25話 退治
階段をゆっくりと上がってくる音が聞こえてくる。ようやく彼女も準備が整ったようだ。
「コーヒーをお持ちしました」
お盆にコーヒーカップを一つ載せて部屋に入ってくる。僕は体をそちらに向けて謝る。
「先ほどは、怒鳴ってしまってすみませんでした」
「いいえ。真実さんのおっしゃる通りです。もっと早くに言うべきでした。すみません」
「コーヒーいただきます」
カップの持ち手をしっかりと握り、ゆっくりと口元に持っていく。カップの縁に唇をつけたところで幽霊に耳打ちされた。それを聞いた僕は、飲んだふりをしてカップを机に戻す。
「あ、れ……」
視界がぼやける。そう思った途端に体の自由が効かなくなった。急に眠気が襲ってきて、まぶたが重い。頭が左に右に揺れ、最後には、あかねが眠っている布団に崩れ落ちる。
起きないと。そう思っても体は、言うことを聞いてくれない。
そのうち抗いようのないほどの睡魔が襲ってくる。
それから自然とまぶたが落ちていく。そして完全に閉じてしまった。
暗闇の中で僕は、絶対に聞き逃すまいと耳を澄ます。
「自分から来るなんてバカな人。また、あかねを助けてもらうわよ」
それが聞けて良かった。少なくとも、あかねを助ける方法があると分かれば十分だ。
「【魔女】」
目を開けた僕は、あかねの母親、お手伝いさんのレッテルをハッキリと告げる。
「え?」
彼女はひどく困惑している。まさか僕が起きるとは、少しも思っていなかったのだろう。
「どうしてあなたがそう呼ばれているのか、ようやく分かりましたよ」
「え、真実さん、なぜ。どうして、あの、どうなさったんですか」
「ここからが本番だ。気を抜くなよ、真実」
幽霊の言葉に、僕はしっかりと頷いてみせた。
さあ、【魔女】退治を始めよう――。
「何をおっしゃっているのか、よく分かりませんが……」
今さら取り繕っても遅い。僕は起き上がって【魔女】と対峙する。
「急で申し訳ありませんが、この家から出て行ってください。あなたを解雇します」
彼女は、突然の解雇宣告に動揺して言葉を失っている。だが、すぐに口を開いた。
「突然、何をおっしゃるんですか? 解雇とは、どういうことですか?」
「家政婦としては有能だったので非常に残念です。職務だけを全うしていれば良かったのに」
家政婦が目撃者ではなく当事者になったら終わりなのだ。
「私は、これまで仕事を真面目にやってきました。どうして辞めなければいけないんですか。それに今は、そんなことよりもあかねのことを考えないと。悪ふざけならやめてください」
「悪ふざけではありません。それに、あかねさんのことを想うなら尚更です。『おまじない』で縛ることはもうやめてください。それを使うことは彼女の役目ではありません」
【魔女】がまた言葉を失った。今度は、すぐに口を開くことができないほど動揺している。僕はあかねの方に目を向けながら話す。
「母親のあなたならご存知ですよね。あかねさんの能力のことを」
「能力? 何のことですか?」
【魔女】は間髪入れずに返答してくる。声は落ち着いているけれど、口元がほんの少しだけ歪んだのを見逃さなかった。
「ご存じないなら教えてあげますよ。あかねさんは、人の心の傷を知ることができるんです。そして心の傷を自分が吸収することで傷を治し癒せる。とても便利な能力ですよ」
「真実さん。いい加減にしてください。何をおっしゃっているんですか」
言葉のわりにあまり怒っているようには見えない。むしろ動揺しているように見える。
「しかし、その便利な能力にも代償があるんです。能力を使えば使うほど体に傷がつくんです。あかねさんの全身に付いている傷痕はご存知ですよね? 刃物で切ったような傷痕です」
知らないとは言わせない。小学生の頃から彼女の腕には、痛々しいほど大量の傷があった。いっしょに暮らしている親なら気づかないはずがない。
「普通に生活していたらあんな傷はつかない。それこそ虐待でもされていない限りは」
「虐待なんてしていないわ! 失礼よ!」
今度は本気で怒っていることが分かる。良かった。代償の傷と見せかけて、一部虐待の傷跡もあるのではないかと疑っていたから。虐待されていた可能性は薄そうだ。
「いいわ。認めます。あの子には昔から特別な能力があると知っていましたよ。その代償もね」
【魔女】は一転してあかねの能力をあっさり認めた。どうやら自分が不利だと察したらしい。
「私があの子の能力を知ったのは、小学校に入学する前のことです」
少し驚く。奇しくもそれは、僕が自分の能力に気づいたのと同じ頃だったから。
「当時は夫があの子をお風呂に入れていました。赤ん坊の頃からどんな時でも自分が入れると言っていましたから。その時は、娘想いの優しくて良い父親だと、そう思っていました」
【魔女】は昔を懐かしむような語り口で話し始める。僕は、何も言わずに黙って聞く。
「だけど、ある時からあの子のお腹に小さな傷が付き始めました。刃物で切ったような小さな傷です。夫に尋ねると、あかねが爪で引っ掻いたんじゃないか、と言って取り合ってくれません。怪しいと思った私は、夫とあの子がお風呂に入った時、こっそり浴室を覗いてみたんです」
「そこで旦那さんがあかねさんに能力を使わせているところを見たんですか?」
僕は家族の楽しい思い出を聞きたいわけではない。さっさと能力と傷痕の真相を聞きたい。
