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私立萬葉学園(上)  ―妄想萬葉集―

作者: 大和 袮子

は じ め に


 令和は史上初の日本の古典が出典の元号です。出典元はご存じ萬葉集です。とはいえ普通の現代人には萬葉集など何やら呪文めいた文言が並ぶ意味不明の古典文学でしかないでしょう。

 そこで萬葉集の歌を身近に感じてもらおうと歌のイメージを現代高校生の呟きにして紹介してみました。それだけではあまりにもあっけないので歌の解説も付けて、各章に分けそれぞれにこけ脅しの万葉仮名で名前を付けておきました。解説といっても古典の授業ではないので文法なんかはガン無視して、歌の時代背景や作者及び登場人物の経歴なんかを重点的にまとめてみました。古典文学や古代史に興味のある方、異世界転生ファンタジーに食傷気味のあなたも古代の世界に思いを馳せてみませんか。舞台は異世界ではなく同じ日本とはいえ古代の価値観といいますか倫理観は現代日本と随分とかけはなれています。まあおおらかと言いますかいろいろと「大人の事情」も出てきますので、一応十五歳未満禁にしておきます。

 解説を書くにあたり資料には目を通していますが、当時の人にインタビューなどできるわけもなくその内容は「多分こんな事を考えていたのではないか」と私が勝手に妄想を膨らませたものです。これはあくまで私の考えであって学術的に認められているものではありません。解説というよりただのお話です。なので「ここで読んだことを試験に書いたら点数を貰えなかった」なんていうクレームは受け付けません。それから萬葉集の歌を通して大和言葉の美しさを感じてほしいと思ったので、全ての漢字にルビを振り、できる限り現代仮名遣いに直しました。もし歌の表記や現代訳に誤りがあればそれは全て私の責任であります。

 縦書きで読んでもらえると嬉しいです。

 本文中に出てくる丸かっこの中の漢数字は萬葉集の歌番号です。萬葉集は全二十巻、四千五百首余りの歌が収録されています。その中からお目当ての歌を探し出すのは大変なのでそれぞれの歌に番号が振ってあります。例えば(一・二〇)とあるのは萬葉集第一巻に収録されていて歌番号が二〇の歌です。萬葉集の原文から歌を探す時の参考にして下さい。


 


 目 次

 壱 茜草指

 弍 河上乃

 参 梅柳

 肆 夏野之

 伍 大夫哉

 陸 去年見而之

 漆 不聴跡雖云

 捌 家有者

 玖 世間乎

  以上上巻


  以下下巻

 拾 将待尓

 拾壱 浦毛無

 拾弍 麻佐吉久登



























 

壱 茜草指





























ホームルーム マジだるい てか廊下で何やってんのよ! センセに見つかったらどうすんの




























あかねさす (むらさき)()()(しめ)()()()(もり)()ずや (きみ)(そで)()

                       (一・二〇)


  (あかね)色のさす紫草が生い茂る、かかわりなき人の立ち入りを

  禁じた野を()き来して、野の番人が見るではございませんか。

  そんなに(そで)をお振りになったりして。



























オレ マジだかんな 彼氏持ちだからって嫌いになれる訳ねーじゃん



























(むら)(さき)の 匂える(いも)(にく)くあらば (ひと)(づま)(ゆえ)()()ひめやも

                        (一・二一)


  紫草のように色美しくあでやかなあなたのことが嫌いなら人妻と

  知りながら、どうしてあなたに恋い焦がれたりしようか。














【解説】

 教科書にも載っている有名な歌ですね。標野というのは一般人が入れないようにしめ縄などで囲ってある所です。昨今の学校では校門のところに「関係者以外立ち入り禁止」の札がかかっていますが現代の日本の生徒たちは毎日、標野に通っているとも言えますね。


 さて、ここで少しばかり歌の解説をしてみましょう。

 (いも)とあるのは兄弟姉妹の妹のことではなく、女性の恋人のことを指します。「()(いも)()」が短縮化して()(ぎも)()などと言ったりします。逆に男性の恋人のことは()()と言います。兄は背とも書きます。自分の背後に控えてバックアップしてくれる人、或いは危機に直面した時、前面に出て背中で庇ってくれる人の事です。自分を守ってくれる背中だから我が背なのでしょうか。

 袖を振るというのは当時の愛情表現でした。額田王(ぬかたのおおきみ)は大海人皇子と結婚していましたが別れた後、大海人皇子の兄である天智天皇と再婚しました。この歌が詠まれた時、額田王(ぬかたのおおきみ)は天智天皇の妻でしたから人妻に求愛した訳で、この二首は「あんなに大勢の人前で随分と大胆な事をするのね」「だって好きなんだもん」という内容です。

 こう言う男女それぞれの思いをやり取りする歌を「相聞歌」といいます。相聞歌とは現代で言うと「木綿のハンカチーフ」(と言っても若い方はご存知ないか。昭和歌謡です)みたいな歌のことです。


 相聞歌のルーツは歌垣だと言われています。歌垣は中国南部から稲作とともに日本に伝わったらしいです。豊作の前祝や収穫祭に伴う行事で若い男女のグループが一箇所に集まり、男性側と女性側の代表が歌を掛け合ってやり取りします。角川ソフィア文庫の表紙絵に歌垣の様子が描かれて居ますが、太鼓やハープのような楽器を鳴らして歌ったり踊ったりと、まあ青空カラオケ合コンみたいなもののようです。と言ってもただ出会いを求めるだけではなく、男女の歌の掛け合いを聞くためだけに来る人も居たそうです。中にはただ聞くだけでは飽き足らず、歌垣の大まかなルールみたいなものを覚え、やがて腕試しに歌垣に参加する人もいたそうです。ただのカラオケ合コンというよりは野外コンサートやレイブみたいな側面もあったみたいですね。歌垣で歌われる歌は相聞歌よりももっと素朴な掛け合いだったようで相聞歌が、アイドルが可愛く歌う「木綿のハンカチーフ」なら歌垣は飲み屋のカラオケで歌う「三年目の浮気」(またまた古くてすみません。これも昭和歌謡です)みたいなものなのでしょうか。

 中国南部の少数民族には今でも歌垣の風習が残っているそうです。日本では歌垣の風習はずっと昔に廃れてしまいましたが、年末の紅白歌合戦はこの歌垣をヒントに企画された番組ではないかと私は勝手に想像しています。


 さて、話が脱線しましたが、歌垣で歌われた歌は貴族の間でより洗練され文字として残されました。この歌が相聞歌と呼ばれるようになったようです。

 ここで紹介した二首は相聞歌の体裁をとっていますが実は萬葉集では「(ぞう)()」に分類されています。雑歌には宮廷の公的行事で歌われた歌が収録されています。この歌は天皇遊猟という公的行事で歌われたものなので雑歌に分類されたようです。遊猟というのは五月五日の端午の節句に行われ、鹿の袋角(当時は薬として利用しました)や薬草などを狩る行事のことで、初夏の草花の生命力を身体に取り込み無病息災を願うという当時の思想から行われたものらしいです。今でも端午の節句に薬湯(菖蒲湯)に入るのは、万葉時代の遊猟の片鱗なのでしょうか。とにかく遊猟というのは、想像するに今のピクニックのような楽しく華やかな宮廷行事だったのでしょう。ここで紹介した三角関係の歌二首も遊猟の後の宴席で詠まれたものです。

 この当時は一夫多妻でしたが、一妻多夫は認められていませんでした。男性は同時に複数の女性の元に通うのを認められていますが、女性は同時に複数の男性と関係を持つことは認められていません。もちろん別れた後、別の男性と付き合うのは自由ですし、再婚や再々婚など回数制限はありませんが誰かの妻でいる時に別の男性と付き合うことはタブーでした。まあこれは、母子関係は明白なのですがDNA鑑定も無かった時代に父子関係をはっきりさせるための措置なのでしょう。一人の女を兄弟で争うというスキャンダラスな内容ですが、この頃の額田王は既に大海人皇子とは別れていて、天智天皇の妻になっており今さら三角関係を取り沙汰する人も居なかったのでしょう。というか額田王の過去は公然の秘密となっていてその頃には酒の席での笑い話のようになっていたのではないでしょうか。


 額田王は、歌人としての才能豊かな人でした。萬葉集には額田王(ぬかたのおおきみ)作とある歌に「天皇御製」と但し書きがあるものがいくつかあります。これは額田王が天皇に代わって天皇の御心を歌で表現し、一般に伝える立場の人「()(こと)持ち」であったからだと言われています。その立場がきっかけで大海人皇子と天智天皇の兄弟と親しくなったのかも知れませんね。


 実はここで紹介した歌は二首とも額田王が詠んだのではないかという説もあるくらいです。額田王は国のトップ二人を虜にするくらいの才色兼備な女性だったのではないでしょうか?










 














弍 河上乃


























校門を入った所にある建学の碑

入学式の日にここで写真を撮ったっけ

あの頃は一生懸命に頑張れば望みは叶うと信じていた

まさか他人の成功を妬む日が来るなんて、他人の不幸を願う日が

来るなんて想像もしてなかった

神さま、どうかあの頃の無邪気な私に戻してください

こんな醜い気持ちなんて知らないままの私でいさせてください

神さま、どうかお願いします


























(かわ)()の ゆつ(いわ)(むら)(くさ)()さず (つね)にもがもな (とこ)処女(おとめ)にて

                       (一・二二)


  川の中の神聖な岩々は、草も生えず常にみずみずしいが、その

  ように、いついつまでも清純な乙女でいたいものだ。












【解説】

 天武天皇が即位した四年目、(とお)(ちの)(ひめ)(みこ)は従姉妹の()()(おう)(じょ)とともに伊勢参りに行くことになりました。(とお)(ちの)(ひめ)(みこ)は天武天皇が即位前、まだ大海人皇子だった時に額田王(ぬかたのおおきみ)との間に生まれた娘です。この歌は一行が()()の横山(現在の三重県津市一志)にさしかかった時、()(ふき)(のと)()(とお)(ちの)(ひめ)(みこ)になり変わって詠んだものだそうです。()()と言うのは身分の高い女性の事です。皇女さまの養育係だったのでしょうか?

