15話 母親
学校、指導室、入学式、0番街――共通項は母親。
黒い影が大きくなったという出来事を一つ一つ思い返していく。
初めて指導室の廊下で蒲原と会った時、呼び出されたのは彼女だけだと思っていた。
けれど、一人ではなかった。指導室の中にもう一人いたのだ。それが蒲原の母親だ。あの時、母親がいたからレッテルを意識し、黒い影が大きくなっていたのだろう。
嘆願書の件で指導室に呼び出された時、僕は初めて蒲原の母親に会った。だから、それが初めての母親の呼び出しだと決めつけてしまった。
生徒指導教師【熊】の言葉を聞き逃していた。そう、彼女は以前にも学校に呼び出されていたのだ。四月末になっても制服を着ない生徒を教師が放っておくわけがない。秋功学園の校則が厳しいと言ったのは自分じゃないか。
入学式は考えるまでもない。一人娘の晴れ舞台、娘想いの母親が入学式に来ない訳がない。その時は、蒲原もセーラー服を着ていたかもしれない。黒い影が大きくなるのは、制服が原因ではないのだから。
そして0番街。この町にとっては過去の栄光であり、今となっては負の遺産か。といっても、今でも細々と経営している店も多いと聞く。
けれど、国からの規制が厳しくなったこのご時世。かつてのような繁栄はないと思った方がいい。蒲原の母親は、まだ若く綺麗な女性だと思ったけれど、あそこで働いていたのか。どれほど昔のことか分からないけれど、相当苦労をしたということは推測できる。
蒲原はやめた方がいいと忠告してきた図書委員会の一年生男子。彼も蒲原の母親がどういった仕事をしていたか知っているのだろう。だから、その娘に手を出すのはやめた方がいいと。両親や近隣住民の悪い噂話でも伝え聞いたのかな。
ようやく僕は蒲原のレッテルを理解した。
だがあの発言だけは、どうしても理解できない。
「なあ、0番街ってなんだ? 幻の街か? 異世界への入り口か?」
日が暮れて家路を急ぐ僕に、幽霊が矢継ぎ早に質問してくる。鬱陶しいのですぐに答える。
「お前が喜びそうなところだよ」
「どういう意味だ?」
「歓楽街」
「…………」
「黙っていても顔がにやけてるぞ。お前、0番街の地縛霊にでもなれよ」
「くくく。そのことは、ふかふかちゃんともう一人を救ってから検討しようか。前向きにな」
どうしてお前は、自分とは何も縁がない学校の生徒を救おうとするんだ。お前には、何の利益もないじゃないか。ただの徒労じゃないか。それなのに、どうしてそこまでできるんだ。
「しかし、0番ってどういう意味だ? 財布がすっからかんになるまで遊ぶのか?」
幽霊は背後で楽しそうに笑っている。きっと自分が0番街で遊ぶ光景を想像したのだろう。
「違う。秋葉駅に通っている鉄道の路線、0番線から取ったんだよ」
秋葉市は、鉄道の街として発展してきた歴史がある。0番線から5番線は百年以上前に開通した鉄道路線で現在も使用されている。毎日朝から晩まで何十本という電車が発着している。ただし、通常の電車が0番線を走ることは少ない。なぜならそこは、列車の整備や組成・入替を行う車両基地に入るための線路だから。
0番線を通った先にある車両基地には、何人もの鉄道会社の職員が働いていた。もちろん今も働いているが、今とは比べられないほどの大人数だったらしい。
そこで働く男達は、給料をもらうと真っ直ぐ家に帰らず、秋葉駅の西口近くにある歓楽街に向かった。そこには、ネオン輝く店が建ち並ぶ。酒を浴びるほど飲みたい、女を飽きるほど抱きたい、男達のどんな欲望でも満たしてくれる店が集まっていたという。
その歓楽街に特定の名前はなかった。鉄道会社の男達が主な顧客だったこと、0番線の車両基地が近かったことから、いつしかそこは『0番街』と呼ばれるようになった。
