8話 PP
「ねぇ、普通って何?」
「え……」
虚ろな目をしていると思った。こんな津川先輩の顔は、今まで見たことがない。
「男は女を好きになって、女は男を好きになることが普通なの? 常識なの?」
「いえ、そんなことは……」
「私は今まで男の人を好きになったことがない。ずっと昔から女の人に惹かれて、女の人が好きだって自覚もある。普通じゃないってこと? おかしいのかな? 私って異常なの?」
「えっと……」
「じゃあ私は正常?」
上手く考えがまとまらず言葉に詰まる。なんでもいいから返事をしないといけない。そう思っているのに言葉が見つからない。頭が回っていないか。思考が空回りしている。
「あの子は、小さい頃からの友達。そして好きな人だった。初めて会った時からずっと好きだった。だけど、好きなんて言えなかった。嫌われると思ったから。それでも自分の気持ちに嘘はつけないから。ずっと想い続けていた。でもある時、知られてしまった」
虚ろな目のまま、表情一つ変えず、淡々と語る先輩。
「真実ちゃんには、前に話したよね。中学校の生徒手帳のカバー裏に写真を入れる話」
「はい……」
「あれには、写真を見せ合う以外にもう一つ意味があるの。何か分かる?」
僕は首を横に振った。
「好きな人の写真を入れておいて、その人といつまでもずっと一緒にいられますようにという『おまじない』。私はすぐにあの子の写真を撮って生徒手帳に大切に仕舞った」
もういいですよ先輩。
辛い過去なら話さなくていい。
話したくなければ話さなくていい。
自分自身を傷つける言葉なんて口にしなくていい。
「生徒手帳に入っていた写真を見られて、あの子は勘が鋭いからすぐに気がついた。ずっと隠してきた秘密。あの子への想い。私の気持ち。それが中学三年の冬に全部知られちゃったの」
「でもあの人は、先輩のことを嫌っていないように見えましたよ」
「うん。あの子は本当に優しい。私のことを普通じゃないと思っていても、今まで通り接してくれた。けれど、愛してもくれなかった。そのかわりあの子は、一枚の写真をくれたの」
「写真て……あの男性アイドルの写真ですか?」
しかし、女の子が好きな先輩に男性アイドルの写真を渡す。どういう意図があるのだろう。そういえば先輩は、あの写真をお守りとも言っていたけれど。
まさか……。
「これからは、この写真を見て男の人を好きになれるよう努力しようね、って言われちゃった」
お守りとは、そういう意味だったのか。なんて善意に満ちあふれた残酷なお守りだ。
「笑えません」
思わず言ってしまった。言わずにはいられなかった。
「あのね、【ズレ】ちゃんていう呼び名もあの子が付けてくれたの」
「どうしてそんな……」
自らの口で自身のレッテルを言葉にする行為。
それがどんなに辛く苦しいことなのか、僕には分かる。
「他の子たちには分からないけれど、あの子と私だけが意味を知っている秘密の呼び名」
だから先輩は、地元の高校ではなく、わざわざ隣の市の秋功学園を選んだのか。
あの人の姿を見るのが辛いから。
あの人の声を聞くたびに悩んでしまうから。
あの人といっしょにいるのが苦しいから。
「ねぇ知ってる? 異性愛者のことをノーマル、同性愛者をアブノーマルって言うんだよ」
「……」
書店で上の空だった理由がなんとなく分かった。
先輩は、着ぐるみのキャラを見ていたのではない。近くにいた子どもを見ていたのだろう。同性愛者の自分では、子どもが産めないとでも考えていたのか。この少子化のご時世に未来の子どものことまで悩む必要なんてないのに。
「ノーマル、正常。アブノーマル、異常。やっぱり同性愛者は、異常なのかな」
「……」
僕のことを妹扱いして、ちゃん付けで呼ぶ理由もようやく分かった。
今でもお守りを大事に持っているように、彼女なりに男性を受け入れようと努力したのだ。しかし、同年代の男では難しかったのだろう。だから、先輩と慕ってくる男の後輩を妹として扱い、徐々に慣れようとしたのではないか。食べ物の好き嫌いではないのだから、無理に人を好きになろうとしなくて良いのに。