 

 さて、話は変わりますが今時の上昇志向の女子高生の理想の人生とはどのようなものなのでしょう。エリートと結婚してセレブな生活を送る事でしょうか。それとも自分の才能で道を拓き世界を股にかけて活躍する事でしょうか。

 では萬葉の時代、野心的な貴族の娘たちが目指した理想の人生とはどんなものだったのでしょう。それはズバリ宮廷の頂点に立つ事だったのではないでしょうか。当時の貴族の娘たちの目指した最も成功した人生とは天皇や皇子と結婚して男子を生み、そして我が子に帝位を継がせるというものではないでしょうか。さらにただの貴族の娘ではなく皇女であれば皇后や皇太后に立つことも、自身が皇位を継ぎ女帝になることも可能だったのです。


 十市皇女が伊勢参りした時に同行した()()(おう)(じょ)には異母姉妹が何人かいますが、そのなかに(おお)(たの)(おう)(じょ)()()(ひめ)(みこ)という姉妹がいました。この二人はともに大海人皇子と結婚し、妹の鸕野皇女は十七歳で(くさ)(かべ)(のおう)()を産み、その翌年に姉の(おお)(たの)(おう)(じょ)(おお)(つの)()()を産みます。

 記録を見ると()()(ひめ)(みこ)は「帝王の(むすめ)なりと(いえど)も礼を好み節倹にして母義の徳有します」とあります。皇女として生まれましたが、お洒落や遊興に散財したり我儘を押し通すこともなく、息子の(くさ)(かべ)(のおう)()もシッカリと躾けたということでしょうか。

 姉妹の父(天智天皇)が崩御した後、姉妹の異母弟である大友皇子と夫の大海人皇子が皇位を巡って対立しますが鸕野皇女は夫側に従い、乱に敗れて自害した弟の首を夫に差し出します。戦いに勝った大海人皇子は即位して天武天皇となり、鸕野皇女を正妃にたて鸕野皇后としました。その数年後、(くさ)(かべ)皇子と()()皇女は結婚し、最初に()(だか)(ひめ)(みこ)、その後に()()(軽)皇子、更に吉備皇女の一男二女が生まれます。

 この時代を調べてみると実は血族結婚がとても多いです。この時代は一夫多妻で父親が同じでも母が違えば兄妹(姉弟)でも結婚する事があったようです。また姉妹が同じ男性と結婚するなんて事も普通にありました。先にも書いた通り(おお)()皇女と()()皇女の姉妹は大海人皇子と結婚していますし、この姉妹の母と()()皇女の母も姉妹でした。つまり()()皇女にとって()()皇后は母方の従姉(いとこ)で、父方の姉で、叔母(叔父の正妃)で、姑(夫の母)になります。また、(くさ)(かべ)(のおう)()()()皇女の夫で、甥で、従弟(いとこ)で、(いとこ)(おい)(従姉の子)になります。何を言っているのか分からないでしょうが、実は書いている方もどう書いたものか混乱しています。図に描いて解説しようとしたのですが(こじ)れたアミダクジのような代物しか出来ないので断念しました。


 ()()皇后の姉である(おお)()皇女は(おお)(つの)()()を産んだと書きましたが、この(おお)(つの)()()は即位することを期待されていなかったためか、かなり自由奔放に育ち大胆な性格だったようです。萬葉集に(おお)(つの)()()が詠んだ


あしひきの (やま)のしづくに(いも)()つと われ()()れぬ (やま)のしずくに

                       (二・一〇七)

  あなたをお待ちするのに佇んでいて、あしひきの山の雫に濡れて

  しまいました


という歌があるのですが、この歌で妹と親しく呼びかけているのは、なんと異母兄で皇太子でもある(くさ)(かべ)(のおう)()の妻だったのです。その後この密会は陰陽師の占いにより公になるのですが、(おお)(つの)()()


(おお)(ぶね)()(もり)(うら)()らむとは まさしに()りて ()がふたり()

                       (二・一〇九)

  占いで二人の仲が公になることくらい承知の上で寝たんだよ


と開き直ります。そしてもう一方の当事者である(くさ)(かべ)(のおう)()は次のように歌っています。


(おお)()() (おち)(かた)()()()(かや)(つか)(あいだ)()(わす)れめや

                       (二・一一〇)

  大名児よ、あちこちで刈る草の一束、その束の間でさえそなたの

  ことは忘れるものではない


(おお)()()というのはこの妻の(あざな)(本名以外の呼び名)です。意訳すると「そなたの事は常に想っているよ、離縁する気はないからね」ということでしょうか。浮気をした妻に随分と寛大だと考える人もいるでしょうが、この妻にとってこれは厳しい措置だと思います。この時代、後宮の女性たちの存在価値といえば世継ぎ(皇子)を産むことでしょう。しかし(くさ)(かべ)(のおう)()は「そなたの事は常に想っているよ」と言いながら、この妻のもとには二度と通ってこなかったのではないかと私は思っています。いっその事きっぱりと離縁できたらこの妻は(おお)(つの)()()と再婚することもできたでしょうが、夫である皇太子の許しがないかぎり後宮から退出することはできません。そして後宮の女性たちには厳然たるヒエラルキーが存在します。例えば後宮に入る女性の人数に上限はありませんが、数多くいる夫人の中で妃と認められるのはたった二人で、さらに正妃になれるのは一人だけです。皇太子は即位すると正妃を立てなければなりませんが、その第一候補は皇后の異母妹である()()皇女で、問題を起こした妻が後宮の中心勢力になる可能性はまずありません。しかもこのスキャンダルは宮廷中に広まり、口さがない女官たちの噂の的だったはずです。この妻は後宮内の片隅で、冷たい視線に晒されながら、ひっそりと生きていくしかなかったのではないでしょうか。今ではこの妻の名前が石川郎女(いしかわのいらつめ)ということ以外、全く記録が残っていません。恐らくこのスキャンダルのために後宮内で失脚し、一族からも縁を切られ、関係する公的記録などから削除されたのではないかと私は考えています。そして(おお)(つの)()()は、この無鉄砲な性格のために自らの破滅を招くことになります。

 ()()皇后が四十一歳の時、天武天皇が崩御しますが、その一ヶ月後、(おお)(つの)()()は喪中の禁を破り伊勢神宮に詣ります。(おお)(つの)()()の姉が伊勢神宮の斎宮だったので会いに行ったのでしょう。萬葉集に弟を(みやこ)へ送りだす姉、(おほ)(くの)(ひめ)(みこ)の歌があります(二・一〇五、一〇六)。なぜ喪中に会いに行ったのかは分かりませんが、この軽はずみな行動が皇后の逆鱗に触れました。天皇が崩御したにもかかわらずその喪に服さないということは天皇を蔑ろにすること、即ち謀反の意志があるとみなされたのです。皇后が産んだ(くさ)(かべ)(のおう)()の妻を寝取ったことも皇后の心証を悪くしていたのでしょう。(おお)(つの)()()は皇后の姉の子ども、つまり甥になりますが皇后は容赦なく死を命じます。(おお)(つの)()()


 (もも)(づた)(いわ)()(いけ)()(かも)今日(きょう)のみ()てや (くも)(がく)りなむ

                       (三・四一六)

  磐余の池で鴨が鳴いているのを見るのも今日限りでこの身は雲の

  彼方に去ってしまうのか


という歌を残して二十四歳の若さで刑死しますが、この歌は日本最古の辞世歌と言われています。(おお)(つの)()()は、病弱な(くさ)(かべ)(のおう)()とは対照的で風貌体格共に逞しく文武両道に秀でて人望もあったようです。我が子に帝位を継がせたい皇后にとって、この大津皇子は目障りな存在だったのでしょう。

 そして皇后は直ちに称制(しょうせい)します。称制とは天子が亡くなった後、皇太子や皇后が即位せずに政務を行うことで、()()皇后は朝廷の中心人物となって(くさ)(かべ)(のおう)()を助けます。しかし皇子は次第に公の場に姿を現さなくなり、天武天皇が崩御した三年後に二十八歳の若さで(こう)(きょ)しました。なんとしても我が子に皇位を継承させたいという皇后の夢は打ち砕かれたのです。

 天武天皇には(くさ)(かべ)(のおう)()(おお)(つの)()()の他にも多くの皇位継承資格がある皇子たちがいました。そこで皇后は自ら即位して持統天皇となり、草壁皇子の忘れ形見である幼い孫、()()皇子の成長を待つことにしたのです。

 天武天皇は日本で初めて条坊制の(みやこ)を作った人です。天武天皇亡き後、持統天皇は夫の遺志を引き継いで夫が造営した(きよ)()(はら)宮(現在の奈良県明日香村)の建設を進めます。その後、持統八年に現在の奈良県橿原市に藤原京を造営します。なぜ(きよ)()(はら)から京を移したのかは分かりませんが、藤原京は平城京に遷都されるまでの十六年間、持統、文武、元明朝の(みやこ)として栄えました。その他に持統天皇は戸籍の作成を命じて浮浪者を取り締まり、兵士に軍事訓練を施すなど強力な国造りに邁進します。

 そして()()皇子が十四歳になった時、正式に皇位継承者と定めその翌年に譲位しました。文武天皇の誕生です。時に十五歳、当時としては異例の若さでの即位でした。天皇の姉の()(だか)皇女と妹の吉備皇女は内親王となり、母の()()皇女は皇太妃と称しました。一般的に天皇の母は皇太后と称しますが、(くさ)(かべ)(のおう)()が即位せずに亡くなり()()皇女は皇后にはなれなかったためこう称したようです。また、祖母の持統天皇は太上天皇として五十七歳で亡くなるまで孫を補佐し続けました。


 文武天皇はおっとりした温厚な性格の人でしたが頑健ではなかったのでしょうか、祖母(持統天皇)が亡くなった五年後に二十五歳の若さで崩御します。文武天皇の夫人や妃たちは皇女では無かったため女帝にはなれません。新天皇候補として最も可能性が高かったのは首皇子(おびとのおうじ)でしたが、当時わずか七歳でした。

 文武天皇は崩御の一年前に母(()()皇太妃)に譲位を仄めかしていました。そこで()()皇太妃が即位して元明天皇となりました。四十七歳での即位でした。それまで皇后を経ずに女帝になったという前例はありませんでしたが「皇位は父から息子へ継承する」という天智天皇が定めた法を引用し、首皇子(おびとのおうじ)へ皇位を引き継ぐ中継ぎとして即位したのです。阿閇皇太妃は、自分が即位することによって他の皇子へと皇位が移るのを防ぎ、孫が皇位を継承する道を残そうとしたのでしょう。元明天皇は、我が子を亡くしたあと幼い孫を即位させるため自ら皇位に就いた持統天皇と同じ道を選んだわけです。

 とは言っても名前だけの天皇ではありません。例えば日本初の流通貨幣「和同開珎」の鋳造、平城京への遷都、『古事記』『風土記』『続日本紀』の編纂を命じるなど、国の形を整える事に尽力しました。まあ現代風に考えると首都を刷新して造幣局を設立し、更に国立図書館を充実させたというところでしょうか?

