第一章・プロローグ ③
魔術陣に魔力を注ぐこと五日目。王子やザウルの乱入を何とかやり過ごし、魔術を発動させるだけの魔力がようやく貯まる。連日の魔力開放で体に痛みが蓄積されているが、このまま注ぎ続けられれば静まり返る夜中には完成する。
完成間近となり、決行日を今日にするか後日にするかを悩んでいると、耳が甲高い音を拾う。王子の来訪なら多数の足音が響き、ザウルならば忍び寄るような足音が聞こえてくる。
聞き慣れないその足音に寝台へ投げ捨てていた体が自然と起き上がり、来訪者を待つ。
訪れたのは、見知らぬ相手だった。
「……ミリア」
それでも彼女がミリアと呼ばれる人物だと認識できたのは、人とは違う尖った耳や金色の美しい髪からではない、彼女の右目の瞳孔が三又の槍を連想させる印を有していたからだ。
「見違えたな」
エルフはある日を境に急激に肉体が成長する種族だと知ってはいたが、ちんちくりんの小娘が色香溢れる女性に様変わりするとは思わなかった。
「二年振りに、なりますね? 魔王……いえ、今はレイナと呼ぶべきですか?」
俺が魔王である事を知りながら、名前までも知っている人物となれば片手で数えられる人数しかいない。どこで情報が漏れたのか、気になる所だ。
「どこで名を?」
「手紙によく貴女の事が書かれていました」
納得する。確かに勇者は時折手紙を出していた、人の名前を勝手に教えているとは思わなかったが。
「そうかよ。で? 何しに来た?」
「……噂を、確かめに」
ミリアが聞きたがっている事を予想できたのは、彼女の唇が小刻みに震えていた事と勇者と手紙のやり取りをしていた、二つの要素からだ。
「……彼は……、その」
質問に答える前から、彼女の瞳は水気を帯びていた。
ミリアが受け取った手紙に何か書かれていたかはわからないが、俺の名前を教えたぐらいだ、他に余計な事を伝えていたに違いない。
否定してほしいと望む彼女に、それでも真実を告げた。
「俺がここにいる事が答えだ」
唇を噛み締め、何度も頷くミリアは自分に言い聞かせている様にも見えた。
「……ごめんなさい。見苦しいものを見せてしまいました」
「いや、大切な人を失えば誰だって傷つくものだ」
「……貴女にそのような事を言われる日が来るとは思っていませんでした」
俺自身も誰かに慰めの言葉を言う事になるとは想像もできなかった。
「変わったと聞いていましたけれど、本当のようですね。……かつての貴女のままだったら、渡さないつもりでしたが……これを」
懐から取り出したのは手紙だった。
「勇者からです」
差し出された手紙を受け取って裏側を覗く。宛名の所には到底文字とは思えない字、この手紙が誰かの手で用意されたものではなく、紛う事なく勇者が用意したものだという証拠。ゆっくり開封すると微かな魔力と思い出の香りが舞った気がした。
敗北し力を奪われ憎んだ。けれどそれから二年、離れる日などなく、倒す倒すと言い続けた日々。
「……貴女でも、涙を流すのですね」
「あぁそうか……俺は、俺は……友を失っていたんだな」
思い返せば、これまで友と呼べる者がいなかった。同族にも動物にも人にも恐れられ、親にも捨てられた。ずっと独り、魔王になった後も無駄にでかい居城に独り。誰かと摂る食事の暖かさも笑い声が聞ける喜びも、自分独りでは味わうことのできなかった全てを、彼が教えてくれた。
「はあぁぁ……」
彼との思い出が次々と脳裏を駆け巡る。
「……復讐を望みますか?」
友を奪った者への復讐。当然頭を過り、そうしたいと思う自分はいた。けれど、首は横に振った。
「……望まないだろ? あいつは」
「……ですね。……彼が最後に、私に望んだ事なんて、貴女をよろしく、ですよ?」
「あいつらしいな」
「えぇ彼らしいです」
軽く思い出を肴にして笑い合った後、彼女は少しだけ表情を締めて俺の名を口にした。
「レイナ、勇者の望みを叶える為にも貴女にはここから出てもらいます。ご覚悟はよろしいですか?」
囚人が逃げようとして再び捕まれば扱いが悪くなるのは当然の事。だが手伝っただけの者は、何の罪もないにも関わらずリスクだけを背負う事になる。
「……俺を出せば、お前まで逃げる生活になるぞ? その覚悟はあるのか?」
返事の代わりに挑戦的な微笑みを浮かべると、鉄格子が音を立てて崩れた。後戻りはできないようだ。