「はい。夫は、あの子を抱きしめていました。それくらいなら室内でもよくやっていました。でも、お風呂から上がったあかねの体を見たら、傷が増えていることに気づいたんです」
【魔女】の声色に悲しみが帯びる。
「その後もあかねの傷は増え続けました。次第に傷の大きさも、爪で引っ掻いたくらいではなくなっていきました。そこでようやく私は、あの子に傷のことを聞いたんです」
「あかねさんは、何と言ったんです?」
「お父さんから教えてもらった『おまじない』だと。夫は、あの子をストレスのはけ口として使っていたんです。私がもっと早く気づいてあげていれば、こんなことには……」
【魔女】は、悲しそうな表情を浮かべてあかねを見やる。僕は、【魔女】から目を離さない。
僕とあかねが初めて会った時、彼女は自身の能力のことを『おまじない』と称していた。最初は、自分でその名を付けたのだと思っていた。しかし今の話を聞けば、父親が『おまじない』と言っていたから。そのため、あかねも『おまじない』と言うようになったのか。
さらに彼女はこう言っていた。この能力は人に使ったらいけないし、人に話してもいけない、と。だがそれは、誰と約束したのだろう。この話が事実だとしたら父親だろうが。
今の話が事実だとしても疑問がいくつか思い浮かぶ。
どうしてあかねや父親は、その能力に気づくことができたのか。
自分の意思がなければ使えないあかねの能力は、自分の意思と関係なく働く僕の能力とは違う。
偶然人の心の傷を受け入れて能力の存在に気がついた……なんてことはないだろう。
また、どうして僕に能力の秘密を話して使ってしまったのか。
彼女は決められた約束を守る。仮に約束した父親と離れたとしても、約束を破るような子ではないと思う。
「私はすぐにあかねを連れて逃げました。これ以上、あの人といっしょにいたらあかねが傷だらけでボロボロになってしまうと思ったから。そしてこの家の住み込み家政婦になりました」
「あかねに能力を使わせていた旦那さんとは、無事に別れられたんですか?」
「はい。あかねの親権で揉めましたが、なんとか離婚できました。こちらで働くようになって、真実さんのご親戚の弁護士さんを紹介していただいたおかげです。ありがとうございます」
確かに親族には弁護士が何人かいる。その中の誰かが助けたのかもしれない。
「こういう時、女は有利ですね。この国で子どもの親権を争うと、母親が勝ちやすいですから」
【魔女】は笑った。僕は笑えなかった。
「私は、あの子にもう二度と能力を使わないように言い聞かせました。しかし……」
目は口ほどに物を言う。【魔女】は鋭い目つきでじっと睨みつけてくる。
「あの冬の日、あかねが倒れたのはあなたのせいですよ。真実さん」
開き直った【魔女】が反撃に転じようとしている。僕はしっかりと彼女の声を聞く。
「あかねは優しい子です。困っている人を見たら自分を犠牲にしてでも助けてしまう。だから約束を破り、庭で泣いていたあなたの心の傷を癒した。でも、それから何度も能力を使わせるから傷だらけになってしまった。昨日もまた能力を使ったとあの子から聞きましたよ」
胸が締めつけられるように痛い。僕が『おまじない』を受けたことは事実だから。
「真実。気をしっかり保てよ。俺が憑いているからな!」
背後にいる幽霊が元気づけてくれた。嬉しいんだか、悲しいんだか、よく分からない。
僕は眠っているあかねを見る。幼い頃から伸ばしている長い黒髪が顔にかかっている。
「確かに昔の僕はあかねさんの能力に頼っていました。そのせいで傷を増やしてしまったこと、意識を失って倒れたことは謝ります。すみません。本当に申し訳ありません。責任は取ります」
「それなら……」
【魔女】が何か言いかけた。僕はそれを遮って話し続ける。
「でも、どうしてあかねさんを病院に連れて行かないんですか?」
率直な疑問をぶつける。【魔女】は、ほんの少しだけ目を逸らして答える。
「病院には連れていきました。でも、医者が原因は分からないと言ったから」
「原因が分からなくても意識不明ですよ? 重体の患者を帰す医者がどこにいますか?」
「それは……」
「そういえばあの冬の日もそうでしたよね。あかねさんが倒れた時、あなたはすぐに玄関から出てきた。まるで倒れる事を予測していたかのように。そしてすぐに離れ屋に運んだ」
「それは、前々からあの子が心配で様子を見ていたから」
「心配ならどうして僕に言わなかったんですか。『おまじない』の代償のことを」
「あなたは、毎日のように能力を使わせていたでしょう。あかねは、優しい子だから従った。無理矢理能力を使わせるあなたに言っても聞いてくれないと思ったから」
「確かにあの頃は、ほぼ毎日『おまじない』を使ってもらっていました。だけど、無理矢理使わせたことなんてないです。それにあかねさんが倒れたあの日は、一週間ぶりにしてもらいました。体調が悪そうだったのでずっと断っていました。それなのに使った途端に倒れたんです」
【魔女】は何も言ってこないが、その目は話を信じていないようだった。
「それから昨日、確かに僕は傷を癒されました。しかしあの冬の日以来、一度も『おまじない』を受けていません。それなのにまた倒れるなんて……おかしいと思いませんか?」
「それは、あなたの抱えていた心の傷があまりにも多くて大きかったからでしょう」
「では、どうして昨日『おまじない』を使ってすぐに倒れなかったのでしょう。不思議です」




