第27話
「ジュディーちゃん、お婆ちゃまですよ」
最近、体調が良くなり離床する時間が増えた母が、また私の寝室を訪れた。
「お母様、体調は大丈夫?」
「ええ。最近は庭を少し散歩出来る様になったし」
母は赤ん坊を愛おしそうに腕に抱き、その小さな体を軽く揺すりながら笑顔で言った。父を亡くしてから……こんな風に笑う母を見るのは本当に久しぶりだった。
ジュディーを産んでから丸二日が経った。母もサミュエルも直ぐ様この可愛らしい赤ん坊に会いに来たと言うのに、何故か顔を見せない人物が一人。
私はジュディーに目を細めている母にそれとなく尋ねた。
「仕事は大丈夫かしら……?」
「貴女もすっかり仕事人間ねぇ、今はゆっくりと休む時よ。あぁ……そう言えば開校式は無事に済んだと校長から連絡があったみたいだけど」
「そう……」
私が尋ねたかったのは、それだけではなかったのだが、母は私にジュディーを返すと『また来るわね』と部屋を出て行った。
母の軽やかな足取りにホッとする反面、二日間姿を見せない人物に少しモヤッとする。
しかし、私はそのモヤモヤする気持ちに名前を付けられずにいた。
そんな中ー
『コンコンコン』
控えめなノックに私が応えると、開いた扉から顔を覗かせた人物は、
「イライジャ?」
彼の姿を三日ぶりに見る私は、少しだけ嬉しいような、少しだけモヤッとする様な矛盾した気持ちを感じていた。
「お休みの所、申し訳ありません。どうしてもキルステン様の許可が必要な書類がありましたので」
仕事の話か……そう思った自分に私は少し驚いていた。イライジャは執事。考えてみれば当たり前の事なのに。私はそんな自分を誤魔化す様に、少し早口で言った。
「分かったわ。その書類を見せて」
イライジャが寝台に近づく。私は書類を受け取る為にジュディーを赤ん坊用の寝台に寝かせようとしたが、ふと思いついた事を口にした。
「イライジャ、抱っこしていて貰える?」
すると、イライジャは目を丸くして首を横に振った。
「とんでもない!ジュディー様に何かあっては……」
「大丈夫よ。抱き方を教えるから」
私がそう言うとイライジャは少し困った様な顔をしながらも、書類を床頭台に置き手袋を外してそれをポケットにねじ込んだ。
「頭を腕で支える様にして……そう。もう片方の腕はこんな感じ」
イライジャはまるでガラス細工を扱うかの様にそっとジュディーに触れた。彼の肩には力が入っている様だが、ジュディーに触れる手はとても優しい。ぎこちないながらも、イライジャはジュディーを抱っこする事に成功した。
「……小さい。赤ん坊とはこんなにも小さいものなのですね」
「赤ん坊を見るのは初めて?」
「生まれたばかりの子を見るのは初めてです。……凄い。こんなに小さいのにちゃんと生きてる……」
イライジャはその紫色の瞳で、ジュディーをじっと見つめていた。
「命って尊いわ」
「本当に。……キルステン様もジュディー様も無事で良かった……」
心からホッとした様なイライジャに私はレジーナのお陰だと言った。
「出産は命がけだと聞いておりましたので……正直、心配で……本当に、本当に良かったです」
そう言ったイライジャの声は、少し震えている様だった。
「私の母は、私を産んで直ぐに亡くなりました」
イライジャはジュディーを優しく抱きながら、そう話を続けた。初めて聞くイライジャ本人の話だ。
「産んで直ぐ……。それは辛かったわね……では、お父様と?」
私はその悲しい事実にどう声を掛けて良いか分からず、分かりきった質問をしてしまった。
……そう思っていたのだが、イライジャは皮肉っぽく片方の口角を上げてこう言った。
「父親……。一応いましたがあの男には私の存在などまるで空気と同じだったようです。
私はある人のお陰で十歳まで何とか生き延びることが出来ました」
彼の言葉に心が痛くなる。『生き延びる』という言葉に幸せな子ども時代を想像する事は難しかった。
「それで……?」
「そこからは……まぁ、ジュディー様に聞かせて良い話ではありませんので、止めておきましょう。とにかく……母の事があったので、出産を迎えたキルステン様が心配で……」
「そうだったの……。でも、大丈夫。私もジュディーも元気だから」
私が笑顔を見せても、イライジャは浮かない顔だ。
「前伯爵様も奥様の産後の肥立ちが良くなかった事で、この領地に水準の高い病院をとお考えでした。私はその考えに共感を持ちました。
キルステン様の妊娠が分かった時、『守る』などと言っておきながら、内心、貴女を失うのではないかと怖くて……」
「私を失う事が……?」
「はい……それがとても恐ろしくて……。一体私はどうしてしまったのでしょうか?」
『どうしてしまったのか?』と私に訊かれても……。とりあえず私の中の答えは二択だ。
一つは雇い主が居なくなり、自分の生活に不安を覚えるから。
もう一つは……。いやいや、これを口に出すのは憚られる。まるで私が自意識過剰な女みたいだ。
「さ、さぁ?どうしたのかしらね。でもお母様の事があって、私と重ねてしまった事はよく分かったわ。ところで……どうして三日も姿を見せなかったの?」
「レジーナ様より『産後は疲れているから、暫くそっとしておくように』と。その暫くがどれほどの期間なのか分からず……。は、早すぎましたでしょうか?しかし、どうしてもキルステン様の承諾が必要でー」
「わ、分かった!分かったわ。なるほどね。出産当日は確かに疲労困憊だったけど、一晩ゆっくり休んで、今はもう元気よ。この部屋の中にも飽きてきたし、少しは仕事を……」
「ダメです!!今はジュディー様の側に居てあげて下さい。仕事なら私がやります。ただ、どうしてもこうしてお邪魔してしまう事があるかもしれませんが」
そこまで言うと、ジュディーが急に泣き出してしまった。
途端にオロオロするイライジャ。
「あぁ、泣き出してしまいました。私の声が大きすぎたのかもしれません。申し訳ございません」
「きっと、お腹が空いたのよ。貴方のせいじゃない」
オロオロするイライジャから、ジュディーを預かる。彼はジュディーの居なくなった自分の手のひらを、不思議そうに眺めていた。