22話 傷痕
「真実。大丈夫だ。黒い影は、まだ大きくなっていない」
幽霊が落ち着いた声で話しかける。
それを聞いて少しホッとする。
しばらくすると、あかねのまぶたがゆっくりと開いた。
そして僕と目が合い、優しく笑いかけてくる。
「真実さんは、お優しいですね」
「大丈夫? どこか痛むところは?」
僕の問いかけにしっかりと頷いた。そしてまた笑いかけてきた。
「でも、優しすぎるから心配です。あまり無理をしないでください」
あの時と同じ台詞だった。嫌な予感がした。
気づけば僕の手が彼女の手に絡めとられるように握られているではないか。
「大丈夫。私が『おまじない』をかけてあげるから。それが私の役目だから」
慌てて手を振り払うが、一気に心が軽くなった。ストレスも眠気も体の疲れも吹き飛んだ。
栃尾あかねの能力は未だ健在――。
少しも衰えていなかった。
「真実さん。あの、大丈夫ですか?」
能力を使って心の傷を癒し、ストレスを吸収しておいて何を言っているんだ。
「僕は大丈夫。それよりもあかねの方だ。そんな状態で能力なんか使って大丈夫なのか?」
僕が焦って尋ねると、彼女はケロッとした顔で答えた。
「大丈夫ですよ。ただの風邪ですから」
「は?」
思いもしない返答に間の抜けた声が出た。
「学校にも風邪で休むと連絡しましたが、母や担任の先生から聞いていませんか?」
あかねは、きょとんとした表情で僕を見上げる。幽霊は背後で苦笑している。
体調不良で欠席したのは本当で、顔色が悪いのも目が虚ろなのも風邪が原因?
そこでようやく自分の勘違いに気がついた。情けなくて恥ずかしくて顔が熱くなる。
「あの、すみません。足に力が入らなくて、宜しければ部屋に連れて行っていただけますか?」
あかねが上目遣いでお願いをしてくる。先ほど倒れ込んだのも、立ったままドア越しに会話をしていて疲れたからだろう。僕の勘違いでまた一つ彼女に迷惑をかけてしまったようだ。
「くくく。迷惑をかけたお詫びにお姫様抱っこで運んでやれよ」
幽霊がヒューヒューとわざとらしく冷やかしてくる。だが、たまにはこいつの意見を採用してみよう。今日はたくさん恥をかいた。だったら、恥の一つや二つ増えても構わない。
僕は彼女の背中から左腕を回して胴体を支え、右腕を彼女の膝の下に差し入れる。何事かと慌てるあかねを落ち着かせ、腰を痛めないようにゆっくりと持ち上げた。
「わ、わ、わぁ。すごいです。こんなこともできるようになったんですね」
「この家は、文武両道が、基本方針、だから……」
「そうでしたね。あれからずっとがんばっていらっしゃいましたものね」
心と体を強くするため、丈夫にするためなら何でもやった。それなりの努力をしてそれなりの結果がついてきた。それでも僕の評価は、変わることがなかった。
「でも、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。『おまじない』をかけてもらったんだから」
「いえ、私の部屋は……二階なんです」
「だ、大丈夫だ真実。ふかふかちゃんに比べたらぺったんちゃんは、ず、ずっと軽いはずだ」
ありがとう幽霊。確かに蒲原に比べたらあかねは小柄だし、細身だし、イケる……はずだ。
階段は気合で上り切った。それから部屋の布団に寝かせるまでは、見栄と矜持で乗り切った。
「ありがとうございました。すごいです。やっぱり真実さんも男の子ですね」
あかねから笑顔でそう言われた。褒められたのか、慰められたのか、よく分からない。
僕は大きく咳払いをしてから正座して深々と頭を下げた。そして畳に額をくっつけて静止し、大きな声で謝罪の言葉を述べる。
「あかねさん。申し訳ありませんでした!」
彼女からは戸惑いの声が上がった。それでも僕は頭を上げない。
