28話 成仏
「冥土の土産に、お前のレッテルを当ててやろうか」
「レッテル? 生身の人間じゃあるまいし、幽霊にそんなものあるのかよ」
「あるよ。僕も最初は信じられなかった。だけど、今ならハッキリと分かる」
「いいぜ。お前の推理を聞かせてみろよ」
推理というほどの物ではない。
なぜなら答えは、最初からこいつが出しているのだから。
「初めて会った時、お前は自分をこう呼べと言ったけど、覚えているか?」
「ああ」
「それがお前のレッテルだよ」
「ああ、そうか。そういうことか……」
幽霊は、俯いてその場に座り込んだ。その表情は見えないけれど、何となく察する。
「記憶をなくしているのは本当かもしれないけれど、無意識のうちに出たんだろう」
幽霊は何も言わない。
だが僕は話す。聞きたくなくても話してやる。
「最初はそうだと思わなかった。だけど、今までの行動や言動でも気になるところがあった」
雪森先生の郷土史研究の副業が公務員の副業にあたらないと指摘したこと。秋功学園のクラス分けや授業カリキュラムに興味を示したこと。教師のことをわざわざ教諭と呼んでいたこと。背後霊は背中を取られると成仏すると嘘をついていたこと。背中を見せないように過ごしていたこと。幽霊のレッテルを言うたび、彼が姿を見せなくなること。全て伝えた。
「それからさっき教育に暴力を持ちこむなと熱く語ったり僕のことを生徒と言ったりしたから」
「ああ、クソ。俺はバカか。それともアホか。バレバレじゃねぇか。気づかない方がおかしい」
幽霊は顔を隠したまま悔しそうに毒づく。
本当は、昨日洗面所で姿を現した時、浴室の鏡に彼の背中が見えていたから。だがそれは、黙っておくことにした。そのことを伝えたら恥ずかしくてすぐにでも成仏しかねないから。
「生前の記憶、思い出したんだな。自分探しの旅は、いつ頃終わったんだ?」
「つい最近だ。ふかふかちゃんを救った翌日。洗面所でお前に呼ばれて消えた時だな」
「消えている間、お前はどこにいたんだよ」
「近くにはいた。だが、俺自身が黒い影に覆われて姿を現せなかった。やはり黒い影は、その人間の心の傷やストレス、後悔や未練なんだろうな」
生身の人間ならストレスを抱えすぎて精神を病んだり、引きこもったり、自傷行為に走ったり、最悪の場合は死を選んでいたかもしれない。そう考えると、黒い影に全身を包まれた蒲原は、かなり危なかったということか。そして幽霊がレッテルを大丈夫だったのは、すでにこいつが死んでいるからか。
「俺が幽霊じゃなかったら、今頃黒い影に包まれて死んでいたかもな」
僕が考えていたことと全く同じことを言うので思わず笑ってしまう。いてて、傷口が……。
「幽霊は秋功学園の教師だったの? それか秋葉市内のどこかの高校の教師?」
「秋葉市なんて町は聞いたことがない。それに俺は、正確には教員ではないんだ」
どういうことだろう。彼の背中に貼られたレッテルには、確かに……。
「半分正解で半分不正解。生前の俺は、正規採用の教員を目指していた高校講師だった。でも、まさかそれがレッテルになるとは、思いもしなかったぜ」
幽霊が顔をあげる。その表情は、初めて見たと言えるほど悲しげだった。
「子どもの頃からずっと教員に憧れていた。子どもに勉強を教え、夢や希望を与えられるような教員になりたいと思って努力し続けた。大学も教育学部に進学して教育実習にも行った」
とても懐かしそうに話しているのに、表情は悲しげなままだ。
「だけど、大学卒業時の教員採用試験には落ちた。倍率が高い試験だ。初回で合格する奴は、ほとんどいない。何度も受ける奴の方が多い。それでも大学を卒業すれば教員免許は持てるから、どこかの学校で講師をやりながらまた来年受ければいい。そう思っていた」
声にも悲しみの感情が帯び始めている。僕は、黙って彼の話に耳を傾ける。
「この国は、どこも子どもが減っている。子どもが減れば学校の生徒数も減る。そうなれば一学年のクラスの数も減る。クラスが減ればクラス担任の教諭も減る。そうなれば当然、採用する教員の数も減らすよな。だけど教員は、いつの時代も人気のある職業だ。志望者は、たくさんいる。だから正規採用の教員の枠が減ったのに、講師の枠も減らないわけがないよな……」
「じゃあ幽霊は、講師にすらなれなかったの?」
幽霊は弱々しく首を横に振る。
「非常勤だが、公立高校の講師の枠をなんとか見つけた。でも、正規の教諭ではないから給料も待遇も良くない。一年契約で次があるかも分からない。だから、空いた時間に家庭教師のアルバイトもしていた。非常勤の高校講師は、副業が認められているからな。将来への不安と日々の忙しさに襲われながら毎日必死に働いて、気づけば二度目の教員採用試験が迫っていた」
彼の体がまた薄くなった気がする。けれど顔色だけは、とても悪いように見える。
