第41話
「イライジャ、何があったの?」
私の言葉にイライジャは顔を上げた。彼の表情が苦しそうに歪む。
「私は……何者でもありません」
「どういう事……?」
イライジャが何を言いたいのか……彼の真意が分からずに私は不安になる。
「貴女を好きになる資格もないのに、こんな気持ちを持ってしまった……馬鹿な男です」
「資格って……何を言ってるの?」
「私はキルステン様に相応しくないという事です。ただ、これだけは……貴女にだけは誤解されたくない。私はアンドレイニ伯爵家を自分のものにしたいなどと考えた事はありません」
「当たり前じゃない。そんな事……。まさかイライジャ、ガーフィールド伯爵の言葉を気にして……?」
裁判の時、最後の最後にジョージが放った言葉。ジョージから見れば、離縁で傷心した私をイライジャが誑かした様に思えたのかもしれない。真実を隠した事で、私とイライジャとの関係がそんな風に勘ぐられた事は理解出来る。しかし、私はジュディーの父親が誰なのかを知っている。イライジャが私とジュディーを守るために嘘を吐いた事を知っている。
「そう言われても仕方ない……そう思っていました。貴女への気持ちに気付く前までならそれで良かった。しかし私は貴女を……。ガーフィールド伯爵に何と思われても構いませんが、貴女にだけは……。しかし実際、私は何者でもない。貴女に相応しい男ではありません。この気持ちに蓋をして心の奥底に仕舞ってしまおう、そう思っておりました……でも」
「ま、待って!どうして?どうして自分だけで何もかも決めてしまうの?私の気持ちは?」
「しかし!私では貴女を幸せに出来ない!」
「幸せにしてもらおうなんて思ってないわ。私は……今のままで良い。形なんてどうだって良いの。私の生活の中にジュディーが居て、イライジャが居て……それだけで幸せだもの。私の幸せの形まで決めてしまわないで」
私がアンドレイニ伯爵で居るのもサミュエルが此処を継ぐまでだ。その後は……この領地でのんびりと暮らす事が出来れば良いと、漠然と考えていた。その時にイライジャが側に居てくれれば、何て幸せな事だろう……と。
「私は……一生誰かにこんな感情を抱く事などないと思っていました。誰かに心を預ける事などないと思っていた。だけど貴女に出逢ってしまった。私の幸せは貴女の側に居る事です。執事として……それだけでも幸せだと」
「だから……王都から戻ってから、私を避けていたの?」
「避けていたつもりはありませんでした。自分の気持ちを隠し、一線を引くべきだと。これ以上……貴女を好きになるのが怖かった。でも……」
「でも?」
「無理です。貴女の側に誰も近付いて欲しくない。嫉妬という感情を今日はっきりと理解しました。溢れ出る気持ちを抑えられなくて……すみません」
私は苦しそうに謝罪するイライジャに抱きついた。
「私だって貴方の側に私以外の誰かが居るなんて想像したくないもの。この気持ちだけではダメなの?私達にそれ以外、何か必要?」
「私はただの……」
「貴方は私の大切な人だわ。イライジャは?イライジャにとって私は……単なる雇用主なの?」
「そう思えたらどんなに良かったか……。でももう無理だ。私は貴女を愛しています」
イライジャも私を抱き締める。
「私も貴方を愛しているわ。今はそれだけで良いじゃない。側に居て欲しいの。貴方なりのケジメとして、執事と主との関係を壊したくないのならそれで良い。でも私の気持ちまで無視しないで……」
形なんて何でも良い。いつの日か私が伯爵でなくなった時には答えが出せるかもしれない。でも、その時もイライジャと二人で考えて答えを出したい。
イライジャを見上げる、私を見るイライジャと目が合う。彼の紫色の瞳が何かを躊躇うように揺れていた。
イライジャの顔が私に近づく。私達の唇は静かに重なった。
「すっかり良くなったみたいですね」
ジュディーの様子を見て、アンソニーは笑顔になった。アンソニーの眼鏡が気になるのか、ジュディーは必死にアンソニーの顔に手を伸ばす。
「ダメよジュディー。それは先生の物でしょう?」
「ハハハ!顔に何か付いてたら気になるよね」
アンソニーは子どもに慣れていて、眼鏡を盗られても笑顔だ。
ジュディーを抱っこしたアンソニーに尋ねる。
「アンドレイニ伯爵領はどう?もう慣れた?」
「最高だよ。病院の設備は整ってるし、買い物に行っても店は品揃えも良い。寮まで用意して貰って、至れり尽くせりだ」
病院には領外から多くの医者が集って来た。そんな人達が直ぐに住める様に、家具付きの寮を用意しているのだが、これが結構評判だ。
「そう、良かった。こうして実際に領外からうちに来た人に話を聞けるのはありがたいわ。何か意見があったら遠慮なく言って頂戴ね」
「すっかり領主の顔だね。ここに暮らして半年経ったし……そろそろ妻を呼び寄せようかと思ってるんだ」