 ところで前に「文武天皇の夫人や妃たち」と書きましたが、記録を見ると文武天皇には二人の妃と夫人が一人いました。しかし首皇子(おびとのおうじ)が正式に皇太子になる少し前に二人の妃は離縁され、夫人であった皇子の母、藤原宮子だけが残り首皇子(おびとのおうじ)の異母兄弟は皇位継承資格を失いました。これは宮子の父、藤原不比等の策略ではないかという説があります。

 元明天皇は当初、孫の外戚である藤原不比等を重用していました。不比等の父、鎌足は元明天皇の父である天智天皇が皇太子だった頃から生涯、忠実に仕えた人です。だから息子の不比等にも全幅の信頼を寄せていたのでしょう。先に書いた平城京遷都も不比等の進言によるものです。しかし皇位継承にまで干渉してくる不比等を次第に疎ましく思うようになったのではないでしょうか。

「孫の(おびと)はまだ十五歳の子どもだ。そして私はもう年老いてしまった。今、(おびと)に譲位しても太上天皇として、いつまで後見してやれるか不安だ。私が居なくなったら(おびと)は母方の親族である藤原一族の言いなりになるだろう。今、孫に譲位するのは父(天智天皇)が成し遂げた大化改新を無にする愚行となろう」

 そこで首皇子(おびとのおうじ)が皇太子となった翌年、元明天皇は未婚で後継のいない実の娘、()(だか)内親王に譲位します。これが元正天皇です。つまり母娘が二代続けて女帝となったのです。そして元明天皇は国の未来を娘に託して、譲位の七年後に孫の即位を見ることなく亡くなりました。


 元正天皇は即位の詔の中で「謹んで譲位の命を承け、敢えて遠慮することなく国のトップとしてこの国を引き継いでいきます」と儀礼的な謙譲をせずに二つ返事で受諾しています。

 先にも書きましたが、草壁皇子と()()皇女(元明天皇)の間には()(だか)(おう)(じょ)()()皇子、吉備皇女の三人の子どもがいました。()()皇子が即位して文武天皇となった時、姉の氷高皇女は既に十八歳になっていました。この時代なら結婚して子供がいてもおかしくない年頃ですが、即位した弟はまだ十五歳です。祖母の持統太上天皇は高齢ですし、母の阿閇皇太妃も既に中年です。そこで長女の氷高皇女に白羽の矢が立ったのでしょう。氷高皇女は祖母と母から気の良い弟、文武天皇を補佐するように要請されていたのではないでしょうか?

 あるいは氷高皇女自身が宮廷の頂点に立つという野心を持っていたとしたらどうでしょう。皇后になるにしても父母が同じ実の弟が皇位継承者ですから結婚する訳にはいきません。他の皇子と結婚して皇后になろうとすると実の弟と皇位継承で争うことになります。それは草壁皇子の血統で皇位を継承させようと尽力している祖母(持統天皇)や母(元明天皇)と対立するということでもあります。氷高皇女は、わが子を即位させて皇太后になるよりも弟を補佐することで、朝廷に参加する道を選んだのではないでしょうか。そして結婚しなかったというのは、たとえ文武天皇に皇子が出来たとしても皇子が幼いうちに天皇に万一のことがあった場合は文武天皇の血統で皇位を継がせるための中継ぎとして自ら女帝になっても良いという覚悟があったのでしょう。氷高内親王が譲りを受けた時、彼女は既に三十五歳になっていました。元正天皇は結婚よりも仕事を選んだ女性ともいえます。


 元正天皇が即位した頃は藤原不比等が勢力を拡大し朝廷の中心人物となっていました。新天皇はまず、この藤原勢力と対峙しなければなりませんでした。もし藤原一族が謀叛を起こすような勢力なら朝敵として排除することができたでしょうが、不比等は娘を文武天皇と(おびと)皇太子のもとに送り込み、外戚として朝政に干渉してきました。また不比等が私利私欲に走り、(まつりごと)を私物化する人物なら国に害をなす者として排除する事も出来たでしょう。しかし藤原不比等は有能な政治家でした。もともと藤原氏のルーツである中臣一族は神主の家系でした。元正天皇の御代には仏教が日本に入って既に二百年近くの月日が流れており、もはや朝廷の政策決定に神のお告げを承る神主の出番はありません。そこで不比等は神のお告げに代わる物を唐の制度から学びました。律令制度です。不比等は大宝律令や養老律令の編纂に生涯を捧げた人です。法整備だけではありません。不比等は平城京遷都を元明天皇に進言した人ですが、平城京は唐の長安をモデルにして造られた都です。不比等は、この国を古代から続く豪族の寄合のような政府ではなく先進的な中央集権国家へと造り変えようとしました。不比等は律令国家の基礎を作った政治家なのです。その業績ゆえに元正天皇は藤原氏を排除する事も出来ず、しかも油断をすると権力を乗っ取られてしまう恐れがある強敵だと感じていたのではないでしょうか。

 元正天皇は(おびと)皇太子が朝廷を見学するようになってもまだ年少であるからと伯父の舎人皇子などに補佐を要請しています。さらに第三十代()(だつ)天皇の(やし)(ゃご)にあたる()()王を筆頭に当時第一級の知識人十六人に詔して(おびと)皇太子にみっちりと帝王学を叩き込みました。その後、不比等が亡くなると舎人親王を知太政官事に任命、翌年には従兄弟で義弟(妹の夫)でもある長屋王を右大臣に任命し、皇親政治(皇族が政治の要職につき皇族中心の政治をすること)を推し進めました。

 元正天皇の業績としては三世一身法を発布して、良田の開墾を促したことがあげられます。そして在位十年にして(おびと)皇太子に譲位します。祖母と母の宿願であった草壁皇子の血統を継いだ聖武天皇の誕生です。元正天皇は譲位した後も、太上天皇として六十九歳で崩じるまで反藤原勢力の中心人物となりました。

 以上、長くなりましたが祖母、母、娘の三代にわたる女帝の物語でした。


 では話を十市皇女に戻しましょう。十市皇女の母、額田王は大海人皇子と天智天皇の二人に愛されましたが皇子はできませんでした。

 (とお)()皇女は成長して天智天皇の第一皇子と結婚します。夫となった大友皇子は詩歌に優れたなかなかの秀才だったようで、天智天皇は優秀な息子に期待をしたのか大友皇子を史上初の太政大臣に任命し、さらに「皇位は父から息子へと継承される (不改常典)」という法を定めました。そのころ皇太子だった大海人皇子は空気を読んで「修行に行きます」と吉野に籠ってしまいました。

 (とお)()皇女は大友皇子との間に男子がいます。天智天皇が崩御し、大友皇子が即位すれば皇后に、さらに我が子が即位したら皇太后となる将来が拓けたと思ったのも束の間、夫と父が皇位継承を巡って対立したのです。この対立は全国の豪族を巻き込み大混乱となりました。争いは一ヶ月に及びましたが、結果は大友皇子の敗北、自害で乱は幕を閉じました。

 そして(とお)()皇女の父である大海人皇子が即位して天武天皇となり、皇后の座は父の正妃 (()()皇女) に奪われてしまいます。天智天皇が決めた法律では帝位は父から息子へと引き継がれるもの。異母弟がいっぱいいる(とお)()皇女は、夫亡きあと自らが女帝となりわが子に帝位を譲るという望みも絶たれたのです。

 後に「壬申の乱」と呼ばれるようになったこの乱のきっかけが何だったのかは分かっていません。というのは現在に伝えられているのは勝者側の記録だけなのです。その記録(日本書紀)によると「大海人皇子は皇太子(正式な皇位継承者)であったが、天智天皇が我が子可愛さのあまり約束を破って大友皇子を皇位継承者にすると仄めかし、大友皇子は目障りな大海人皇子を亡き者にするために兵を集めた。それを知って大海人皇子が決起した」という事になっています。

 現在の教科書を見ると大友皇子は即位した事になっていますが、『日本書紀』には大友皇子が皇太子になったとも、即位したとも書かれていません。時代が下がって平安時代になってから「大友皇子は即位してたんじゃね? 知らんけど」という記述が出てきます。さらに時が流れて江戸時代になると、学者たちが「日本書紀を書いたのは天武天皇の息子だから大友皇子が即位した事をわざと省いたんじゃね?」というようになり、明治政府がそれを認めて明治三 (一八七〇) 年、弘文天皇と(つい)()(死後に(おくりな)を贈る事)して第三十九代天皇としたのです。大友皇子の没後、実に千百九十八年後のことでした。つまり(とお)()皇女が生きていた時代、大友皇子はただの逆賊であり、(とお)()皇女は逆賊の妻でしかなかったのです。


 伊勢参りに行った時、(とお)()皇女は二十六歳になっていました。同行した()()皇女はまだ十四歳、お箸が転げても可笑しい年頃です。一行が三重県の横山に来た時、川の水に洗われてキラキラ光る岩を見て無邪気に喜ぶ()()皇女を十市皇女はどんな思いで見ていたのでしょうか。父帝と()()皇后の間にできた草壁皇子は、そのころ十三歳で()()皇女と年齢も釣り合います。そして皇后は()()皇女の異母姉にあたります。数年も待たずに二人の縁談は整うでしょう。成功の階段を着実に登っていく()()皇女と、傍流に押し流され飲み込まれてしまった自分。失敗した人生。皇女であり、第一皇子と結婚し、男子を産む。最高の物を与えられ、常に最善の選択をして来たはずなのに、最悪の結果を招いてしまった。()(ふき)(のと)()は失意の日々を送る(とお)()皇女を元気づけようとこの歌を詠んだのではないでしょうか。

 実は()(ふき)(のと)()の詳しい経歴は何も伝わっていません。現代でも事件の関係者は「親族の女性」みたいに身元が分からないように配慮しますが、()(ふき)(のと)()は「逆賊の妻」に仕えた女性です。係累が巻き込まれないように敢えて身元を詳細に残さなかったのかも知れませんね。


 十市皇女は()(ふき)(のと)()の願いも虚しく、この歌が詠まれた三年後、急病で亡くなります。享年三十歳。あまりに急死だったので今でも自殺説や暗殺説が囁かれています。

































 参 梅柳




























 ちょっとふざけただけなのに

 そりゃ廊下を泡だらけにしたのは悪かったと思ってる

 けどこんなんで自宅謹慎とかキツすぎないか

 まるで学校を爆破したみたいに騒ぐのな














 













(うめ)(やなぎ) ()ぐらく()しみ ()()(うち)(あそ)びしことを (みや)もとどろに

                       (六・九四九)


  梅や柳が散ってしまうのを惜しんでちょっと佐保の内に遊んだだ

  けなのに宮廷中に轟くほどに騒ぎ立てることよ。













【解説】

 事件は神亀四年(七二七)の初春におきました。厳しい寒さも和らぎ梅や柳の芽が膨らんだ枝で鶯が鳴いているような麗らかな春のある日、宮中の皇子や舎人(宮中の警護などをする下級役人)たちが春日野(現在の奈良市東部の春日大社あたり)に繰り出したと記録にあります。しかし歌では春日野より宮中に近い佐保の内(平城宮の東北部、現在の奈良市法華寺町、法蓮町あたり)と詠まれています。記録と供述とが食い違っていますが真相は分かりません。