「二度目の試験もダメだった。だが、同じ高校でまた講師として勤められることになって少しホッとした。それ以上に大きな不安が襲ってきた。この先、ずっと試験に受からなかったらどうしようか。三十代、四十代、下手したら五十代になっても講師をやっている人もいる世界だ。おまけに結婚して子どもまで作った人もいる。すごいわ、本当に。俺には、できない」
幽霊から嗚咽の声が漏れる。
「次こそは、と思って仕事に励んでいる時、一本の連絡が入った。大学時代の友達からだった。話を聞いていたら、正規採用の教員として働いていた同じ大学の友人が亡くなったって……」
僕は何と声をかけたら良いか分からなかった。
「子どもが減っても教員のやることは減らない。朝早くから出勤して夜遅くまで残って仕事する。終わらなかったら家に持ち帰って仕事する。それ以外にも教員同士の研究会に参加したり他校の授業を見るために出張したり。休日も仕事をするためや部活動の監督をするために学校に行くことがある。それでも給与は高くない。むしろ仕事量を考えれば安いだろうな。残業代なんてないし、休日出勤手当もついていない。公務員は退職金が期待できる、福利厚生が良い、職務手当が良い。現場を知らない奴がよく言うぜ。そんなもん、どこにあるんだよ……」
「もしかして、そのお友達は……過労死したの?」
幽霊が口を閉ざした。
しばらく沈黙が続き、ポツリと言った。
「自殺だ」
言葉が出なかった。それでも幽霊は、淡々とした口調で話を続ける。
「あいつは、大学を卒業する年の教員採用試験に一発合格。すごいと思った。同時に、がんばってほしいとも思った。そいつも昔から教員になるのが夢で、子どもが好きで、ずっと努力し続けてきた奴だから。でも、卒業してからは一度も会っていなかった。そいつが忙しいのは当然だし、俺も忙しかったからな。だけど、会っておけば良かったなぁ。ああ、クソ……」
やり場のない怒りと後悔を込めた握り拳で床を叩く。だが、それもすり抜けてしまった。
「葬式で見たあいつは、静かに眠っているように見えた。ご両親は泣いていたよ。そりゃそうだよな。昔からの夢だった教員になって喜んでいた息子が、その次の年に自殺したんだから」
「その人は、遺書を遺していなかったの。それか病院に通っていなかった?」
自殺の原因が学校側にあれば訴えることができる。例えば、仕事量は適正だったのか、執拗ないじめにあっていなかったか、労働時間をしっかり把握していたのか。もし学校側に落ち度があるなら、いくらかの慰謝料を請求することだってできるはずだ。だが彼は、何も言わない。
「あいつは真面目で努力家。一人で何でもできる奴だった。だけど、悩みやストレスも一人で抱え込んでしまったのが間違いだったんだ。だから、誰の意見も聞かずに最悪の選択をした」
確かにそれは、最悪の選択としか言いようがない。
「葬式の帰り道、友人が勤めていた高校の校長といっしょになって話した。亡くなって非常に残念だ。彼には期待していた。色々勉強できるよう指導していた。でも、最後に言われたよ。今の若者は弱すぎる。この程度のことで心を病んで死んでしまうなら教員は務まらない、と」
その心ない言葉が事実だとしたらゾッとする。それが教育者の言葉なのか、と耳を疑う。
「だけど俺は、怒る気にもなれなかった。体も心も疲れていたんだろうな。気づけば家に帰って翌日の授業の準備をしていた。その時初めて自分が恐ろしいと思ったよ」
教師になることができなかった悔しさ、多忙な毎日、将来への不安、友人の死、先輩教育者の心ない言葉、教師という職業の実態。それらが合わさった物が彼にとっての黒い影か。
「死ぬほど努力しないと就けないのに、就いたら死にそうになるほど働かされて、死んだら罵倒されるって何だよ。教員の仕事って何のためにあるんだよ。なあ、誰か教えてくれよ……」
また少し幽霊の姿が薄くなった。ここで言わないともう会えない。ならば言おう。
「教師が大変というのは、僕も聞いたことがある。けれど僕には、その大変さが分からない。僕は、ただの高校生で教師ではないから。亡くなったご友人も何が辛くて死んでしまったのか分からない。それでも彼は、生徒達にとって良き教師であろうと思っていたんじゃないかな」
「はっ。会ったことも話したこともないお前に……どうしてそんなことが分かるんだよ」
幽霊が虚ろな目をこちらに向ける。僕は、そんな目を今まで何度も見てきた。
「分かるよ。真面目で努力家な人だというなら、きっと良い教師になろうとがんばったはずだ。そんな彼を慕っていた多くの生徒さんは、彼を偲んで葬式に参列したんじゃないかな」
浮かない表情をしていた幽霊の顔が、ほんの少しだけ明るくなる。
