第46話
そのビアンカさんを宰相達はイライジャへの交渉の切り札として使ってきた。はっきりとは言わなかったが、ビアンカさんは人質だ。彼女を助けたければ、エクシリアへ帰って来い……そういう事だろう。
突っ伏した私の頭をもう片方のイライジャの手が撫でた。温かい。彼は生きている。
「私は……エクシリアには戻りません」
私はガバッと顔を上げた。
「どうして?!ビアンカさんが……」
「私の中でビアンカはもう……」
イライジャはビアンカさんは既に亡くなっていたと思っていたのだろう。その分の人生を……彼は生きてきた。そう思っていた筈だ。
「でも彼女は生きていたわ」
「私にはビアンカより……貴女が大切なんです。薄情だと思われても良い。ビアンカだって新しい人生を生きている私を……」
「イライジャ……貴方、嘘が下手ね」
イライジャの瞳は揺れている。綺麗な紫の瞳。私はこの瞳が大好きだ。
「嘘じゃない!私は……私は貴女の側にいたい。ずっと側に……」
「イライジャ、よく考え……」
私の言葉を遮る様に席を立ったイライジャは言った。
「私の気持ちは決まっています!私は国を捨てた!私はイライジャ・タウンゼントではない。ただのイライジャです」
イライジャは私の言葉を待たず、大股でこの部屋を出て行った。
その日……イライジャは少し独りになりたいと部屋へと閉じこもったまま、出て来なかった。
「お嬢様……」
他の使用人も戸惑っていた。自分達と同じ使用人だったイライジャが他国の王子だと知って、接し方を決めあぐねているようだった。
「イライジャはイライジャよ。彼が私の執事であり、このアンドレイニ伯爵家の仲間である事に変わりはないわ」
私のその言葉に他の使用人達も納得したように頷いた。
母も私を心配している様だった。……娘の気持ちなどお見通しという事なのだろう。
その夜。目が冴えて眠れなかった私は、夜風に当たりたくてベランダへ出た。風は冷たく、私はガウンの前をしっかりと合わせる。
ふと下を見る。そこには私と同じ様に眠れなかったであろう人物が、庭で月を見上げている姿が私の視界に入ってきた。
視線を感じたのだろうか?彼は顔を上げたまま、振り返る。無言で二秒程見つめ合った後、彼はその場を離れた。
私は急いだ。今、イライジャと話す必要があるとそう強く感じる。部屋を出て廊下を走る私の足元に夜着が纏わりつくが、私はそれを気にせずに階段を駆け下りた。
「イライジャ、逃げないで」
裏口から庭に出た私は、イライジャの背中を見つける事が出来た。
彼は諦めた様に振り向くと、
「キルステン様は意外と足が速かったのですね」
と苦笑いした。
「イライジャ……」
私が口を開きかけた時、
「私はエクシリアには戻りません。もう決めたんです」
とイライジャは私の言葉を遮った。
「……決めたのなら、どうしてそんな顔をしているの?」
私はイライジャに近付くと、彼の頬に手を伸ばす。
イライジャは私の瞳に映る自分の姿をじっと見つめて……私の手に自分の手を重ねた。
「私は……どうしたら良いのでしょう」
いつも自信ありげなイライジャの顔が不安で曇る。
「私ね、正直に言うと貴方が少し怖かったの。此処に戻った当初」
「怖かった?」
「そう。なんだか全部見透かされているようで。私の考えなんて、全てお見通しなのかも……って思ってた」
「そんな……全ての可能性を考えて導き出した結果で……」
「そうね。貴方は頭の回転が物凄く早いから……先回り出来てしまうんだわ。でも、私は凄くそれが不思議だった。でも貴方は言ったわ『人の心はわからない』って。そうか……イライジャにも分からない事があるんだって……ちょっと安心しちゃった」
イライジャは私が何を言いたいのか分からないといった風な表情だ。
「イライジャ……貴方は貴方の心が分からない?
「いえ……分かっています。私は貴女の側に居たい。それが私の幸せです」
「ならばそうすれば良い。……自分を騙せる程の嘘つきになれるなら」
「嘘つき……」
「イライジャ……迷っている事こそ貴方の答えよ。ビアンカさんは貴方の大切な人でしょう?」
「貴女だって私の大切な人だ。ビアンカよりずっと」
分かってる。イライジャが私を大切に想ってくれている事は。だけど、苦しそうなイライジャをこれ以上見ていられない。……私から手を離さなければ、彼は私との約束に囚われたままだ。ずっと側に居るという約束が呪に変わる。
「自分で自分に呪をかけないで。私の側に居る事がいずれ貴方の心を蝕むわ。じわじわと。……貴方の心が黒く染まるのを見たくない」
「後悔なんてしない!」
「私が後悔するわ」
イライジャはその言葉に酷く傷ついた顔をした。
「そんな……っ。私を解雇すると?」
「貴方は貴方のやるべき事をやるの。エクシリアに戻って……ビアンカさんを助けてあげて」
「嫌です!ビアンカだって……理解してくれる」
「ビアンカさんがどう思うかじゃなくて、貴方がどう思うか……よ」
イライジャは私の手を離す。私も彼の頬から手を退けた。もう彼に触れる事はないだろう。そう思うと胸が張り裂けそうだ。
イライジャの頬から離れた私の手は少し濡れていた。私は初めてイライジャの涙を見た。
私も思わず泣き出しそうになる。ここで私が涙を流すのは、違う。その顔を見られたくなくて、私は空を見上げた。
「月が綺麗ね」
そこには大きな満月があった。イライジャがさっきまで眺めていた月だ。
イライジャは何も答えない。私は涙が溢れない様にずっと上を眺めていた。
「あの時と同じ様な月ですね」
イライジャがあの海で見た月の事を言っているのだと、すぐに分かる。イライジャから贈られた指輪を私はそっと撫でた。
あの時と違うのは……海に映る月はなく、月がたった一つだけだという事だ。これが本来の姿だろう。月はこの世に一つだけ。私もまた一人に戻る。それだけだ。