しかし、この世は栄枯盛衰。国が飛躍的な経済成長を見せていた時期には、田舎の秋葉市もわずかながらその恩恵を受けていた。だがその経済成長が終わりを迎え、一転して不況となってしまった時、栄えていた街はどんどん衰えていく。それは秋葉市も、0番街も同じである。
「今の若い人では、0番街なんて言葉を知っている人、少ないんじゃないかな」
「ほう。でも、お前は詳しいんだな」
「……秋葉市内の小学校や中学校では、社会科の授業で習うんだよ」
嘘をついた。義務教育で歓楽街の歴史なんて教える教師がいたら問題だ。授業があった翌日には、家族からの抗議の電話が鳴りっぱなしだろう。だが、何とかごまかせたようだ。
「なあ、もう一つ聞いても良いか」
「いいよ」
「ふかふかちゃんは【落ちこぼれ】の六組生と言っていたよな。それから以前、三年生女子に囲まれた時、一組なら頭が良いと言っていたよな。それってどういう意味だ?」
驚いた。下ネタ大好きな幽霊がそれ以外のことに興味を示すとは思いもしなかった。
「クラス分けって全クラスが平等の学力になるように振り分けられるんじゃないのか」
「公立高校は知らないけど、秋功学園は私立だから。例えば一年生は、高校入試の成績が良かった順に一組から六組に分けられる。ただし六組の場合、スポーツ特待生で入る生徒もいる」
「それなら進級する時は、中間や期末の試験結果でクラスを決めるのか」
「その通り。一年間の総合成績で良かった順に一組から六組。三年に進級する時も同じだ」
特に三年生に進級する時、皆が必死になって試験勉強をする。大学受験を控えた三年生は、一組から優先的に大学推薦入試の校内推薦を受けられるからだ。一組の生徒全員が推薦入試を受けるわけではないが、三組の生徒まで校内推薦の枠が余っているかどうかは怪しい。一組以外の生徒が校内推薦を受けるには、三年目の定期試験で好成績を取らなければ難しいだろう。さらに内申点が高いことも前提条件にあることを忘れてはならない。
「秋功学園は競争主義が基本方針だから。生徒同士を互いに競わせて結果を出させるんだ」
「じゃあ、各クラスの授業のカリキュラムなんかはどうなるんだ」
「それは、教師によって変わってくるよ。ただ、試験内容は全クラス同じだ」
「そこんところは平等なんだな。でも、そうでないと生徒から不満が出るか」
幽霊はしきりに頷いていた。
そうこうしているうちに自宅の門の前まで来た。いつ見ても仰々しい門である。門をくぐると、お手伝いさんが掃き掃除をしていた。思わず僕は顔をしかめて彼女の背中から目を逸らす。足音に気がついた彼女が体を反転させ、両手を体の正面で交差させて頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「ただいま帰りました。あの、あかねさんは、どこにいますか?」
お手伝いさんは、ギョッとした顔をする。そんなにおかしいことを言ったつもりはないが。
「あの子なら離れにおります。今日は、体調が悪いらしくて」
「そうですか。お大事に、とお伝えください」
それだけ伝えると、僕は屋敷に入っていく。だが靴を脱いでいる時にあることを思い出して、玄関先にいるお手伝いさんに声をかける。
「そういえば明日は保護者参観ですが、いらっしゃるんですか?」
「残念ながら仕事があるので行けません。娘にもそう伝えてあります」
「そうですか」
玄関で靴を整えてから家に上がる。自室に向かう途中で幽霊が話しかけてくる。
「なんだ。メイドさんの子どもも秋功学園に通っているのか」
「そうだよ。僕と同じ高校二年生。しかも特待生」
「何かスポーツでもやっているのか?」
「いや、スポーツ特待生ではなくて経済特待生。母子家庭で経済的に厳しいんだけど、彼女は成績優秀者だから。学費や授業料が一部免除されているんだよ。あれ、全額だったかな」
「ほう。どっちにしてもすごく勉強ができる子なんだな」