「世の中には、たくさんの業種職種がある、それぞれ違った仕事をこなしている人達がいる。そして人それぞれ仕事をする目的が違う。金のため、人のため、世のため、家族のため、それぞれの目的のためにがんばる。おそらくご友人は、生徒のために頑張っていたんだよ」
「だからって死んだら意味ないだろうが、あのバカッ!」
幽霊は涙声で怒った。あの世にいるご友人に、その声は届いたかな。届くと良いな。
「でもその努力は、決して無駄ではないよ。慕ってくれる生徒がいたということは、それだけ良い教師だったということだろ。なら、その人達の心の中に生き続けることにならないかな」
我ながら無理のある論理だと思った。けれど、消えゆく幽霊には効果があるようだった。
「はっ。臭い台詞を吐きやがって。だけど葬式で泣いている生徒達を見たら、あいつは立派に教員をやっていたんだなぁと思ったよ。教員になれなかった俺には、関係ない話だけどな」
そう言う幽霊の台詞も臭いと思った。だが、時にはこういうのも良いかもしれない。
「確かにお前は教師ではない。それでも僕にとっては……最高の【先生】だったよ」
僕は、できる限りの笑顔を作ってそう言った。
「真実……」
幽霊が泣きそうな顔をしている。だが、すぐに真面目な表情に変わる。
「さてはお前、このタイミングを狙っていただろ。そんなに俺を成仏させたかったのか!」
チッ。バレたか。だが、ほとんど消えかかっている。こうなればもうすぐ成仏するだろう。
「未練たらたらで現世に残られたら僕が困るんだ! さっさと逝ってしまえ!」
幽霊は、意地でも残ると息巻いていたが、時間が経つにつれて足元からどんどん消えていく。
僕は、最後に何か言い遺すことがないかと尋ねる。
「来世でもたくさんの女子高生に会いたい。できればブレザー姿のおっぱい大きい子」
そう言うと幽霊は、パッと消えてしまった。全くこいつは、最初から最後まで下半身で思考する奴だった。バカは死んでも治らないと証明しているようなものだ。
「笑えない。本当に笑えない。ああ、笑えない。笑えないんだよ、ったく」
そう言いながら僕は、どんな顔をすれば良いか分からなくなった。
気づけば僕は、いつの間にか眠っていたようだ。
全身傷だらけでひどく痛むのに、よく寝られたものだと我ながら感心する。
だがそれは、あの幽霊が喜びそうな枕のおかげかもしれない。
「おはよう、あかね」
膝枕してくれていた女の子に声をかける。その瞬間、彼女がビクンと反応する。
「お、お、おは、おはよ、おは、おは、よう、ございます」
無理もない。全身血だらけで倒れていた人間が急に起きたらビックリするだろう。
「落ち着いて。僕は、大丈夫だから」
そう言って何とかあかねを落ち着かせる。目を見れば、僕が眠っていた間にどれほど涙を流したのかよく分かった。また彼女に辛い思いをさせてしまったようだ。
「あかね。気づいてあげられなくてごめん」
先に僕が謝った。今回の件で彼女に落ち度なんて一つもないのだから。
「家でも学校でも、大丈夫か、と話しかけたのは、助けを求めていたからだよね。それなのに、見て見ぬふりをしてごめん。約束を破ったなんて言ってごめん」
僕は何度も謝る。膝枕されながら謝るなんて失礼だけど、ここで動いたら傷口がさらに開いてしまいそうで怖い。あかねは何も言わず、また涙を流し始める。
「昔から母親に言われていたんだろう。人に助けを求めてはいけないって。だから、ハッキリと助けを呼ぶことをできなかった。そうでしょ?」
彼女は、涙を流したまま頷く。深く、何度も、頷く。
やはり【魔女】の仕業か。
「でも、もう大丈夫だよ。悪い【魔女】は、僕が追い出したから。もう心配いらないよ」
やけにあっさりと退いたことは気がかりだが、おそらく問題ないはずだ。
「真実、さん……。わ、わたしは、ここに、いられ、ない……ですか?」
「あかねは、どうしたいの」
「私は、ここに、いたい、です。真実さんに、お仕え、したいです。恩返し、したい、です」
涙声で途切れながらもしっかりと自分の意見を出した。僕は、それを聞いて笑顔になった。
「あかねは、ずっとここにいていいよ。でも、恩返しなんてしなくていいから」
「でも、その、傷。わた、しの、せい、ですよね」
そう言って血まみれの体を指さした。先ほどよりも酷くなっている気がする。
「すみません……。本当にすみません……」
何度も謝るあかねを制止させる言葉を探す。そして見つけた。
「お揃いの傷だね。いざとなったら舐めて治してよ。あかねの傷は、僕が舐めて治すから」
なんて言葉を選んだんだ。きっとこれは、変態幽霊に憑かれていたせいだ、と言い訳する。
だが彼女は、驚いて謝るのをやめてくれた。それから恥ずかしそうにしながら頷いた。
「出来たばかりの傷は綺麗だね。まるで秋の紅葉のように美しい」
僕は笑顔を作ってそう言った。だが、その言葉に嘘はない。