「まぁ!奥様はまだ隣国に?」
「うん。まずは僕がこっちに来て生活の基盤を整えてから……と思ってね」
「住居は?」
「とりあえずは二人で寮に住むつもりさ」
「二人で寮暮らしは手狭でしょう?」
寮の広さは独り暮らしを想定したものだ。
「元々、あれより狭い家で暮らしてたんだ。問題ないよ」
「でも……」
すると、私の後に控えていたイライジャが、
「キルステン様、今、移住者の為に多くの住居を用意している最中です。あの中で病院に近い住居のいくつかを家族を持つ医師の為の寮にしてはいかがでしょうか?」
と声をかけて来た。
「それは良いアイデアね!直ぐに目ぼしい住居に家具を入れて頂戴」
「おいおい、そりゃあ、僕達みたいな医者にはありがたい話だけど、いいのかい?全部伯爵の負担になるんだろう?」
「良いのよ。それで益々優秀なお医者様が我が領に集まるきっかけになってくれれば。それが父の望みだったんだもの」
「そういえば……若いアーティストにも支援しているんだって?」
「ええ。才能はあるのに資金が無くて困窮している芸術家は多く居るし。彼等が心置きなく自分の才能を伸ばす手助けがしたかったの」
「これも……お父上の望みかい?」
さっきまではしゃいでいたジュディーが静かになったと思えば、ウトウトし始めている。アンソニーはジュディーを慣れた手つきで寝かしつけた。
「どうかしら?父はこのアンドレイニ伯爵領を王都にも負けない場所に……と考えていたから。父が具体的に考えていた事以外でも、この領地や領民の為になるなら、なんでもするつもりよ」
私の答えに、アンソニーは何度も頷いた。
「凄いな。すっかり雲の上の人だ」
「私は私よ。でも環境や経験は人を大きく成長させるわ。今では父の後を継いで良かったと思ってる。最初はおっかなびっくりだったけどね」
父の死や自分の離縁を前向きに捉えられる事が出来る様になったのも、側でイライジャが助けてくれたお陰だ。
アンソニーを見送る。ジュディーはすっかり元気になったが、今後も世話になる事もあるだろう。彼なら安心だ。
「奥様にもお会いしてみたいわ」
「あぁ、こっちに連れてきたら会ってやってくれ」
アンソニーは相変わらず人懐っこい笑顔を見せて帰っていった。
その背中を見送りながらイライジャが呟く。
「ご結婚していらっしゃったのですね……嫉妬してしまい恥ずかしいです」
「フフフッ。私はヤキモチを焼いて貰って嬉しかったわ」
その私の答えに、イライジャは苦い顔だ。
「嫉妬なんて醜い感情です」
「ほどほどならば問題ないわ。でも嫉妬している方は辛いものね。私も不用意な態度を取らない様に気をつける」
グラディスさんへの感情を思い出し、私はイライジャへの理解を示す。恋愛は独りよがりでは上手くいかないのかもしれない。
「自分がこんなに心の狭い男だとは思いませんでした。……今思うと……サマル伯爵にも嫉妬をしていたのだと思い当たります」
「マシュー様に?」
「あの夜会ですよ。一晩ずっとイライラしていたのは嫉妬のせいです。あの時はまだ自分の気持ちに気付いておらず、何故あんなにサマル伯爵の顔を見るとイライラするのか不思議でしたが、今なら合点がいきます」
そんな話をしていたからだろうか、翌日サマル伯爵が顔を見せた。
「お兄様!赤ちゃんかわいい!」
ジュディーの揺りかごをつま先立ちで覗き込む、マシュー様に良く似た可愛らしい女の子。
「メリッサ、ジュディー様だよ。あまり大きな声を出しちゃダメだ。驚いてしまうから」
私はジュディーを抱っこして膝に乗せる。メリッサ様は私の前に立つと。
「こんにちは!私、メリッサよ!よろしくね」
と可愛らしく挨拶していた。
「妹にジュディー様の話をしたら、連れて行けとうるさくて。こちらに仕事があったのでついでに連れてきたんですよ」
「遊び相手が出来てジュディーも喜びます」
私は乳母を呼んで二人を子ども部屋に連れて行く様に言った。子どもは子ども同士の方が上手くいくだろう。
「今回は王都に?」
「ええ。そこで……キルステン様にお願いがあるんです。私が仕事をしている間、メリッサを預かって貰えませんか?王都にはあの女が居る。絶対に会わせたくない」
「分かりました。マシュー様のお気持ちはとても理解出来ます。私もメリッサ様と仲良くなりたいですし」
私がそう言って微笑めば、マシュー様はホッとしたようだった。そして、私の後に立つイライジャに、
「そういえば……お前の祖国がまた大変な事になってるぞ」
と声を掛けた。
「大変な事……?」
イライジャもそれに素早く反応する。
「あぁ。また王政が復活したそうだ。軍事政権の終わりだな」
マシュー様の言葉に、イライジャは無言で何かを考え込んでいる様だった。
私はその様子に何故か心がざわついた。それが何なのか……その時の私にはわからなかった。




