第40話
「子どもは急に熱を出す事があるからね。あまり高くなりすぎると痙攣を起こしたりする事もあるから、注意が必要なんだ。今の所はその心配は無さそうだけど、一応熱冷ましの薬も出しておこう」
アンソニーはジュディーを診てそう言うと、私に薬の飲ませ方を丁寧に教えてくれた。
「ありがとう。でも……驚いたわ、貴方が医者になっていたなんて……」
「家が没落して貴族じゃなくなって……実はこの隣国に渡って働いていたんだ。昼は孤児院で働いて、夜は飲み屋で働いた。ある日孤児院の子どもが病気になった時に出会った医者に感銘を受けてね、それで医者を目指す様になった」
「そうだったの……。ねぇ、お茶でも飲んで帰らない?久しぶりに話したいわ」
「いいね。ご馳走になっても?」
アンソニーは人懐っこい笑顔を見せた。あぁ、この顔、懐かしい。
「イライジャ、彼は私の昔の知り合いなの。お茶をサロンに用意する様に言って。あと乳母を呼んでくれる?ジュディーを看ててもらうから」
「ジュディー様の側を離れると?」
イライジャの言葉に棘を感じる。
「今は薬を飲んで落ち着いてるからね。少しぐらいは大丈夫だと思うよ。お母さんだって少しは休憩しなきゃね」
アンソニーが助け舟を出してくれた。
「……畏まりました」
イライジャは部屋を出て行った。その背中が何か気にかかる。
そんな私に、
「キルステン?疲れてるの?大丈夫?」
とアンソニーが私の顔を覗き込む。
「え?ええ……大丈夫。サロンに案内するわ」
私はアンソニーと部屋を出た。
「この屋敷も懐かしい気がするな」
アンソニーはサロンの椅子に座り、キョロキョロと辺りを見回す。
「もう……五年?六年?」
「それぐらいかな……君と婚約解消してから」
「でも、凄いわ。物凄く頑張ったのね、お医者様になるなんて」
「さっき言った医者……僕が感銘を受けたっていう人物ね。彼は夜遅くまで街の人達の病気を診ててね、僕は飲み屋で働くのを止めて、夜は彼を手伝いながら勉強したんだ。孤児院で働いてて……幼い子が亡くなる事もあった。それが、辛くて……」
「それで小児専門の医者に?」
「うん。一昨年かな、やっと医者になれた。恩師と仰ぐ彼を手伝いながら、子どもが病気だと聞けばを往診で診て回ってたんだけど……半年前かな?その彼が亡くなったんだ」
「そんな……寂しかったわね……」
「君こそ。お父上の事……残念だったね。アンドレイニ前伯爵は婚約を解消した後も、僕を何かと気にかけてくれていて……実は何度か手紙を頂いてた。僕はその時素直になれず、ずっと返事が出来ないままだったんだけど、医者になった時……やっと返事を書けたんだ。医者になった事を伝えたら、凄く喜んでくれて……もう少し立派になったら堂々と会えるかなって思ってたのに……本当に寂しいよ。素晴らしい人だった。葬儀に来れなくてごめん」
「父が……そうだったの……。ありがとう。そう言ってくれて、天国の父も喜んでいるわ。アンソニーのお父様とお母様は?」
「父もあれから頑張って働いて、今では家具職人さ。母は相変わらず呑気だよ。お陰で没落しても暗くならずに済んだ。医者になってからは仕送りも出来る様になったし、皆元気でやってるよ」
「そう……良かった。で、どうしてアンドレイニ伯爵領へ?」
「隣国でも、この領地の病院は評判さ。医学学校で一緒に学んでいた学友が、この前ここの病院で働き始めたんだ。彼に誘われてね。恩師も亡くなったし……環境を変えようと思って」
「そうだったの……。嬉しいわ、あの病院にこんな素晴らしい小児専門医が働いてくれてるなんて。大歓迎よ」
「少しでも役に立てる様に頑張るよ。あぁ……もうこんな時間だ。そろそろ病院に戻らなきゃ」
「ごめんなさい、引き留めてしまって」
アンソニーはカップのお茶を飲み干すと、椅子から立ち上がった。私も立ち上がる。
「もし、ジュディー様の様子が変わったら直ぐに知らせて。一応三日後に、また診に来るよ」