「お守り、意味なかったなぁ。これまでの努力も、無駄になっちゃった」
「……」
わざわざ休日に僕を呼び出して遠出したのもそういうことなのだろう。
図書委員会の仕事なのだから、本来なら放課後に市内の書店に行けば済む話だ。エスコートよろしくなんて……前もって言ってくれたらもっと色々準備をしたのに。
「ごめんね、真実ちゃん。今まで無理に付き合わせちゃって……」
「……」
ダメだ。上手く笑顔を作ることができない。
「おい真実! 何でもいいから声をかけろ! このままだとまずい!」
幽霊の言う通りだ。何でもいい。津川先輩を元気にさせられる言葉をかけるべきだ。
「協力するって言っただろ! 黒い影がどんどん大きくなっているんだ! 早く!」
ダメだ。かける言葉が見つからない。というよりも、口が開いてくれない。
「今日は、もう帰るね。今まで付き合わせてごめんなさい。さようなら……真実ちゃん」
虚ろな目をした先輩が手を振って去っていく。背中の文字は、太く大きく書かれている。
このまま行かせていいわけがない。だが、レッテルを見ると足がすくんでしまう。
あれはもう過去のことだ。あの時と今は違う。だが、失敗してしまったら……。
「仕方ない。ポルターガイストポイント、PPを消費するか」
こんな時に何を言っているんだ、こいつは。
「真実! 体を借りるぜぇ!」
悪ふざけをしている場合じゃないだろ、と言ったつもりが、言葉になっていなかった。それどころか口も開いていない。いつの間にか、すくんで動かなかった足がその場で足踏みをしている。しかし、何かおかしい。僕は足踏みをしようなんてこれっぽっちも思っていないのに。
「おっ成功したか。人間、ベストを尽くせばやれるもんだな。ま、俺は幽霊だけど」
僕が口を開いてしゃべった。
いや違う。僕の中にいるあいつがしゃべっているのだ。まさかこれは、憑依された?
「その通り! 説明しよう! 今の俺とお前は、一心同体という状態にあるのだ!」
どういう構造か分からないけど、僕の考えたことはそのままあいつに伝わるらしい。
「メガネちゃんへの熱い想いも、俺への敬意もビンビン伝わってくるぜ!」
気持ちが悪い。先輩への想いはともかく、お前のことなんてこれっぽっちも考えていない。それより早く先輩のもとへ行ってくれ。頼む。先輩を助けてくれ!
「ラジャー了解!」
なんだか締まらない。だが、レッテルを見るとすくんでしまう今の僕では力不足だ。こいつの力を頼らざるを得ない。不本意ながら。極めて不本意ながら。
「不本意ながら、じゃねぇ!」
不思議だ。僕は走っていないのに見える風景がどんどん変わる。その視界は揺れている。
ようやく視界に津川先輩を捉え、その腕を捕えた。
「痛いよ。真実ちゃん」
「はぁ……はぁ……ちょ、ちょっと待って……」
やはり締まらない。二十歳半ばの男の幽霊が他人の肉体を借りて全力疾走した結果がこれか。
「し、仕方ないだろ。はぁ……は、初めてなんだから」
なおも幽霊は、情けない台詞と息を吐き続ける。
「お願いだから手を離して。ね?」
虚ろな目をした津川先輩が寂しそうに笑う。
そんな顔は見たくない。僕は笑顔が見たいのだ。
さあ幽霊。僕の考えを代弁してくれ。
「お前が正常か異常かどうかなんて知らねぇよ!」
おい。
「そもそも正常か異常かなんて、誰が決めるのか。いや、誰にも決められるわけがない!」
何を言っているんだ。僕はそんなことを考えた覚えはないぞ。
「えっと、真実ちゃん?」
なおも僕の考えを無視して幽霊自身の考えを伝える。
「男が男を好きでも、女が女を好きでもいいだろ。それの何がいけないんだよ!」
「いけないことではないよ。でも同性同士では……結婚できないでしょ?」
「いいじゃねぇか。男だろうが女だろうが、好きな者同士いっしょになった方が幸せだろ!」
「ダメだよ。それじゃダメなの。それじゃ幸せになることができないんだよ……」
先輩の声は震えている。
「悪い。PP切れだ。あとは任せたぞ、真実」
ちょっと待て幽霊。僕の言いたいことを全然伝えられていないぞ。それからPPって何だ!