 ともかく若者たちはそこで(まり)(うち)に興じていました。(まり)(うち)というのは毬を杖状のもので打って相手の(きゅう)(もん)に入れる遊びで、ペルシャ発祥のポロがシルクロード伝いに日本にやってきたものが原型と言われています。現在でも(ぎっ)(ちょう)という球技が日本に残されていますが(まり)(うち)(ぎっ)(ちょう)のルーツなのでしょうか。鳥獣戯画の後ろの方に(ぎっ)(ちょう)で遊ぶ僧侶の絵が描かれていますが、絵を見るとホッケーのようなゲームみたいです。また一説では(まり)(うち)()(まり)のことではないかと言われています。(ぎっ)(ちょう)()(まり)は現在でも保存会があり細々と継承されていますが、当時は野球やサッカーのようなポピュラーなボールゲームだったのでしょう。

 いずれにせよ若者たちが(まり)(うち)を楽しんでいた所に突然、春の嵐がやってきたのです。霞棚引く麗らかな春の空が一天俄にかき曇り、稲光とともに雷が鳴り響き横殴りの雨が降ってきました。当時このような天変地異は(あら)(たま)(まがつ)(かみ)のような人ならざるものの仕業と恐れられていました。そして宮中がこのような危機に見舞われた時に備えて、舎人たちは警備に立つ配置なども細かく決められていたのですがこの日、宮中に人ならざるものが入り込み大音量で雷鳴を轟かせるという狼藉を働いている間、天皇のお側に仕えて警護する侍従や侍衛は誰一人いなかったのです。

 職務怠慢を厳しく咎められた若者たちは(じゅ)(とう)(りょう)に留め置かれ外出禁止令が出されました。授刀寮というのは帯刀して宮中を警備する舎人を管理する役所です。現在でいう警備兵の詰所のようなところなのでしょう。萬葉集にはここで紹介した歌の前に、軽はずみに遊びに出たことを後悔する反省文のような歌があるのですが、ゴメンナサイをしたのに罰が解けないのが不満だったのでしょうか。「この歌は罰を受けたうちの誰かが詠んだものであろう」と最後に記されていました。

 以上、萬葉集の記述に解説を交えながら現代語訳しました。萬葉時代のお前らの歌です。







































 肆 夏野之




























 あなたが友達とふざけながら歩いて行った

 その足元に小さな花が咲いているよ

 あなたが振り向きもせず通り過ぎて行った

 その足元に小さな赤い花が咲いているよ



























 (なつ)()(しげ)みに()ける (ひめ)()()()らえぬ(こい)(くる)しきものぞ

                       (八・一五〇〇)


  夏の野の草むらにひっそりと咲いている姫百合、それが人に気づ

  かれないように、あの人に知ってもらえない恋は、苦しいもの

  です。












【解説】

 雑草という草花はありません。どんな草花にも名前が付いています。萬葉の時代、植物は食べ物であり、薬であり、染料であり、香料であり、魔除けや願い事に使う呪具であり、日用品や衣服の原材料であり、装飾品でもあったのです。現代人が店に行ってパッケージされた物を買うように萬葉人は野山へ行き必要な草花を摘んでいたのでしょう。現代人が雑草と十把一絡げにしている植物も萬葉人に見せたらたちどころにその草花の名前や用途を答えたことでしょう。

 草花に疎い現代人ではありますが桜だけは別格のようですね。日本人の桜好きは今や世界中に認知されています。試しにネットで「タイトルに桜がつく花」を検索したら二〇件以上ヒットしました。詳しく資料を探したらもっといっぱいあるのでしょう。そして萬葉人は現代人と違い桜以外の植物も当然の如くよく知っていました。萬葉集には桜だけではなく、梅、松、柳、春の七草、秋の七草、一年草、多年草と何種類もの草花が出てきます。有名どころの桜や梅、松、柳などは二〇から三〇首以上の歌があります。草花も含めると全部で何首くらい植物の歌があるのか見当もつきませんが、とにかくいっぱいあります。百合の歌もいくつかあるのですが姫百合を詠んだ歌は実はこの一首だけなのです。姫百合は植物のエキスパートである萬葉人にも注目されない地味な花だったのでしょうか。

 というわけで、クラスで誰からも注目されない、おそらく名前を呼ばれることもない地味な女の子(男の子)の密かな想いを妄想してみました。


 この歌の作者は(おお)(ともの)(さかの)(うえの)(いらつ)()といいます。大伴一族は祖先が『古事記』に名前が出てくるくらいの由緒正しい名門一族です。(さか)(がみの)(いらつ)()は当時の大伴家の家長であった旅人の異母妹で、旅人亡き後は家刀自(女主人)として大伴一族の中心人物となります。萬葉集に(さか)(がみの)(いらつ)()が祖先の祀で詠んだ歌が残っています(三・三七九)。自分の出自を誇りに思っていたのでしょうか、その歌の出だしで「高天原から生まれ現れて来た先祖の神よ」と呼びかけています。

 (さか)(がみの)(いらつ)()は恋愛遍歴もなかなか華やかで最初、天武天皇の第五子である穂積皇子の妃となり、皇子と死に別れた後、藤原不比等の息子で藤原四卿の一人であった麻呂と浮名を流し、その後異母兄である宿(すく)()()()と結婚して(おお)(いらつめ)(おと)(いらつめ)の二人の娘を産んでいます。才気煥発な女性で、萬葉集には女性としては最多の歌を残しています。生年は分かりませんが七八一年没と記録に残っていて、大伴一族の長として聖武天皇に挨拶の歌を贈ったりしています。

 この人が現代人だったら、由緒正しいセレブで上流階級の社交界の華形として週刊誌に様々なゴシップ記事を書き立てられ、さらに数々のヒット作を生み出す流行作家としてワイドショーのレギュラーコメンテーターになって「アテクシは」とか言ってそうだなぁと、まぁ妄想なんですけどね。

 作家として、主婦として、母として大活躍の(さか)(がみの)(いらつ)()ですが二人の娘が適齢期になると娘の結婚問題に孤軍奮闘します。この時代は妻問婚といって夫婦は結婚してもしばらくは同居せず、夫が妻のところへ通って来る風習でした。妻は実家で出産し子どもが小さいうちは実母の下で子育てをします。そして子どもの結婚相手に関しては母親に絶対的な決定権がありました。といっても母親は息子の結婚相手には無関心です。妻問婚なので息子はどこかへ出かけて行くのですが、母は息子にどこへ行くのかと問い詰める事はありません。その代わり、娘の元に通ってくる男には大いに口出しします。萬葉の時代には嫁姑の問題はありませんが、実の母娘の間には丁々発止のやりとりがありました。ましてや大伴一族は名門中の名門です。一般庶民のように街角や歌垣で知り合ったどこの馬の骨ともわからない男を引っ張り込まれたら溜まったもんじゃない、というわけで(さか)(がみの)(いらつ)()は娘が適齢期を迎える前に、娘に相応しい男を物色してさり気なく娘と引き合わせたりしていたのでしょう。

 (さか)(がみの)(いらつ)()は旅人の異母妹でしたが、旅人亡き後は家刀自(女主人)として旅人の息子の(やか)(もち)の後見もしていたので(やか)(もち)は少年の頃から(さか)(がみの)(いらつ)()の所を頻繁に訪れていて(おお)(いらつめ)とは幼い頃から顔馴染みだったようです。萬葉集に(おお)(いらつめ)(やか)(もち)に贈った歌が幾つかあるのですが、ここで最初の二首を紹介します。


 ()きてあらば ()まくも()らず (なに)しかも ()なむよ(いも)

 (いめ)に見えつる

                       (四・五八一)

  生きていたら逢える日が来るかも知れないのにどうして夢に

  出てきて死んでしまうだなんて言ったのですか


 ますらをも かく()いけるを たわやめの ()うる(こころ)

 たぐいあらめやも

                       (四・五八二)

  強いますらをだってこんなふうに恋をするものなのですね。

  ましてやか弱い女の恋する心に太刀打ちできるものがあるで

  しょうか


この歌は(やか)(もち)から贈られた歌に応えたものらしいのですが、残念ながらこのとき(やか)(もち)が贈ったとされる歌は残っていません。注を見るとこの歌は(おお)(いらつめ)が十歳の頃に詠んだものだそうです。十歳というと現代では小学生です。小学生でこんな歌を詠むとは、萬葉人恐るべし。

 しかし、(おお)(いらつめ)(やか)(もち)はこのあと数年間、交流が途絶えます。数年後、適齢期になった(おお)(いらつめ)(やか)(もち)


 (わす)(ぐさ) ()(した)(ひも)()けたれ (しこ)(しこ)(ぐさ) (こと)にしありけり

                       (四・七二七)

  忘れ草を下紐に付けたけれど、役立たずの草め、忘れ草とは名前

  だけでした。あなたの事が忘れられません


という歌を贈って二人はまた付き合い始めますが、家持はこの歌とは別に次のような歌を贈っています。


 (ひと)もなき (くに)もあらぬか ()(ぎも)()と たづさわり()きて

 たぐいて()らむ

                       (四・七二八)

  邪魔者の居ない国は無いものか。あなたと手を携えて行って、

  ずっと二人一緒にそこに居たい


この歌に(おお)(いらつめ)は次のように返事しています。


 ()わむ(よる)は いつもあらむを (なに)すとか その(よい)()いて

 (こと)(しげ)きも

                       (四・七三〇)

  お逢いできる夜は他にもあったでしょうに何であの夜に逢ったの

  でしょうか。人の噂がうるさいことです。


二人の交流が一時期途絶えたことについて新潮社版の萬葉集の注に「なぜ離れていたか不明」とありますが、どう考えてもこれが理由でしょう。恐らく二人並んで月でも眺めていたところをパパラッチされちゃったんでしょう。大伴一族と言えば神代にまで遡る名門で、(おお)(いらつめ)の母は一族の女主人であり家持は次期家長です。世紀のビッグカップル誕生に萬葉雀たちは、色めき立ったのではないでしょうか。(さか)(がみの)(いらつ)()は当然その心づもりだったのでしょう。(さか)(がみの)(いらつ)()が詠んだこんな歌があります。


 ()でて()なむ (とき)しはあらむを ことさらに (つま)(ごい)しつつ

 ()ちて()ぬべしや

                       (五・五八五)