こいつ本当に気づいていないのか。一ヶ月もこの家で生活しているのに。もしかして、僕の背後霊だから行動範囲が狭いのだろうか。半径数メートル以内といった風に。
「そういえば真実って名前だったか。それとも苗字だったか。どっちだ?」
その言葉を聞いて足を止める。それも知らずに今までいっしょにいたのか。
「……どうして今さらそんなことを?」
「お前の家って門にも玄関にも表札がないだろ? だから、どっちなのかと思ってな」
「……名前だよ」
この家の門に表札がないのは、それを掲げる必要がないからだ。
部屋に入ると、窓を開けてモミジの庭の先にある離れ屋を見つめる。
「【魔女】はいるのに、魔法はないのか」
もしもこの世にどんな願いでも叶えてくれる魔法があるのなら、能力を奪ってもらいたい。
それが叶うなら僕は、代価として何でも差し出すつもりだ。
朝起きて着替えを済ませて部屋を出ると、家族が食事を終えて仕事に行くところだった。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
父、母、そして祖父の背中に声をかけた。だが、見ていて気持ちの良いものではないので、すぐに目を逸らす。洗面所で顔を洗ってから食卓につくと、いつものように朝食と弁当が用意されていた。それを見て、彼女の体調が良くなったのだと分かり、少しホッとする。
朝食を食べ終えてから弁当箱を手に取る。すると、その下に手紙があることに気がつく。
『体調は良くなりました。ご心配おかけしてすみませんでした』
『また約束を破ってしまい申し訳ございません あかね』
胸が締めつけられるように痛い。
幽霊が現れる前に手紙をくしゃくしゃに丸めてからゴミ箱に捨てた。それから家を出る。
秋功学園のモミジ並木の坂道まで来ると、いつもと少しだけ風景が違って見えた。いつもは、黒い学ランと黒いセーラー服の生徒達が上っていくので黒一色になる。しかし今日は、今学期初めての保護者参観である。黒以外の服を着た保護者が生徒といっしょに坂を上っているのでいつもより色が多い。保護者は、自分の都合に合わせて自由に授業を見学できる。一時間目の授業から六時間目の最後の授業まで、いくつでも選ぶことができる。さすがに最初から最後まで見学するという人はいないと思うけれど。
校門の前で服装の乱れがないか、しっかりとチェックされる。今日に限って校章だけでなく、生徒手帳を持っているかどうかも確認された。忘れてしまうと反省文を書かされる。
無事に校門を抜けて歩いていくと、玄関前でおろおろとしている女性の姿を見つけた。どうしたのかと思って近づいていくが、咄嗟に目を逸らす。
「どうした?」
今日初めて幽霊が姿を現した。僕は黙ってその女性の背中を指さすが、彼は何も言わない。もしかして、黒い影が見えていないのか。
「あの人に黒い影は?」
「少しある。だが、あれくらいなら問題ないだろう」
幽霊は、しっかりと彼女の背中を見てからそう言った。
「あの人、蒲原の母親だ。前回は気づかなかったけど、すごい数のレッテルが貼られている。それでも平然としていられるなんて……」
正直、口にするのも憚られる内容のレッテルが貼られている。それも一枚ではなく何枚も。かろうじて両手の指で数えられるが、0番街で働いていたというのは嘘ではなさそうだ。
「母は強し、ってことだろ。あの人の母性、半端ないからな!」
彼女のどこを見てそう判断したのか、尋ねる気はさらさらない。
僕は背中を見ないようにして近づいて声をかける。すると彼女がゆっくり振り向いた。
「あら、君はあの時の」
「おはようございます。蒲原……【春】さんのお母様ですよね」
「はい。【春】の母です。いつも娘がお世話になっています」
そう言って頭を下げる。指導室では分からなかったけれど、天然というか天真爛漫というか。見た目がとても若いから、失礼ながら幼い印象を持ってしまう。