「僕の能力は知っていると思うけど、君の背中にはレッテルが貼られている。そのレッテルを貼ったのは、この僕だ。あの冬、傷だらけの腕を見た時に【傷女】なんて言ったせいだ……」
「真実さん……それは……」
あかねがどのようにして意識を取り戻したのか。どうして僕が眠ってしまっていたのか。今でも原因を思い出せていない。けれど、おそらく彼女の母親が看病してくれたおかげだろう。きっと僕は、意識を取り戻すのを待っているうちに眠ってしまったのだ。そして目が覚めた時、寝ぼけた状態で傷のことをポロッと言ってしまったから。それがレッテルとなってしまったのだろう。やはり僕の過ちで僕の責任だ。
レッテルには、大ざっぱに分けて二種類あると考えている。
何人もの人が長い時間をかけて同じ評価をすることで貼られる物と一人でも少数でも強い想いを込めて評価することで貼られる物。
蒲原の場合が前者で、津川先輩の場合は後者。あかねの場合も後者だろう。
僕は、強い想いを込めた覚えなんてないけれど、彼女にとっては関係ない。言った人からすれば何気ない言葉でも、言われた人にとってはひどく傷つけられたと感じる言葉もある。
「ねぇ、あかね。君の傷をもう一度見せてほしい」
「え?」
今度は、困惑と驚きが混じった声が聞こえてくる。
「君のレッテルを剥がすために。君を助けるために。お願いだ」
彼女からの返事はない。だが僕は、そのまま頭を下げ続けた。
しばらくその状態が続いたが、そのうち衣擦れの音が聞こえ始めた。
「真実さん。どうか顔を上げてください」
その言葉に僕は素直に従う。おそらく服を脱ぐまでの過程を見ていただろう幽霊が呻いた。
「おい、これは……」
何も言わずにあかねの体を見つめる。肩、腕、脇から正面にかけての腹部。胸元は腕で隠しているから見られない。それでも一つ一つ目を逸らさずにじっくりと見ていく。
「お前、平気なのか? これを見て、何とも思わないのかよ」
幽霊の言葉は右耳から左耳へと流れていった。僕は、あかねの目をしっかりと見て話す。
「レッテルを貼り付けてごめん」
「いいえ……」
「レッテルを見て見ぬふりしてごめん」
「いいえ……」
「だけど、それも今日で終わりだ」
僕は、笑顔を浮かべて告げる。
「あかねは【傷女】ではない。だって君は、こんなに綺麗な体をしているんだから」
言い終えた途端、あかねの目から涙がこぼれ落ちる。それから大きな声で泣き始めた。
かつての僕を見ているようで胸が痛い。だがそんな時、彼女はいつも優しく見守ってくれていた。だから今度は、僕の番だ。
「大丈夫だよ。あかねは【傷女】ではない。もう『おまじない』を使わなくていいんだ」
「真実、さん……」
「大丈夫。ここにいるよ。もう見て見ぬふりもしないから」
そう言って優しい笑顔を作って見せる。彼女は、さらに大きな声をあげて泣きだした。
しばらくその場に留まって彼女の手をぎゅっと握ってあげる。その手にも小さな傷が何本も走っている。指でなぞると、赤い傷口がぱっくりと開きそうだった。
ひとしきり泣いて疲れたのか、あかねは掛け布団を頭から被って出てこなくなった。自分の裸を見せて、さらに大泣きした顔まで見せたのに。今さらになって恥ずかしくなってきたのか。
「本当、可愛いなあ」
気づけば思ったことを口走ってしまった。直後、布団を被った塊が少しだけ動いた。
「約束ですからね?」
布団にくるまった状態で、くぐもった声であかねが話しかけてきた。
「玄関の戸を開けたら、いっしょに登下校してくれるんですよね?」
僕は、明日の朝にちゃんと門の前で待っていると約束した。それからしっかりと風邪を治すように伝えてから立ち上がった。
「本当に、大丈夫ですか?」
あかねは、布団から顔だけ出してこちらを見つめていた。
僕は、しっかり頷いてから部屋を出る。




