雨の降る日
セフィロートには季節というものがない。
正確にはあるのだが、それは自然が成したものではなく、人々が住みよく暮らせるよう、始まりの十人が魔法をかけたものによるものだった。
始まりの十人が魔法をかけてから、一体どれほどの時が経ったのか、人々に知る術はない。
ただ変わらずに雨が降ること。昔と違い、それは始まりの十人ではなく、森の精霊によって調整されていることをリアンは知っていた。
「今日は雨の日なの」
フェイが樹木神アルブルと話し合って決める雨の日。少しの水魔法を生命の神の加護の力で膨らませ、セフィロートに恵みをもたらす。雨の降る日はセフィロート中に生命の神の力が降るため、魔王軍は大人しくしている。そのため、ソルも今日は森にいた。
始まりの十人が魔法をかけてから、どのくらいの年月が経ったのか、リアンは知らない。だが、旧い言葉が「原語」と呼ばれるくらいの月日が経っていることは知っていた。
古代に栄えた魔法は旧い言葉を唱えるものである。旧い言葉を使う魔法なので「原語魔法」と呼ばれるそれは膨大な魔力量を必要とする代わり、強い効果を得られる魔法だと言われる。
原語魔法の魔法の仕組みは現在の魔法の仕組みとそう変わらない。属性に呼び掛け、命令をするというのが基本だ。ただ、原語が使えるだけでは原語魔法は扱えない。生命の神が生み出した魔力量の少ない人間ではとても使えない魔法であった。
人間の中にも時折膨大な魔力を持つ者が生まれたが、それは何百年に一度くらいの奇跡と呼ばれるほど稀な現象だ。
故に人間は魔族と手を取り合い、魔法の研究を始めた。それはもちろん、魔族側にも利のある研究だった。より効率的な魔法が使えるようになれば、人間も魔族も豊かになる。そのため、人間と魔族は共に魔法の仕組みを解き明かすため、日々を費やし、何故魔法を使うのに膨大な魔力が消費されなければならないのか突き止めた。
理由は原語が神の言葉に近いものだったからである。神は無尽蔵と思えるほどの力を有し、命を生み出し、時には奪う。そんな超常的存在と同等の言葉で力を操るのが原語魔法なのだ。それはとてつもない魔力消費になるのも道理であった。
それから人々は、人々の間で出来上がってきた喋りやすい言葉、つまりは現代語に呪文を変換していき、今の魔法の形がある。神の言葉でなければ身の丈に合ったもので、人間も簡単に魔法を使うことができるようになっていった。魔族も原語から現代語に呪文を切り替えることで、効率よく魔法を使えるようになった。めでたしめでたし。
……と終われば良いのだが、それは効率の良い魔法理論の確立と同時に、原語魔法の衰退の始まりともなった。魔法に原語を使わなくなったことにより、原語が旧い言葉として忘れ去られていったのだ。言葉が忘れられれば、当然呪文も唱えられない。原語は日常生活で使われることもなくなり、「そういう言葉があった」事実が書物にのみ残り、原語の記憶は人々からなくなっていったのだ。
だが、永きを生きる魔族や魔物は覚えていたり、語り継いだりした。それでも話しやすい言語で呪文を唱える方が楽であるため、原語魔法の使い手は減る一方となる。
それが、争いの時代、原語魔法をセカイに思い出させた。
原語魔法は魔力消費が激しく、扱いが難しい。だが、それを以てして余りあるほどに強力だ。
強い力は都市をただの一撃で滅ぼした。
そんな恐ろしい力が、原語魔法である。魔王軍の一人、アルシェが原語魔法で一都市を滅ぼしたことはあまりにも有名な話だ。人々はその脅威を恐れると共に、自分たちが原語魔法に立ち向かう方法がないか、日夜研究を続けている。
「イル・プルート」
フェイの唱えたそれは、間違いなく原語魔法だ。ふわり、とフェイの花色の髪が風に揺らめき、樹木神アルブルの大樹から放たれた光の粒たちを自らの体の中に集め、すう、と腕を天に上げることで、空へと導く。フェイの導きと呪文に従った光たちが空へふわり、ふわり、と浮かんでいく様は、何度見ても幻想的で綺麗だ。森の命の煌めきが、やがて透明な粒になり、細かく散らばる。それらは雲へと姿を変えていった。