  お帰りになる時機はいくらでもあったのに妻に心惹かれながら

  行ってしまうなんてことがあってよいものでしょうか


これは来客を引き留める歌です。引き留めている客は家持で妻とは(おお)(いらつめ)をさします。(さか)(がみの)(いらつ)()が二人を揶揄(からか)っているのですが、親の許しも得ていよいよ婚約間近という噂が広まったのではないでしょうか。親も公認とはいえ(おお)(いらつめ)はまだ十歳、結婚にも婚約にも早すぎます。(さか)(がみの)(いらつ)()は今、何か言うのは二人の将来のためにならないと敢えて沈黙を守ったのでしょう。そこで萬葉雀たちは家持青年に突撃したのではないでしょうか。もしこの時代に現代の芸能レポーターがいたら、連日大騒動になっていたことでしょう。

「家持さぁん、(おお)(いらつめ)さんとはどんなお話をされているんですかぁ?」

「家持さぁん、(おお)(いらつめ)さんと将来についてもお話されているんですかぁ?」

「家持さぁん、(さか)(がみの)(いらつ)()さんはお二人について何か仰ってますかぁ?」

「家持さぁん、(さか)(がみの)(いらつ)()さんは家持さんのお母様がわりですが、ご自身の結婚問題についても相談されているんですかぁ?」

「家持さぁん、()()()()とはよくお会いになりますよねぇ、その時に(おお)(いらつめ)さんも同席されているんですかぁ?」

「家持さぁん、何か一言お願いしまぁす!」

「家持さぁん!」

「家持さぁん!」

 まあさすがにこの時代に芸能レポーターは居なかったでしょうが、(おお)(ともの)宿(すく)()(やか)(もち)のようなビッグネームの結婚問題は宮中の女官たちの大好物です。大伴邸に仕える下女たちなどの諜報網も抜かりありません。家持と(おお)(いらつめ)が二人だけで会っていたとか、家持が(おお)(いらつめ)に歌を贈ったなんてことがあったら「すわ! いよいよ婚約か!」と、燎原の野火の如く宮廷中に噂が広がってしまうことでしょう。(おお)(いらつめ)の結婚についての決定権は母の(さか)(がみの)(いらつ)()にありますが、(さか)(がみの)(いらつ)()が何も言わない以上、家持からは否定も肯定もそれを仄めかすことさえできません。でないと母を蔑ろにして二人が暴走したとか、どんな噂が立つか分かりません。数年間、沈黙を守りとおし(さか)(がみの)(いらつ)()から結婚の許しが出たので二人はまた付き合い始めたのでしょう。二人が復縁していよいよ結婚かという動きに萬葉雀たちはさぞかし大騒ぎしたのではないでしょうか。二人の再会後、(おお)(いらつめ)


 ()()はも ()()()()()()ちぬとも (きみ)()()たば

 ()しみこそ()

                       (四・七三一)

  私の浮名が幾ら立っても構いませんが、あなたの浮名が立った

  なら、悔しくて泣いてしまいます。


と言う歌を贈っていますが、家持は


 (いま)しはし ()()しけくも ()れはなし (いも)によりては

 ()たび()つとも

                       (四・七三二)

  今はもう、私の名など惜しくはありません。あなたのせいで

  浮名が千回立ったとしても


と応えています。その後、家持は(おお)(いらつめ)に怒濤のごとく歌を贈っています。こうして無事に、(おお)(いらつめ)(やか)(もち)の正妻になります。二人が別れていた間、家持は名前を出さないけれど誰か娘子に「あなたに逢いたいけど逢えない」みたいな片思いの歌を詠んでいますが、これは(おお)(いらつめ)を想定しているのではないかと言われています。何にしても二人の交流が途絶え、愛を育む時間を十分取れなかったことに、(さか)(がみの)(いらつ)()母さんはずいぶんヤキモキしたのではないでしょうか。


 (おお)(いらつめ)の結婚問題と並行して、(さか)(がみの)(いらつ)()は次女の婚活にも精を出します。ある日、身内の宴会の席で(おお)(ともの)宿(すく)()駿(する)()()()


 (やま)(もり)の ありける()らに その(やま)(しめ)()()てて ()いの(はじ)しつ

                       (三・四〇一)

  山の番人がいるとも知らず、しめ縄を張り巡らせて恥をかき

  ましたよ


と歌いかけます。え? 何のこと? と思いますが、この時代の上流階級は「京のぶぶ漬け」どころではない、うんと遠回しに仄めかすのが上品で知的な会話とされていていたのです。この歌を聞いて頭に?マークを浮かべているようでは「何と察しの悪い無粋人ですこと。ぬほほほほ」と笑われてしまいます。駿(する)()()()は大伴一族として上流階級の教育を受けていますから、(さか)(がみの)(いらつ)()の歌にすかさず


 (やま)(もり)は けだしありとも ()(ぎも)()()いけむ(しめ)(ひと)()かめやも

                       (三・四〇二)

  仮に番人がいたとしても、あなたが張り巡らせた縄を解く者

  などいません


と答えます。「ちょ、意味わからん」という現代人のためにこの歌を意訳すると(さか)(がみの)(いらつ)()駿(する)()()()に「うちの娘の結婚相手はあなたが良いと思うんだけど、あなたに決まった人がいるなら大恥ですね」と問いかけて駿(する)()()()が「仮にいたとしてもあなたに見染められたのなら断れませんよ」と答えたのです。上流階級ってめんどくさい。以下、直訳しても意味が分かりにくい歌は意訳を付けておきますね。

 余談ですが、この時代は一夫多妻なので妻が何人いようが関係なかろうと思うかもしれませんが、実は男は正妻を一人しか持てないのです。通っていく女性が何人いようと制限はありませんが、正妻以外の女性は妾と呼ばれます。例えば(おお)(いらつめ)(やか)(もち)の正妻となりましたが、(やか)(もち)には(おお)(いらつめ)以外にも関係を持った女性が何人かいました。萬葉集に「(おお)(ともの)宿(すく)()(やか)(もち)(ぼう)(しょう)()()しびて作る歌(三・四六二)」という歌が載っています。もっとも妾といっても現代人がイメージするような日陰の存在ではなく正妻に次ぐ者として社会的に認められてはいました。とはいえ(さか)(がみの)(いらつ)()は次女を駿(する)()()()の妾になどする気はありません。だから「あなたには正妻はいないわよね」と確認したのです。というのも(さか)(がみの)(いらつ)()の娘は正妻になる以外はあり得ないのです。なぜなら大伴家は祖先が神代にまで遡れるくらい由緒正し…(以下略)

 ともあれ(さか)(がみの)(いらつ)()に促された駿(する)()()()はさっそく(おと)(いらつめ)にアプローチします。しかしこのとき(おと)(いらつめ)が何と返事したのか分かりません。なぜかというと萬葉集には(おと)(いらつめ)の歌が一首も載っていないのです。駿(する)()()()への返歌だけではなく、それ以外の情景や季節を詠んだような歌もないのです。わずかに駿(する)()()()がアプローチした時の歌(三・四〇七)の題詞に「(おお)(ともの)宿(すく)()駿(する)()()()、同じき坂上家の(おと)(いらつめ)(つまど)ふ歌」と、その名前が見えるだけなのです。(おと)(いらつめ)には歌の才能がなかったのでしょうか。うん、萬葉人といっても大したことない人もいる。(おと)(いらつめ)の反応のなさに駿(する)()()()


 (ひと)()には ()()(なみ)しきに (おも)えども なぞその(たま)

 ()()きかたき

                       (三・四〇九)

  一日のうち何度も繰り返す波のように、手に入れたいと繰り

  返し思っているのに、どうしてあの玉を手に巻くことができ

  ないのか


と嘆くと、(さか)(がみの)(いらつ)()(おと)(いらつめ)に代わって


 (たちばな)を やどに()()ほし ()ちて()(のち)()ゆとも

 (しるし)あらめやも

                       (三・四一〇)

  橘を我が家に植えて育てて、立ったり座ったり気を揉んだ

  あげく人に取られて後悔して、何の甲斐がありましょうか。

  意訳:適齢期の娘が居ると気苦労が絶えません


という歌を詠みます。大伴一族の祖先は天孫降臨のとき先導を務めたという武人です。駿(する)()()()の祖父も壬申の乱で功績を挙げた武人でした。孫の駿(する)()()()も後年、陸奥の蝦夷の制圧に向かっている武人で男気のある人だったのでしょう。この歌に応えて


 ()(ぎも)()が やどの(たちばな) いと(ちか)()えてし(ゆえ)に ならずはやまじ

                       (三・四一一)

  あなたの庭の橘は、すぐ近くに植えてあるのですから実らせ

  ずにはおきません。

  意訳:この恋、必ず実らせてみせます


と宣言します。(さか)(がみの)(いらつ)()駿(する)()()()を頼もしく感じたのでしょうか


 ひさかたの (あめ)(つゆ)(しも) ()きにけり (いえ)なる(ひと)()()いぬらむ

                       (四・六五一)

  夜が更けて空から露や霜が降りました。家の人も待ち焦がれ

  ているでしょう。

  意訳:娘が待っているから早く行ってあげて


と歌っています。こうして無事に二人の娘を意にかなった相手と結婚させた(さか)(がみの)(いらつ)()


 (たま)(もり)(たま)(さず)けて かつがつも (まくら)()れは いざふたり()

                       (四・六五二)

  大切な玉は番人に下げ渡したし、やれやれ私は枕と二人で

  寝ましょうか。

  意訳:娘は二人とも意に叶う男と結婚させたし、さあ枕を高

     くして寝ましょうか


と肩の荷を下ろしたのでした。

 家持は(さか)(がみの)(いらつ)()の甥になりますが駿(する)()()()(さか)(がみの)(いらつ)()()()()の子ども((いとこ)(おい))になります。(さか)(がみの)(いらつ)()駿(する)()()()は普段から季節の挨拶がわりに歌を贈答して消息を伝え合っていますが、それらの歌は恋の歌が多いです。別にこの二人が道ならぬ恋に落ちたわけではなく、この時代の貴族は友人知人の間で挨拶代りに恋の歌をやり取りしていたようです。(さか)(がみの)(いらつ)()は大伴一族の代表として聖武天皇に歌(四・七二五、七二六)を贈っていますが、これも恋の歌です。と言っても天皇陛下を口説いているわけではなく、これからも大伴一族をご贔屓にという願いを込めた挨拶の歌なのです。駿(する)()()()に贈った恋の歌も、気の利いた歌も詠めない不調法な娘に成り代わっての歌なのでしょう。

 その他にも(さか)(がみの)(いらつ)()はいろいろな歌を詠んでいます。老いらくの恋を遊びで詠んだもの(四・五六三、五六四)やら女の恋の情念を詠んだ怨恨歌(四・六一九、六二〇)やら、中には


 ()むと()うも ()(とき)あるを ()じと()うを ()むとは()たじ

 ()じと()うものを

                       (四・五二七)