「今日は、保護者参観に来られたんですよね。受付はお済みですか?」
「それが書類を忘れてしまって……。あの子、授業参観のことなんて何も言わなくて。この前、学校に呼び出された時、担任の先生に教えてもらって初めて知ったものだから」
「蒲原に連絡はしましたか?」
「いいえ。ナイショで来て、あの子を驚かせようと思って。えへへ」
蒲原の母はとても楽しそうに笑う。その笑顔に少しドキッとしてしまった。
「書類を忘れても保護者だと証明できるものがあれば大丈夫ですよ」
そう言って僕は受付に連れていく。事務員の方に事情を説明し、蒲原の母は身分証明書を見せる。事務員がパソコンを使って調べ、情報が一致したということで通ることを許された。
「ありがとう。本当に助かったわー」
「いえいえ。では、僕はこれで失礼します」
それから自分の教室に向かうことにした。だが、歩きだしてすぐに呼び止められる。
「あの、一年六組の教室ってどこかしら?」
早く教室に行きたかったけれど、仕方がない。僕は笑顔を作って対応する。
「じゃあ、教室の前まで案内しますよ」
後ろを気にしながらゆっくりと階段を上る。その途中で質問を投げかけられた。
「あなたは、この町の生まれ?」
「はい。そうですよ」
「ああ、やっぱりそうだと思った」
どうして僕がこの町の人間だと分かったのだろう。言葉の訛りも方言もないのに。
「ほとんど勘だけどね。あとは、昔の仕事の経験則」
また彼女は、えへへと笑う。その顔には、ゾクリとするほどの妖艶さが出ていた。
「では商店街側か都会側か。分かりますか?」
「商店街側ね」
即答だった。少しも考えることなく、僕が言い終えた瞬間に言い当ててみせた。
優れた観察眼だと称賛の声をあげそうになる。同時に、恐ろしいとも思った。
その観察眼を得る過程で何を得て、何を失ったのか。彼女の背中を見れば想像に難くない。それでも今こうして笑っていられる蒲原の母親。恐ろしいという言葉しか浮かばなかった。
「ね、当たり? 当たりでしょ?」
彼女は、外れていると少しも思っていない口ぶりで尋ねる。
「はい。大当たりです」
「やったー」
先ほどの妖艶さはどこへやら、また天真爛漫な顔をのぞかせた。それもまた恐ろしい。
雑談をしているうちに一年六組の教室の前まで来た。教室の前には、保護者が数人ほど立っている。これからホームルームがあり、それが終わってから一時間目の授業が始まる。教室をちらっと見てみるが、そこに蒲原の姿はなかった。トイレにでも行っているのかもしれない。
「連れてきてくれてどうもありがとう。助かったわ」
「いえ、こちらこそ楽しい話をありがとうございました。それでは失礼します」
今度こそさよならだと思ったら、また声をかけられた。背後霊に憑かれてからというもの、僕は後ろから声をかけられることが多くなった気がする。気のせいか?
「私もこの町で生まれ育ったの。ねぇ、商店街側と都会側、どっちだと思う?」
人差し指を口元に置いて尋ねてくる。そんな所作一つでも妖艶さを出せるのか。
「商店街側です」
少し考えてしまったけれど、すぐに答えを言い当てた。蒲原の母は、驚いている。
「すごーい。よく分かったわね」
「背中に書いてありましたから」
「え? 背中?」
不思議そうな顔をしている蒲原の母をその場に残して、僕は二年生の教室に行くことにした。一年生教室は本館二階にあり、二年生教室はその上の三階。僕はゆっくりと階段を上っていく。
「背中に書いてありましたから……って気障な台詞だなぁ、おい」
「うるさいな。別にいいだろ。だって相手は【椿姫】。高嶺の花なんだからさ」
手が届かないと分かっていても、少しくらい背伸びして格好つけたっていいだろう。
「真実。人妻との火遊びは良くないぞ。悪いことは言わない。やめておけ。な?」
余計なことを言うな、と言おうとしたところに、誰かの叫び声が聞こえてきた。