原語魔法は恐ろしいものばかりではない。そもそも神に近しい言葉、近しい力なのである。生命の神に連なる樹木神と繋がったフェイがもたらすのは、生命に恵みを与えるためのものだ。作物が育つよう、人が生きるよう、セカイ中に雨を降らせる魔法である。
リアンは普通に生きていれば知らなかったであろう神秘の光景を目にするたびに、生きていてよかった、と少しだけ思うことができる。セカイを裏切っていて、勝手なことかもしれないけれど、今日もセカイがこうして紡がれているのだと思うと安心するのだ。
フロンティエール大森林は不可侵とされていて、そのため、魔王軍が蔓延る今のセカイでもフロンティエール大森林の中は戦火の気配なく、森向こうが侵攻されることもなく、過ごしている。
森を越えることはできるが、軍隊となると、森の守護者のアミドソルと森に住まう重鎮のグランシェーブルの許可を得なければならない。アミドソルは魔物なので、魔王軍に取り込むことができたが、魔物や魔族ではない獣人族のグランシェーブルから許可を得るのは難しいだろう。
とは言っても、実は魔王軍が軍隊で乗り込む必要はないのだ。魔王四天王と呼ばれる四人は一騎当千の実力者である。原語魔法で都市を滅ぼしたアルシェを始め、原語魔法も扱え、ありとあらゆる魔法に長けたサージュ、その剣だけで数えきれぬほどの人々を倒し、都市を滅ぼしたシュバリエ、土の民固有の魔法を駆使すれば、土の民の軍隊をどこにでも移動できるアミドソル、ととんでもない者が揃い踏み。
正直、魔王四天王だけでセカイは滅ぼせそうである。それをしないのは、何かしらの目論見があるからだろうとリアンは見ているが、ソルにそれを聞くつもりはない。リアンはこの森さえ守れればよかった。
雲がセカイ中に広がっていく魔法。きっと、今日は雨の日だと気づいた者も多くいるだろう。もうすぐ、雨が降る。
そう思ってリアンが空を眺めていた、そのときだった。
「あああっ!!」
雲が炎の竜によって切り裂かれた。魔法を使っていたフェイは袈裟懸けに切られたように血を噴き出し、倒れる。リアンからさっと血の気が引いた。
「フェイ!!」
リアンとソルが駆け寄る。フェイは気を失っているが、魔法を完成させるために魔力が放出されているのは、リアンでもわかった。これは神の魔法なのだ。破られてはならない。譬、媒介となる器が壊れても。
フェイの体から光の粒が放出されていく。それの意味するところを理解し、ソルは少ない顔のパーツで驚愕と恐怖を彩る。リアンを振り仰いだ。
「リアン、このままだとフェイの命が危ねえだ。おらはアルブル様のうろにフェイを避難させる。リアンは……」
リアンを見て、ソルはないはずの心臓がどくどくと鳴るのを感じるようにぞっとした。
リアンの目に光はなかった。ただ、そこにあるのは絶望ではない。普段の心優しいリアンからは想像もできないほどの暗く淀んだ感情。怒りを越えた憎悪。きっと普段から抑えてきたのであろう悲しみや切なさも入り交じった複雑怪奇で一言だけではとても表現しきれない感情がリアンの体から噴き出すように感じられた。それがリアンのダートとして、その場を冷却していく。
炎の竜。正体はすぐにわかった。リアンだからこそわかってしまった。あれは魔法ではないから。
「……ソル、フェイの止血だけしてもいい?」
「あ、ああ」
リアンはフェイの傷口を凍らせた。フェイの額に軽く触れ、今度は温みを与える。
「ソル、フェイをお願い。僕は行ってくるよ。……ごめん」
「リアン」
ソルが呼び止めるも、リアンは立ち止まるだけで振り向きはしない。
ソルは簡潔に伝えた。
「今回は許さなくていいだ」
小さく頷きが返ってくる。それからその背中はあっという間にどこかへ消えてしまった。
ソルはフェイをアルブルの中へ運び入れながら、一人苦々しく呟く。
「ごめんって、何がだよ……リアン」
空は曇りのまま、停滞していた。