  あなたは来ようと言いながら来ない時もあるのに、来ないと

  言うのに来るかもしれないと待ったりしませんよ。来ないと

  言うのだから


という「デンデラ竜」みたいな楽しい歌もあります。萬葉集を読むと(さか)(がみの)(いらつ)()の歌はたくさんあるのですが、確かに才能はあるんだろうけれど、なんか技術に頼って本心を飾り立ててるみたいだなあと私は感じます。今回紹介した姫百合の歌も自分が片思いで辛かった体験というよりもウケを狙った()()()()を感じなくもない。この人の歌の中では家を留守にする時に寂しがる娘の(おお)(いらつめ)に贈った歌(四・七二三、七二四)などが素直な感情が出ているようで(さか)(がみの)(いらつ)()の歌の中では一番好きです。え? 私の好みなど訊いてない? サーセン。









































 伍 大夫哉















 通学路を歩いているだけであちこちから女子の視線を感じる。視線を意識してカッコ付けてると思われるのもシャクなので、どってことないって顔で前を向いて歩いてく。教室に入ると何気にクラスメイトを見渡す、けどやっぱりアイツはオレなんて見向きもしない。

 オレ、クラスでは人気者なんだよね。女子だけじゃない、男どもにも好かれてる。今日もクラスメイトの男どもがオレの周りを囲んでくる。というのもオレと居ると必然的に女子の注目を浴びる事になり、見る角度のよっては「ちょ、あの友だちもイケてんじゃん」なんて展開にならんとも限らない。てか、そんな展開を期待して近づいて来る男も結構いる。ま、オレとしては友好的に近づいて来られて悪い気はしないし、嫌な奴じゃ無かったら軽く友だちとして付き合っていける。気さくで友だちが多いってのも女子目線ではポイント高いんだ。ただ一人オレの彼女を除いては、だけど。

 俺の(いま)カノは俺に近づいてくる女子の中ではダントツに可愛いかった。ビジュアル的にはオレとは釣り合うし、側に置いとくには十分イケてるって思ったんだよね。別に告白した訳じゃないけど「オレの隣に居ていいよ」って態度でいたらチャッカリと彼女のポジションに収まったんだけど、とにかく今カノの女王様体質にはウンザリしてる。正直二人で居ても大して楽しくない。オマエの鞄に付いてるマスコットキャラの名前なんて知らねーし。そんな時、ついアイツのことを考える。例えばアイツがクラスメートや部活の仲間と話してるのを見て、どんな話をしてんだろうなぁ、とか。まあキッカケが無いからその輪の中になかなか入り辛いんだけどね。

 いつからアイツの事を意識するようになったのか、よく覚えていない。いつだったか放課後のクラブ活動でオレらサッカー部の横で陸上部が黙々とダッシュを繰り返していた。アイツはその中にいた一人。顧問の先生に手招きされてアイツは駆け寄り、何か言われて「あざまぁす」とか言って、またひたすらダッシュ練習を繰り返していた。またある日には「顎を引け」だの「もっと地面を蹴れ」だの言われながらアイツは黙々とグラウンドを走り続けていた。美人でもないしスタイル抜群ってわけでもないのに、いつからかそんなアイツを目で追いかけるようになっていた。

 最近、なんかいっつもアイツの事を考えてるような気がする。同じ教室にいるとつい目線がアイツを追いかける。今カノも気付いているっぽいけど、アイツをガン無視してくっだらない話を振ってくる。俺は生返事をしながら全力でアイツから意識を引き剥がす。

 いや付き合いたいとか彼女にしたいとか、そんなんじゃない。断じてない。ただ友だちになりたい。アイツと一緒にどってことないバカ話をして笑いたい。でもどうやればいいんだろう。「お友達になって下さい」的なこと言うのか? このオレが。考えてみたら今までオレの方から近づいたヤツっていないんだよな。男でも女でも、いつでも向こうの方から近づいてくる。オレはそいつと友達付き合いするかどうかを決めるだけでよかったんだよ。

 どうすればアイツはオレに興味を持ってくれるんだろ。なんでアイツがこんなに気になるんだろ。てか、なんでアイツはオレに無関心なんだよ。なんでオレは、オレに無関心なヤツのことをこんなに四六時中考えてんだよ。



 オレ部長だしエースだし、今まで何度も告られてるし、

 なんで片思いなんかしてんだよ。まじダセーよな、

 でも好きなんだ





















 ますらをや (かた)(こい)せむと (なげ)けども (しこ)のますらを

 なお()いにけり

                     (二・一一七)


  ますらおたる者、こんな片恋なんかするものかと、しきりに

  わが心に言いきかせて抑えに抑えるのだが、とんだますらお

  だ、それでもやっぱり恋い焦がれてしまう。












 スクールカーストというものがあるらしい。英語の得意なリサちゃんがネイティブみたいな発音で「クィンビー」とか「プレッピー」とか解説してくれたけど、私はそういうのを全部ひっくるめて「あっち側の人たち」と呼んでいる。リサちゃんはそれを聞いて「あっち側ってどっち側だよ」と言ってギャハハと笑った。

 私は物を考えるのは得意じゃない。あっち側はあっち側、人気者っての? 皆の注目を集める光り輝く人たちのいるところ。だからってこっち側にいるのはネクラばっかとか、そんなじゃない。別にフツー。

 私なんか思いっきりフツーだと思う。特に勉強ができる訳じゃない。取り柄と言えば走るのが好きな事くらい。とはいえ短距離走をやるほど瞬発力はない、長距離走をやるほど持久力もない、というわけで私がやってるのは、あんまし注目されない中距離走。でも特に才能があるわけじゃない。十人いたら二位か三位。百人いたら二十位か三十位。千人いたら二百位か三百位。高校女子平均よりは速いけど注目浴びる程じゃない。フツーでしょ?

 でも走るのは好き。毎日ジミで単調な練習の繰り返しだけど、自己ベストを更新できたらやっぱり嬉しい。何も考えずにひたすら走って、家に帰ったらもうクタクタ。お風呂はいってご飯たべてベッドに倒れこんで気がついたら朝になってる、そんな毎日が好き。

 ウチの部のトラック競技にはスター選手と言われるような子はいない。今は駅伝大会に向けて練習してるけど、皆あまり勝負にはこだわっていない。みんな自己記録を更新できたらいいね、みたいなノリでプレッシャーをかけ合うこともない。実にヌルいチームで顧問の先生を嘆かせている。でも手抜きとかダレてるわけじゃない。みんな練習は一生懸命やってるし。

 今日も部活に行こうとしたらグラウンドの入り口でサッカー部の部長が早くもリフティングなんかをしている。練習熱心なのはいいけど、なんでここでするかなぁ。サッカー部の部長ってのは簡単にいうと「あっち側の人」。人気があってギャラリーがいっぱいいて、こういう所で練習されると、かなり邪魔。そのギャラリーの中に私が「女王さん」と呼んでいる子とその取り巻きグループもいて思いっきりこっちを睨んできた。女王さんはウチのクラスで一番可愛い子。そしてこの子も「あっち側の人」。読者モデルっての? 雑誌に載ったことがあるとかで、ウチの学年では芸能人扱い。リサちゃんなんかは女王さんとも気安く話すけど、私は別に話すこともないし挨拶するくらい。でも別に嫌いじゃないし、特に私が嫌われてるとは思わなかった。そいや昨日も、教室で女王さんの取り巻きが私のスポーツバッグを蹴飛ばして行った。まあ、あんなとこに置いといた私が悪いんだけど「あ、ゴメ」と言った私を、その子は見向きもせずに行ってしまった。私、なんかしたっけ?

 蛇に睨まれた蛙みたく入口で固まっていたら、運良くそこにウチの部長がやって来た。バリバリ体育会系の部長はチャラい見た目の女王さんグループを毛嫌いしていて、「ほい、練習遅れるよ」と私を救い出してくれた。助かった。でも、こんなのがこれからも続くのかなぁ、なんか面倒いなぁ。



 最近なんかクラスで居心地悪いんだけど、その理由が今わかったし
























 (なげ)きつつ ますらをのこの ()うれこそ ()()(かみ)

 ()ちてぬれけれ

                        (二・一一八)


  ご立派な男の方が嘆き苦しんで恋い慕って下さるので、しっ

  かり結んだ私の髪がその嘆きの霧にびしょびしょに濡れてひ

  とりでにほどけたのですね。なるほど、道理のあることでし

  た。











【解説】

 今まで書いたものを読み返して「なんか学園成分薄いよなぁ」と思い、ちょっとばかり学園物を目指して書いてみました。一応、歌の解説もつけておきますね。


 この(二・一一七)の歌は新海誠さんの『言の葉の庭』で初めて知りました。この歌を読んだ私の第一印象は「エラい自意識過剰男だな」と言うものでした。で、こんな話をでっち上げてみました。この自意識過剰男の名は(とね)(りの)()()と言って天武天皇の第三皇子(一説には第五皇子)です。母は天智天皇の皇女で、血統は良いのですが、皇子と言っても三男坊(五男坊)だったわけで、特に帝位を狙っていたわけでもなさそうです。むしろ元正天皇に請われて(おびと)皇子(聖武天皇)を補佐したりしています。経歴を見てみると『当時の先進国であった唐の正史に匹敵する史書を作ろうと日本書紀を編纂した』とあります。文才はあったのでしょうが、江戸時代になって「親父(天武天皇)が皇位を横取りした事実を隠すため大友皇子が即位したという記録を削除した張本人」と学者たちから言われた人でもあります。

 この歌にある「しこ」というのは罵る言葉でここでは「醜」の字が当てられていますが、万葉仮名では「鬼」という字が当てられていて別にブサイクというニュアンスは無いようです。萬葉集に


 (わす)(ぐさ) (かき)もしみみに ()えたれど (しこ)(しこ)草 なお()いにけり

                     (十二・三〇六二)

  忘れ草というから垣にびっしり植えたのに、この役立たずめ

  恋しい気持ちが忘れられない


なんていう歌もあります。この歌に出てくる忘れ草というのは(かん)(ぞう)のことです。夏から秋にかけて黄赤色の花を付ける百合科の多年草で、中国では憂いを忘れさせる草と信じられていました。そういえば『肆 夏野之』で家持が大嬢に贈った歌にも忘れ草を「(しこ)(しこ)草」と歌っていましたね。この言いまわしは「結構毛だらけ猫灰だらけ」みたいな当時の定型文だったのでしょうか。

 この歌は(とね)(りの)()()(とね)(りの)娘子(おとめ)に贈ったものです。まあ平たく言うと口説いたのでしょう。しかし萬葉集にこの(とね)(りの)娘子(おとめ)の歌はこの返歌以外に一首あるだけです。(とね)(りの)()()(とね)(りの)娘子(おとめ)と舎人繋がりで何かあるのかと思って調べてみましたが、舎人というのは天皇や皇族の傍に仕えて警護や雑用をする下級役人ということで、今でいう警備員や用務員みたいなものではないかと想像しています。皇子の名前が警備員ってどうよと思いながら資料をめくっていたら(ふじ)(わら)(のお)(ぐそ)という名前を発見。第五〇代桓武天皇の夫人らしいのですが()(ぐそ)て(呆)

