第5話
「はぁ……何だか疲れたわ……」
グラディスさんが帰った後、私は疲労からか頭痛を覚えてこめかみを指先で解していた。
「奥様……お茶をどうぞ。お疲れの様でしたので甘めにしておきました。大丈夫ですか?」
私に付いてくれている侍女のカーラが心配そう私の顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫。そう言えばあと一週間でホートリー侯爵夫人のお茶会ね。手土産は何にしようかしら」
社交も伯爵夫人としての大切な務めの一つだ。
「またラサネン商会を呼びますか?」
「そうね。あそこは品揃えが良いから」
そう言いながら、私は自分が贔屓にしている商会の商人の顔を思い浮かべていた。
「おかえりな……」
シーメンス伯爵領からジョージが戻って来た。何故か予定よりも三日も遅れて。私は何かあったのではないかと心配で堪らなかったのだが、その答えを持つ者は誰もいなかった。
玄関ホールから扉の開く音と、ジョージの声が微かに聞こえるのに、誰も私を呼びに来ない。
その頃私はジョージの執務室で、彼の代わりに帳簿を確認していた。普段なら誰かが声を掛けてくれるのに……。その事に違和感を覚え、急いで席を立った。
玄関ホールに向かって早足で歩く。
彼の姿を認める前に『おかえりなさい』と声を掛けようとした私の目に、信じられない光景が飛び込んで来た。
そこには旅装束のままのジョージと、その腕に馴れ馴れしく絡みつくグラディスさんの姿があった。
私の姿を認め、ジョージは少しぎこちない様子で私に声を掛ける。
「やぁ、キキ。ただいま。……あの……これは……」
とグラディスさんの腕をそっと自分から離そうとするが、グラディスさんはますますジョージにギュッと近付いた。
「こんにちは、キルステンさん。実は私、観光も兼ねてシーメンス伯爵領に行ってみたの」
彼女の言葉に私は目を丸くした。何故彼女はシーメンス伯爵領に行ったのだろう。そして何故私の夫と共に帰って来て、彼の腕を取っているのだろう。
執事もグラディスさんの態度に何とも言えない顔をしていた。
「ねぇ、ジョージ。シーメンス伯爵領は海が綺麗だったわね!」
「あ……あぁ。そうだな」
はしゃぐグラディスさんとは対照的に、煮え切らない態度のジョージ。私は居た堪れなくなり、
「ジョージ、そろそろ着替えたら?グラディスさんもお疲れでしょう?もう屋敷へお戻りになった方が良いのでは?」
と二人に声を掛けた。
その声は誰が聞いても冷たく感じた事だろう。
「あ……あぁ……」
「えーっ!お屋敷に戻っても誰も居ないんですもの、つまらないわ。ねぇ、もう少しジョージと一緒に居ても良いでしょう?」
「あ……あぁ……」
さっきから『あぁ』しか言わないジョージに嫌気がさした。しかし私は彼の妻だ。この家の女主人だ。つまらない嫉妬は見て見ぬふりをする。
「では……グラディスさんお夕食をご一緒に如何です?」
「え?よろしいの?ではお言葉に甘えて」
「どうぞ。では食事の準備が整うまでお茶でも如何ですか?」
私の精一杯の強がりだった。
「あら、今日のお茶は美味しいじゃない」
「お口に合いまして?それは良かったですわ」
四日前と同じ様に、私とグラディスさんは向かい合ってお茶を飲んでいた。
今頃ジョージは着替えている事だろう。あんなにはっきりしない態度のジョージを見たのは初めてだった。明らかにこのグラディスさんのペースに押されていて、見ていて腹立たしかった。
目の前の彼女は気怠そうに溜め息を吐く。疲れているなら帰れば良いのに。
「お疲れの様ですわね。シーメンス伯爵領は意外と距離がありますから」
「ええ。でも楽しかったわ、ジョージと二人。昔に戻ったみたい。はしゃぎ過ぎてしまったもの」
昔を強調する彼女に呆れてしまう。そんな事で私が動揺すると思っているのだろうか?私はジョージの妻だ。過去は過去。過ぎた時間は戻らない。
「そうですか。お二人は幼馴染でしたものね」
別に意図してそう言った訳ではないが、何故か彼女はムッとした。
「幼馴染じゃないわ。私達は婚約者だった……愛し合っていたの。父が負債さえ抱えなければ、そこに居たのは私の筈だった」
そう言って、グラディスさんは私を指差した。
人に指を差すなんて……と私は場違いな感想を持つ。
「そうかもしれませんね」
私は微笑んだ。きっとそれが彼女の癇に障ったのだろう。
「ジョージも言っていたわ。……貴女なんかより、私と結婚したかったって」
『なんか』……そんな風にジョージが私の事を言うだろうか?
給仕の為に側にいたメイドの握った拳が震えていた。殴りたい気持ちは私も同じだ。だが、それは決して許されない。
私が言葉を発しないので、グラディスさんは調子に乗って喋る。
「貴女……まだ子どもが出来ないんですって?パメラも不満そうだったわ」
不満そうだったのがパメラで良かった。流石にジョージが不満だったと言われたら立ち直れなかったかもしれない。
彼女の口はよく動く。
「ジョージも可哀想に……ハズレくじね」
カッチーン!
流石の私もこめかみがピクピクしている。血管が切れそうだ。だが、ここは我慢、我慢。
「こればかりは……。神様のお心次第ですので」
「貴女から……離縁してあげたら良いのに。私ならジョージの子を産んであげられるわ」
そろそろ我慢の限界だ。私がカップを置き彼女を見据えて口を開きかけた時、
「お食事の準備が整いました」
と廊下から声が掛かった。
良かった……彼女を罵倒する前に、私はこの息苦しい空間から逃れる事が出来たのだった。
しかし……席を立つ瞬間、彼女は私にこう言った。
「ねぇ……ジョージの背中の痣って星の形みたいで……面白いと思わない?」
と。