霧漂う森
その日、森は霧に包まれていた。樹木神アルブルの本体である大樹のうろから、花のような色をした髪の少女が出てきて、不審そうに辺りを見回す。
その中に、見慣れた白髪の少年を見つけ、花色の少女は声をかけた。
「リアン、今日は天気が悪いのかしら」
「ああ、フェイ、おはよう」
リアンは優しく微笑み、フェイと呼んだ少女に手を差し出した。リアンの手に重ねられたのは、木の枝が絡み合ってできた手である。フェイはアルブルの化身で、木の民のような子である。足も同じように木の枝が絡み合ってできており、肌から直接生えているように見える様は少し痛々しいが、木の民を何人も見てきたリアンはいい加減慣れた。
フェイがリアンの手を借りてうろから出ると、やはり森を白い霧が覆っていた。神木があり、拓けている周辺は見渡せるが、向こうの木々は真っ白に覆われて見えない。地面についた足も少しひやりとする。見れば、腕や足を覆う枝の部分には軽く露が降りていた。
フェイは神木と繋がっているので、天候に関しては覚えていようと思わなくても、すぐに照らし合わせることができる。セフィロートは頻繁に雨が降るわけではないが、植物の実り、人々の営みに支障が出ない程度には降る。ここ数百年、干魃は起きておらず、水害もない。おそらく現代の人々は天候に左右され、食糧に困るという現象すら知らないのではないだろうか。
と、数百年も振り返る必要はない。ここ二、三日を振り返れば、確か、快晴だったはずである。今は寒冷期というわけでもない。
ならば何故霧が、と考えていると、隣からごめんね、という声が聞こえた。そちらを見ると、リアンが申し訳なさそうに微笑んでいた。
「森で異常が起きているのを察知できるように、ダートを張り巡らせる練習をしているんだ」
「ダートを?」
「僕のダートは温度を操るもの。だから、温度を探知することができる。広範囲の温度を把握して、温度変化で人が来たとかわかれば、警戒もしやすいし。霧にしたのは空気の動きも感知できるようになんだ。霧は僕が空気に冷気のダートを当てて作っているから、霧そのものが今は僕のダートみたいなもの。魔法で魔力探知するみたいな感じって言ったらわかるかな」
熟練の魔法使いは魔力を感知することで、どのような人物が来るのか、知り合いならばその人が誰かまで特定することができる。これは魔力量に左右されるものではなく、魔力が少なくとも、相手の力を推し量る技量があればできることだ。
それがダートでも応用できないものか、と今リアンが試しているのがこの霧である。空気中の水蒸気に冷気を当てて水にすることで霧を発生させている。つまりリアンの冷気によって作られた霧に触れれば、誰かがいることがリアンには感知できる。霧であれば誰かがずぶ濡れになったり、極端に冷えたりせず、ほぼ自然現象と思われるため警戒されることが少ない。まだ森への侵入者はいないが、リアンが考えた応用方法は充分通用しそうではあった。
魔法は使えずとも、リアンはダートの扱いに長ける。少なくともリヴァルよりは。それにリアンのダートの使い方は普段から緻密で繊細なため、この方法もさして労力を割かずに行えるだろう。
「すごいね、リアン」
「ありがとう。まあまだ誰も来てないから、本当に使えるかはわからないんだけど──」
そこでリアンの眼差しが鋭くなるのをフェイは感じた。リアンの周りだけ、凍るように研ぎ澄まされていくのがわかる。リアンがこんな表情をするときは、森に侵入者があったときしかない。
そしてその侵入者は大抵、誰なのか決まっているのだ。
「……リアン」
「大丈夫、今日は誰も殺させないから」
待って、とは言えなかった。フェイは戦う力を持たない。森を守るために戦うことはできないのだ。
見送るしかできない。
「そうじゃないの、リアン……」
その言葉は今日も届かない。
ただ、言葉は届いていなくとも、思いは伝わっていた。
リアンは知っている。フェイがどれだけ優しい女の子か。口にはしないが、フェイが見た目の何倍もの時間を生きていることは初めて会ったときから知っていた。その上で、森を司る神木と同化できる感受性。フェイは普通の木の民とは違う。いくらか人間に近い。
あの優しい女の子が、リアンが傷つくのを悲しんでいるのは知っていた。本当は、傷一つなく、侵入者を追い払うことができればいいのだけれど、そう簡単な話ではないのだ。
それならせめて、多少の怪我はしても、無事にあの子のところに帰ろうと思う。それがリアンの戦う理由の一つとなり、リアンが強くあれる理由の一つでもあった。
森を疾走する。侵入者は二人。一人は知らないが、もう一人は確実に知っている。ケセド付近の神木のところから、ケテルの一つ向こうのコクマまでの探知は確実にできるようだ。この方法は使える、とリアンは今後もダートでの探知訓練をすることに決めた。
何故そんなに余裕なのかといえば、リアンが出した霧にはある程度炎避けの効果がある。それは炎の温度を相殺するのもそうだが、今回は水として顕現しているため、炎を消すことができる。ダートとダートのぶつかり合いのため、そう長くは保たないだろうが、いくらかの時間稼ぎになることは確かだ。
懸念事項はリアンの知らない「もう一人」の存在だ。リヴァルと同じ方向から来たように思われるが、同行者だろうか。それともたまたま森に入っただけなのだろうか。ダートだろうと魔力感知だろうと相手の真意までは測れない。魔法使いかもしれないが、魔力感知に関してはリアンの分野ではないため、どのくらいの強さなのかもわからない。
動きがないようなので気にする必要はないか、とリアンは捨て置いた。リヴァルが暴れ始めたのをダート越しに感じ取ったのだ。炎のダートがリアンのダートに激突する。木々を燃やすに至らない原理がわからず、苛立っているのだろう。今日の炎は一段と激しい。
目的地が近づくにつれ、リアンはダートの霧を濃縮していく。リアンが現場に辿り着く頃には、霧は氷の壁となっていた。
相対するは紅蓮の髪と目の少年。幼馴染みで兄弟弟子で、今は敵対しているダートの使い手、リヴァル。
「……リアン……!」
名を呼ぶ声は憎悪に満ちていた。暗い声。こんな声を出す子じゃなかった。そうさせてしまったのは自分だ、とリアンは目を伏せる。
リヴァルには前を向いてもらわなければならない。自分になんて固執しないで、セカイが望む勇者としての役割の方を向いてほしい。
リアンはリヴァルを裏切りたくて森の守護者になったのではない。ソルと契りを交わしたのもこの森を守るためだけ。だから、森の守護を離れたところであれば、ソルと敵対してもいいのだ。リアンがそうしたくないだけで。
リアンはリヴァルの敵になりたくなかった。卑怯だとか臆病だとか罵られても仕方はないと思う。
ただ、リアンは、リヴァルが心に刻んできた小さな傷がじくじくと痛んでどうしようもなくなっただけなのだ。だから逃げた。
その報いがこれだというのなら、リヴァルの気の済むまで向き合うしかないだろう。
「リヴァル」
リアンが名を呼ぶと、返事の代わりに炎の竜が牙を剥いた。