 いつだったかモンゴル人力士が「子どもにあまり立派な名前をつけて大切にすると魔物が『あれは良いものに違いない』と取り憑いたりするので、モンゴルでは子どもにワザと酷い名前をつける」と言っていたけれど、この時代の日本にも似たような迷信でもあったのでしょうか? 「皇子? いえいえただの舎人(とねり)(下級役人)でございます」みたいなノリの命名だったのかなぁ。この時代のネーミングセンスはちょっと分かりません。

 紹介した歌のちょっと後に舎人(とねり)(のき)()という人の歌があって、注には「舎人姓の女官か」とありました。もしかしたら(とね)(りの)娘子(おとめ)というのは下級役人の娘なのか、あるいは(とね)(りの)()()に仕えた女官だったのかも知れませんね。(とね)(りの)娘子(おとめ)の詳しい経歴は分かりませんが、千年以上経っても自分が詠んだ歌が残されているのを知ったら草葉の陰で小鼻を膨らませているのではないでしょうか。


 (とね)(りの)娘子(おとめ)の返歌にある「霧が出て髪の毛がびしょ濡れ」って何の事かと思いますよね。

 現代でも誰かが噂したらクシャミが出るとかいう迷信がありますが、この時代にはクシャミをすると思う人に逢えるという迷信がありました。その他にも着物の紐が解ける、或いは眉や耳が痒くなるのも恋しい相手に逢える前兆という迷信もあったようです。


 (まよ)()()(はな)(ひも)()()つらむか いつかも()むと

 (おも)える()れを

                     (十一・二四〇八)

  眉を搔き、くしゃみをし、紐も解けて待っているだろうか。

  いつになったら逢えるかと思っている私を


なんていう歌があります。そしてこれらの迷信以外にも誰かが嘆いて溜息をつくとその溜息が霧になって立ち昇るというものがあったそうです。例えば


 (おお)()(やま) (きり)()ちわたる ()(なげ)く おきその(かぜ)(きり)()ちわたる

                      (五・七九九)

  大野山一面に霧が立ち込める。私が嘆く溜息の風によって霧が

  立ち込める


という歌があります。想像するにこの時代、自然現象で霧が立ったら「誰かが自分の事を思って(ため)(いき)()いている」という勘違い女(男)が続出したんじゃないでしょうか。

 ところでこの迷信はいつ頃まで日本の常識としてあったのでしょう。時代は下りますが百人一首に「(むら)(さめ)(つゆ)もまだひぬ ()()()(きり)()ちのぼる (あき)(ゆう)(ぐれ)」という歌があります。「雨が降って濡れた真木の葉から霧が立ち上る秋の夕暮れ」という意味ですが、もしかしたらこの歌には「霧が立つほど溜息が出る物憂い秋の夕暮れ」というニュアンスがあるのかもしれませんね。

 それから霧で髪の毛が濡れて(ほど)けたら誰かが自分を想っているという迷信もあったようです。これを逆手にとってわざと髪の毛を解いて「恋しい相手が自分を想ってくれますように」という歌もあります。


 ぬば(たま)の わが黒髪(くろかみ)()きぬらし (みだ)れてなおも ()いわたるかも

                     (十一・二六一〇)

  私の黒髪を解きほどき、身も心も乱れて、なおも狂おしく

  あなたを恋し続けています


という歌なのですが「あの人を恋い慕っています」と言いながらなぜ黒髪を解くのかというと自分の髪を解くことによって「あの人も私を想ってくれますように」という呪術的な意味があったからなのです。呪術というとおどろおどろしいイメージですが、節分に豆を撒く、手のひらに人と書いて飲む、七夕の短冊に願い事を書くというのも呪術的な行為なのです。試験で百点取れますようにと短冊に書く暇があったら試験勉強する方が合理的ですが、いくら勉強しても不安は拭い去れません。だから人は不安を払拭する為に一見ムダに見える儀式を行うのです。

『壱 茜草指』で袖を振るのは愛情表現と書きましたが、実はこれも『(たま)()ばい』という呪術的な行為から来ています。日本人は昔から全ての生き物に魂があり、死んでしまうと魂は体から抜け出してしまうと考えていました。だから人が死ぬと、まだ近くにいるであろう死者の魂を呼び戻そうと死者の周りで袖を振ったそうです。また当時はたとえ死ななくても誰かの事を強く思うと魂は身体を抜け出して恋しい人の元へと飛んでいってしまうと考えていたようで、誰かに向かって袖を振るというのはその人の魂を自分の元に呼び寄せ、自分の事を想って欲しいという呪術的な意味があるのです。




















 陸 去年見而之
















 部屋に入ると、おばあちゃんがカラーボックスとベッドの間に挟まっていた。

「何やってるの?」と声をかけると

「ああ、アキちゃんお帰り。ホラ今夜は十五夜でしょう。ここからお月さんがよく見えるのよ。ね、下で月見団子を買ってきたの。一緒に食べない」

 おばあちゃんはそう言いながらカラーボックスとベッドの隙間から這い出て来て「アイタタタ」と独りごちた。

「寝る前に食べると太るからいい。それよりもう少し勉強したいんだけど」と私が言うと

「ああ、そうだったわね。今は大事な時だからね。おばあちゃん自分の部屋に行って食べるわ。邪魔して悪かったわね」と月見団子を持って部屋を出て行った。

 我が家のダイニングテーブルは晩御飯が終わるとお母さんの趣味のパッチワークの作業場になる。テーブルの隅っこで食べる事もできるけど、お醤油や味噌汁がウッカリ跳ねてパッチワークの切れ端を汚したりしたら大惨事なので、晩御飯以降の飲み食いは、それぞれの部屋に持ち込むことになっている。お父さんも仕事で遅くなると晩御飯をお盆に乗せて寝室に持ち込み、ベッドの上で胡座をかいてパソコンを操作しながら食べている。

 おばあちゃんの部屋はマンションの広告なんかでサービスルームとか納戸とか紹介されている窓のない部屋で、家族の衣装ケースなんかが積み上げられていて、おばあちゃんの布団をひいたらそれでいっぱいになってしまう。昔、私が幼稚園に行ってた頃は私の部屋がおばあちゃんの部屋で、私はおばあちゃんと布団を並べて寝ていた。私が中学生になって「自分の部屋が欲しい」と言ったら、「じゃあおばあちゃんはあっちの部屋へ行くわ。いいのよ、おばあちゃんは寝られたらそれで良いんだから、あの衣装ケースを片寄せたら十分寝られるから」とあの部屋に移って行った。

 このマンションに越してくる前のことは殆ど覚えていない。なんか陽に焼けた畳の部屋をボンヤリと覚えているだけだ。あの時おばあちゃんがいたかどうかも覚えていない。

 私がハッキリ覚えているのは幼稚園の頃で、その頃にはこのマンションに両親とおばあちゃんと四人で暮らしていた。お父さんもお母さんも夜まで帰って来なくって、おばあちゃんが毎日、幼稚園まで迎えに来て手をつないで一緒に帰った。家に帰ったら「お腹すいた?何か食べる?」と言ってプリンやらホットケーキやらを作ってくれた。それから一緒に夕飯の買い物に行って、おばあちゃんが夕飯の支度をしている間、私はテレビのアニメを見て、その間中、おばあちゃんとずっとお話してた。

 でも小学生になったら学校の友達と児童館で遊ぶようになって、中学生になったら部活が忙しくなって、今は受験で時間を取られて中々おばあちゃんと話す時間は取れない。けれど受験が終わって高校受かってゆとりが出来たら、またおばあちゃんともゆっくり話したいと思っている。

 おばあちゃんは幼稚園の頃から全然変わってないと思っていたけど、私が小学校高学年になった頃には買い物が辛いからと私に買い物を頼むようになり、私は一人で自転車に乗っておばあちゃんに頼まれたものを買いに行くようになった。私が中学生になった頃、おばあちゃんが晩御飯を作っている時ボヤ騒ぎを起こして、それからはお母さんが仕事をパートに変えて夕方には帰ってくるようになった。おばあちゃんはだんだん家でする事がなくなって、一日中ボンヤリとテレビを見ているようになって、最近はおばあちゃんを施設に入れる話が出てるみたいだ。いつだったか夜トイレに行こうとしたらおばあちゃんとお母さんとお父さんがダイニングテーブルで話をしていておばあちゃんが

「もうちょっとここに居させてちょうだい。ね。シモの世話まで頼まないから。それまではここに居させて、ね。」

 と言ってるのが聞こえた。私は別におばあちゃんがここに居ようが施設に行こうがどっちでもいいや、と思っていた。私も、もう一人で電車もバスも乗れるし、自転車でも結構遠くまで行ける。おばあちゃんがどこに居ようといつでも逢えると思っていた。


 やっと入試が終わり、でもまだ受験が残っているクラスメートもいて授業は復習やら自習やらばかりになったある日、教室で居眠りしてたら先生が呼びに来た。なんかお母さんから電話があって、おばあちゃんが倒れたとかで家に帰らずバス停に来るように、とのことだった。粉雪が舞ってる中、バス停には誰もいなくて、あたりを見回すとお母さんがコンビニの入り口で私を手招きしていた。

「おばあちゃんの具合、どうなの? 私、行ったら逢える?」と訊いたけど、お母さんは

「今日の夕飯と明日の朝ごはんを何か買いなさい。それから明日はキビキしなさい」

 とだけ言った。私はキビキって何だろうと思ったけれど、お母さんは何か不愛想で怒ってるみたいで何も訊けなかった。

 それから後はまるで夢の中にいるみたいだった。お父さんもお母さんもあちこちに電話をかけたり、葬儀場の人と何やら話し込んでいたり、伯父さんや伯母さんや、私が全然知らない人やらがやって来て、中には「アキちゃん? 大きくなったねぇ」なんて声をかけてくる人もいたけど、それが誰なのか誰も紹介してくれないし、自己紹介もしてくれないので仕方なく「えぇ、はぁ」と曖昧に頭を下げてやり過ごしたりした。

 お母さんが親戚の人と話していたのを聞いていると、あの日、お母さんがパートの昼休みに家に帰ると、トイレの前でおばあちゃんがうずくまっていたそうだ。もうその時には息はしていなくて寒い日だったけれど死後硬直とかはなくてまだ身体は温かかったそうだ。「もう少し早く帰っていたら」とお母さんは涙声で言っていて、それを聞いて伯父さんが「そんなに自分を責めちゃいかん。ピンピンコロリで理想の死に方じゃないか」と慰めていた。

 火葬場で係の人に「これが最後のお別れです」と言われたけれど、お棺の中にいる人は全然知らない人みたいで「おばあちゃんって、こんなにおばあさんだったっけ」と思った。そしておばあちゃんが生きている最後の顔を思い出そうとした。

 あの朝、学校へ行こうと靴を履いていて、そしたら後ろから「行ってらっしゃい」っておばあちゃんの声がして、私は振り向きもせず「うん」って言って玄関あけて。

 私、おばあちゃんの最後の顔を見ていない!


