黒髪。
レイニーゴーストは、去年、一昨年……これまでの今日と全く同じ佇まいでそこに佇んでいる。
それはまるで、白いワンピース姿の女が横断歩道前に立っているという事そのものが現象化してしまっているようにも見えてくる。
車道を向いたままじっと立っている女を、あれはただの電柱みたいな存在なんだと自分に言い聞かせ、無理やり平常心を保って横切ろうとしたのだが――――
『…………おおきくなったわねぇ』
優しげな女性の声が雨と一緒に上から降り注いだ。
女の方を向いてみると、こちらを向いている女の足元だけが傘の下から覗き見える。
真っ白な2本の素足。
血が通っていないんじゃないかと思えるほどに肌が青白く、不気味に直立している。
『…………大きくなったわねぇ』
再び、頭上から降ってくる穏やかな女の声。
私は傘を横に傾けて女の顔を見ようか迷った。
健太君の母の顔を。
7年ぶりになってしまったが、しっかりと顔をつき合わせて謝罪をしようか考える。
実は、あの時私が健太君を――――――――。
『…………大きくなったわねぇ』
女の声にずらしかけた傘をぴたりと止める。
…………何か、変だ。
優しい声色ではあるのだが、まるで録音したビデオテープを再生しているかのような無機質さ。
声に生身の人間らしい質感が感じられないのだ。
そう考え始めた時、得体の知れない気持ち悪さが背筋を這い上がってくる感覚に襲われる。
その時、ちょうど歩行者信号が青に切り替わったのを見て、私は走って家へと逃げ帰っていった。
翌日、学校で黒崎君と麻里ちゃんに昨日遭遇したレイニーゴーストについて話題を出してみると、黒崎君は顔を強張らせて明らかな嫌悪感を示した。
「それは今ネタにしていいレベルの話じゃねぇぞ。冗談でも笑えないんだよ」
今にも怒りだしそうな雰囲気に私は驚き、逃げるように麻里の方を向いたのだが、彼女も同様の反応だった。
「水香ちゃん、さすがに今の話は不謹慎すぎるよ。ちょうど去年の事故をそんな風にふざけてネタにするなんて信じられない」
私にとってみれば、2人の反応の方が信じられなかった。
これまでレイニーゴーストの話題を平然と話していたくせにいきなり手の平返しなんて。
「そもそもレイニーゴーストなんてあだ名を考えたのも2人なんだから、私を批判する権利なんて2人にはないんじゃないの?」
「それに関してはもう反省してるの。去年まさかあんな事故が起きるなんて思わなかったし」
「……ちょっと待って、健太君の事故は7年前でしょ?」
「健太君の事故はそうだけど……。水香ちゃん去年起きた事故のこともしかして知らないの?」
「去年、何かあったの……?」
嫌な予感で身体がぞくりとした。
「健太君のお母さん、去年の6月23日にあの横断歩道で自らトラックに飛び込んで亡くなったんだよ」
********************
あれから1年後の6月23日、私は18歳になった。
身長があれからまた少し伸びて、どんどんと大人へと近づいていく。
町は年を経るごとに色んなお店が閉店し、空き家は増え、過疎化が進んで退廃していっている。
来年もまた、私はもっと成長し、町はより退廃していくのだろう。
私も周囲も時間とともに常に変化し続けているのだ。
今日は梅雨の時期だというのに、空は雲一つない鮮やかな夕焼け空が広がっていた。
あちこちから響き渡る蝉の鳴き声の洪水にのまれながら田んぼが広がる畦道を自転車で走っていると、遠くから電車の走行音が聞こえてきた。
電車が踏切を通り過ぎて遮断機が上がる。
踏切を渡ると、前方にはあの横断歩道が近づいてくる。
毎年変わらない白ワンピース姿で佇むレイニーゴースト。
真っ赤な空の下、心地良い風でカーテンの様に白い布地がはためいている。
事前に近くのスーパーで買ってきたお菓子と飲物、そしてお供え用の花を歩道脇に置き、すでに置かれていた古い物と取り替えた。
そして最後に、プロ野球選手のサインが入った野球ボールをそっと置く。
健太君が宝物のように大事にしていたサイン入りの野球ボール。
私がこっそり彼のポケットからボールを抜き取ってふざけて車道に放り投げていなければ、彼はきっと今も…………。
野球ボールにサインペンで、
『あの時は本当にごめんなさい。 塩原水香より』
と書き込んだら、ミミズのように字が歪んでしまった。
いや、そもそもプロのサイン入りボールに私の字を書き込んだ時点で呪い殺されるレベルなのではないだろうか……。
恐る恐る後ろを振り返ると、レイニーゴーストの姿は綺麗さっぱりと消えていた。
人も町も時とともに姿形が変わっていく。
“人の死“というのは、その時点でその存在が静止してしまうということなんだと思う。
絶えず変化し続けていく周囲に対して、いつまでも静止したままの存在。
世間から置きざりにされたような孤独と喪失感。
レイニーゴーストは、いや、健太君の母は、自分の息子の存在が少しずつ世間から忘却され、存在が薄まっていくことに耐え切れなかったのかもしれない。
自分の中からも息子の存在が消えないように、彼女は毎年息子の命日にこの横断歩道の前に立って消えていった息子を偲んでいたのだと思う。
今年、私は実家から通える地方の大学を受験する。
合格すれば、来年からもうこの道を通ることは二度とないだろう。
それでも、毎年の6月23日はこの横断歩道前に立って、2人を偲ぼうと思う。
彼らを忘れないことが、私にできる唯一の償いだから。
晴れの日は暑さに耐えながら。
雨の日はずぶ濡れになりながら。
たとえ、その姿を見た周囲の誰かが、レイニーゴーストなんてあだ名を私につけたとしても。