次の瞬間、僕の意識や感覚が全て戻ってきた。全速力で走った後のように呼吸が辛い。また、足の痛みもある。何より全身が痛くて重い。意識していないと倒れてしまいそうだ。それでも、先輩の細い腕をつかむ手だけは力を抜けない。
やはり幽霊に助けてもらうのはダメだ。深呼吸してから伝えたいことを頭の中で整理する。先輩を救うのは後輩の役目だから。やはり僕の口から自分の言葉で伝えないと意味がない。
「津川先輩は、結婚したいですか?」
「したい。好きな人と結婚式を挙げたい。ウエディングドレスを着たい。新婚旅行も行きたい。好きな人との子どもが欲しい。だけど、私じゃ無理だよ。男の人を愛せないんだから」
「はい。この国では男同士や女同士の同性婚が認められていないから先輩は結婚できません。でも、一部地域なら同性パートナーシップ制度を受けられます。それは、知っていますか?」
先輩はコクリと頷いた。それから周りを気にして小声で説明してくれた。
「法律上夫婦とは認められなくても、証明書を持てば同性同士でも婚姻に準ずる関係、事実婚状態として認められる制度でしょ。例えば、生命保険の受取人としてパートナーを選ぶことができるようになって、病院に入院した時にも家族として面会ができるようになるって」
「その通りです。やはりお詳しいですね。これもある種の結婚ではありませんか?」
恋する乙女は正直だ。お守りなんて持っていても自分の想いは曲げられないのだ。
「もしもそれが嫌なら同性婚を認めている外国で結婚すればいいじゃないですか。海外には、同性愛者のみが暮らす町もあるそうですよ。あ、もし結婚するなら式には呼んでくださいね」
先輩が微かに笑ったように見えた。けれども、その顔にはまだ暗さが残っている。
「でも、同性同士だと子どもができないよ」
「それなら人口受精して産むという方法がありますよ。男性の精子が必要になるので、パートナーとの子どもとは思えないかもしれません。でも、血の繋がりだけが家族ではないですから」
血が繋がっていても家族と思いたくない時がある。だが、それは今話すことではない。
「聞いているだけで股間が熱くなる話だな」
役立たずの幽霊が茶々を入れてきた。こいつを懲らしめるのも今することではない。
「ねぇ真実ちゃん。もし私が女の人と結婚すると言っても……お祝いしてくれる?」
「もちろんですよ。先輩の幸せを祝うのが後輩の役目ですから」
それを聞いた彼女は、小さく笑った。今度は気のせいではない。良かった。少しずつでも元気を取り戻している。背中のレッテルは見えないが、このまま説得を続ければ大丈夫だろう。しかし、隣に浮かぶ幽霊の顔色は暗いままだ。
「まずいな。まだ黒い影が大きいままだ。今も少しずつ大きくなっているぞ」
彼が苦々しくつぶやいた言葉に耳を疑う。
なぜだ。彼女の表情とは裏腹に、黒い影はまだ大きくなっているというのか。だとすると、レッテルの文字も太く大きいままか。どうやらまだ悩みを抱えているらしい。
「家族はどうかな。新婦が二人の結婚式に出席してくれるかな。心から祝ってくれるかな」
津川先輩が俯きながら話す。まるで自分に問いかけているかのようだ。
「私の家族は悲しむと思う。両親がよく言うんだ。結婚したら義理の息子と酒が飲みたいとか孫が生まれたら可愛いだろうとか。でも同性愛者の私では、その願いを叶えてあげられない。親不孝な娘だよね。これじゃあ祝ってもらえるわけないし、幸せになれないよね」
彼女の声と表情には、憂いと諦めの感情が込められていた。
先輩が異性を好きになろうと努力し、異性との結婚にこだわる理由がようやく分かった。
「それなら祝ってもらえるかどうか、先輩がご両親に……」
言いかけてすぐに止める。今、何を言おうとした。危うく残酷な言葉を吐くところだった。同性愛者であることを打ち明けてみればいいなんて、他人が軽々しく言っていいものではない。秘密を明かすことがどれだけ勇気のいることか。どれだけ恐怖を感じることか。それは、自分がよく分かっているではないか。
僕は自分の愚かさを呪った。途端にまた口が開かなくなり、手の力が少しずつ抜けていく。皆の言う通り、僕は【無能】だ。それなのに先輩を救おうなんて大口を叩いていたのだから、笑えない。自分で自分を呪って勝手に自滅しているところも笑えない。
「諦めたらそこで人生終了だぞ。お前は、あの子を笑わせたいんじゃなかったのかよ!」
ハッとして振り返るが、いつの間にか幽霊の姿はない。
だが、姿なき者の応援は確かに届いた。