玄関で、アンソニーを見送る。憎み合って離れた訳でも、恨まれている訳でもない。私は古い友人と話した後の様に、心が温かくなっていた。元気そうなアンソニーの姿にホッとしたのも事実だ。
「ええ、ありがとう。会えて嬉しかったわ」
「僕もだよ。キルステン、君も色々あったみたいだけど……元気そうで良かった。それに相変わらず魅力的だ」
「まぁ!婚約していた時にそんな言葉聞いた事がなかったわ!」
「照れ屋だったからね」
私達は笑い合った。
「じゃあ」
「ええ、また」
アンソニーに手を振る。アンソニーは門を出るまで何度も振り返りながら、その度に笑顔で手を振り返していた。
「熱……下がったみたいね」
「ええ。お薬が効いたようです」
乳母が水を張った桶を手に立ち上がる。
「お水を替えてきましょう」
「あ、良いわ、私がするから。貴女はもう休んで」
「奥様は?」
「私はこの子の側に居るわ」
「奥様もお休みになりませんと……」
心配そうな乳母に私は頷いた。
「眠くなったら、此処で休むわ。また明日ね」
私は乳母から桶を受け取ると、彼女に笑顔でそう言った。
桶の水を替える。それを持ちジュディーの部屋へと戻っていると、
「持ちましょう」
と後ろからイライジャがやって来て、私の手の桶をそっと奪っていく。
「大して重くないわ」
イライジャはその言葉には答えず、無言のまま歩く。その内ジュディーの部屋の前に辿り着いた。
「ありがとう」
扉の前で受け取ろうと手を伸ばすも、イライジャは水の張った桶を見つめるだけ。こちらに渡してくれる気配がない。
「イライジャ……?」
「あの……彼は……」
「彼?」
「昼間の医者です。彼は……」
「私の元婚約者よ。結婚前に……って、廊下で立ち話もおかしいわね、部屋に入る?」
ジュディーの部屋の前で桶を挟んで話しているのも変だろう。私が扉を開けると、イライジャは素直に付いてきた。
「良く寝てる」
ジュディーの揺りかごを覗き込む。イライジャが側のテーブルにそっと、桶を置いた。
『コトン』
私はその音に振り返る。
「座る?」
側の椅子を指し示すがイライジャは小さく首を横に振った。
「どうしたの?」
様子がおかしいイライジャに、戸惑う。イライジャは少し間を空けて口を開く。
「没落したっていう……?」
その言葉がアンソニーの事を言っているのが分かった。
「ええ。父から何か?」
「いえ……大奥様から少し聞いた事がありましたが、詳しい事は何も」
「貴族だからと誰も彼もが裕福で順風満帆ってわけじゃないもの。私達の婚約が解消された事も、稀にある事。ありふれた話……とまではいかないけど。アンソニーとの婚約を解消してから約一年後だったかしら?私はガーフィールド家に嫁いだ」
「……彼との婚約解消は仕方なく?」
「そうね。父は支援を申し出たけど、アンソニーのお父様……クライド伯爵はそれを断ったの。そこで私達の婚約は白紙に。私が十七歳、アンソニーが……十八歳だったかしら。それから私は全く彼等の消息を聞かされていなかったし……私も気にした事はなかった。薄情よね……三年も婚約者として側に居たのに。でも、父はアンソニーやクライド伯爵に手紙を送っていたのね」
「旦那様らしいですね……」
「そうね。私も母も……父が彼等を気にかけていたなんて知らなかったけど、アンソニーから話を聞いて妙に納得したわ。本当に父らしいなって。でも、アンソニーの元気そうな顔を見て安心した。まさかお医者様になってるなんて想像した事も無かったけど」
「……それだけ?」
「どういう事……?」
「いえ……何でもありません。失礼します」
イライジャは軽く頭を下げると、扉に向かった。
「待って!」
扉のノブを握るイライジャの手に触れる。
「イライジャ、正直に話して欲しいの。……私、貴方に何かした?」
「何故?キルステン様は何も」
「でも、王都から戻って……何だか貴方に避けられている気がするの」
「そんな事……」
「無いって言える?」
「…………」
イライジャは無言で俯いた。