 家に帰っておばあちゃんの遺影と骨壷をボンヤリと眺めていたら男の人がやって来ておばあちゃんの部屋の空いたスペースに小さなテーブルを置いて白い布をかけておばあちゃんの遺影と骨壷を置いてテキパキと飾り物を並べていった。それから何やらこれからのことをお父さんとお母さんと話していたけれど、私は疲れたので自分の部屋で寝てしまった。

 どれくらい寝ていたのか、お母さんに揺り起こされて「これ」と言って合格通知を渡された。嬉しかったけれど、こんな時に、はしゃいでいいのか分からなかったので「ありがと」と言って俯いたら「おばあちゃんに教えてあげたら」とお母さんが言ったので、合格通知をおばあちゃんの部屋の小さなテーブルに置いた。遺影のおばあちゃんの顔が「あらあら、良かったねぇ」と笑っているみたいだった。

 生きているおばあちゃんに教えてあげたかったな、と思ったら涙がポロポロ出てきた。おばあちゃん本当に死んじゃったんだ。なんであの日、学校なんかに行ったんだろ。一日や二日休んだところで出席日数は十分なんだし、どうせ碌に授業も無くて居眠りしてただけなのに。だったら家でおばあちゃんと一緒にいてあげたら良かった。今の私なら、おばあちゃんが苦しくなったら救急車を呼ぶことだって出来たのに、やったことないけど心臓マッサージだって知ってるし私が休んで家にいたら、おばあちゃん助かったかも知れないのに。わんわん泣いていたらお母さんが「アキちゃん、おばあちゃんっ子だったもんね」と言って背中をさすってくれた。

 卒業してからしばらくは何もする気になれなかったが、それでも仲のいい友達から「卒業記念に遊びに行こう」と誘われて保護者なしでショッピングしたり、バーガーショップに入ったりした。なんか大人になったみたいで楽しかったけれどやっぱりチョット悲しい春だった。

 おばあちゃんを施設に入れる話があった頃から、お父さんもお母さんもおばあちゃんの部屋の使い道を考えていたみたいだ。お父さんは自分の書斎が欲しかったらしい。納骨が済んで業者の人がテーブルやら飾りやらを引き上げた後、おばあちゃんの服や布団を処分したら部屋は凄く広くなったように感じた。すぐにお父さんはパソコンテーブルを買ってきて嬉しそうに組み立てていたけれど、お母さんはそこをパッチワークの作業場にしたかったみたいだ。結果的に家に早く帰ってくる、お母さんがパソコンテーブルをパッチワークの作業台にしてしまった。でもお陰で夜もダイニングテーブルを使えるようになったので、お父さんはノートパソコンをダイニングテーブルに広げて経済記事なんかを見ながら晩御飯を食べるようになった。

 私は夕食後いつもダイニングテーブルの隅っこの椅子に座ってテレビを見ている。前は、お母さんがパッチワークをしている横でおばあちゃんと一緒に見ていたけれど、今はお父さんがパソコンを見ている横で友だちとLINEをしながら見てる。

 おばあちゃんが生きていた頃は、歌番組で私が好きなグループが出ると「あら、この子たちアキちゃん好きだったよね。カ、ええとなんて言ったかしらね」なんていつも言ってたなぁ。私がグループ名を教えてあげると「ああそうそう、みんな女の子みたいに可愛いねぇ」とか「踊りが上手いねぇ」とか話しかけてきたけれど、おばあちゃんが全然楽しんでいないのは何となく分かっていた。そんなおばあちゃんに生返事をしているより、友だちとリアルタイムでLINEをやり取りしてる今の方がずっと楽しかった。そしておばあちゃんの相手をしなくていいのは楽と思った自分をチョットだけ嫌いになった。

 高校生活は想像以上に楽しかった。運が良かったのか新しい友達もすぐに出来た。その友達に誘われて入った部活も楽しかった。中学の時は寄り道してはいけません、保護者なしにお店に入ってはいけませんと言われていたけれど、高校生になったら学校帰りにスーパーやコンビニのイートインコーナーでジュースを飲みながらお喋りしたりして過ごすようになった。でも最初の頃は「一緒に帰ろう」と誘われた時、心の奥底でチラッと不安が横切った。「早く帰らなきゃ…おばあちゃんが一人で…」。それから、おばあちゃんはもういないんだ、早く帰らなくてもいいんだ、とホッとしてから、おばあちゃんが死んでいて良かったと思っているみたいでそんな自分をやっぱりチョット嫌いになった。

 高校入って時間が出来たらおばあちゃんとゆっくり話そうなんて思っていたけど、時間なんて全然ない。勉強も難しいし、部活も忙しい。そんな毎日を過ごしているうちに段々とおばあちゃんのことを思い出すことも無くなった。昔のことを思い出すより、いまの毎日の方が圧倒的に面白かった。

 合宿やら遠征やら部活に明け暮れた夏休みが終わり、気がついたら九月、今夜は十五夜だ。ふと思いついてベッドとカラーボックスの間に潜り込み、窓から首を突き出した。首を捻って見上げるとマンションの隙間から満月が半分だけ見えた。

「ウソばっかりおばあちゃん。半分しか見えないじゃん」と去年のおばあちゃんに返事した。




















 ()()()てし 秋の(つく)()()らせども (あい)()(いも)は いや(とし)(さか)

                      (二・二一一)


  去年見た秋の月は今も変らず照っているが、この月を一緒に

  見た妻は、年月とともにいよいよ遠ざかって行く。













【解説】

 (ばん)()というジャンルがあります。厳密にいうと誰かが死んだ時、棺を()きながら歌う歌の事ですが、萬葉集ではもっと幅広く死者を弔い、偲び、回想する歌全般を挽歌に含めています。

 ここで紹介した歌は挽歌の部類に収録されています。作者は柿本人麻呂。生没年は不明です。持統・文武両朝(『弐 河上乃』参照)の時代に宮廷歌人として活躍した下級役人で、晩年は(いわ)()の国(島根県西部)に赴任していたそうですが、平城京遷都前には亡くなっていたようです。萬葉の時代にはまだ和歌の形は整ってなくて季語や枕言葉や掛言葉などの細かい規則も出来ていませんでしたが、人麻呂は和歌発祥の頃の歌人として後世の人たちから歌仙と崇められ、近代の明治時代になっても歌会の時には人麻呂の画軸を床間に飾ったりしています。

 実はここで紹介した歌はシリーズものになっていてこの歌の前に「妻が死んで血の涙を流して嘆き悲しんだ歌(二・二〇七)」という歌が萬葉集に収録されています。原歌を正確に解説するのも堅苦しいので大体の意味をここに紹介しておきます。大和言葉の美しさを堪能したい上級者はぜひ原文を読んでみて下さい。


 街角で見かけたあの娘を密かに想っていた私の想いが通じて寄り添い固く結ばれ、まだ二人だけの秘密だったけれど別れるなんて考えもしなかったあの娘が突然、枯れ葉のように散ってしまったという便りを受け取ったが、とても信じられず、この溢れる想いをどうすればいいのかも分からず、あの娘が居た街角へ出かけても、あの娘の声は聞こえず、街行く人にあの娘に似た人は一人もいないので、人目も憚らずあの娘の名前を呼び、帰ってきて欲しいと願い続けている。


 大体こういう意味です。最初に紹介したように挽歌というのはもともと棺を挽きながら歌う葬式の歌です。なので挽歌の内容は死者の冥福を祈る鎮魂歌や、死者の業績を讃える弔辞のようなものが多いのですが、この歌は二人の馴れ初めやその恋が突然終わった様子などが物語のように歌われています。多分この歌は死者(亡くなった妻)に語り掛けるものではなく、宮廷人に披露するために作られたものなのでしょう。亡き妻を恋い慕う愛の歌に宮廷人は感銘を受け、続編を求められたのか、その後どうなったかを歌った歌(二・二一〇)が続いて出てきます。とりあえず歌の大体の意味を紹介します。


 この世にずっと二人で居られると思っていた頃は、妻への想いはますます深くなっていたのに、運命には逆らえず突然、私の元から旅立ってしまい、形見に残した幼子が泣くたびに、どうして良いかも分からず、ただため息を吐きながら毎日を過ごし、あなたの想う人はあの山に居ますと誰かが言えば岩を押しのけよじ登った甲斐もなく、その姿は蜃気楼のようにさえ見ることができない。


 そしてこの長歌の後に短歌が二首あり、ここで紹介したのはそのうちの一首です。柿本人麻呂は当時、売れっ子のアーティストだったのでしょう。


 ところで私はこの長歌を読んだ時、山崎まさよしの『ワンモアタイム・ワンモアチャンス』を思い起こしました。亡くなった彼女に語り掛けるという体裁で「君がいなくてとても辛い、この辛さを堪えたら君に逢えるのか。奇跡が起こって君に逢えたら僕の想いを、僕のこれからを君に見せたい。いつも何処かで君に逢えたらと探している、逢えるはずもないのに。生まれ変わることができるのなら、何度でも君のもとへ行くよ」といった内容の歌です。

 死んでしまった人にもう一度逢いたいという内容はとても似ているのですが、ただ最後だけは違っています。柿本人麻呂は亡き人を探して山に登っていきますが、山崎まさよしは生まれ変わって来世で亡き人を探し出したいと歌っています。

 今の日本人が普通に受け入れている生まれ変わりという考え方は、もともとインドにあった思想で、恐らく仏教とともに日本に入ってきたのでしょう。もの凄く大雑把にいうと、人は生きている間に良い行いをして仏教に帰依すれば、死んでも成仏して極楽に行くことが出来る。仏教に帰依しても悪の道に染まったり迷ったりしたら、生まれ変わりを繰り返し、生前の行いにより天界、人界、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の六つの世界をグルグル回る、というのが仏教の教えです。

 柿本人麻呂の時代は日本に仏教が入ってきてまだ二百年足らずしか経っていない頃です。大型船もネットもなかった時代、日本に入って来た経典などごく僅かで、それを読んで研究する僧侶もまだまだ少なかったのでしょう。例えば中国の高僧、鑑真が日本にやって来たのは持統天皇の曽孫にあたる聖武天皇(『弐 河上乃』参照)の時代になってからです。萬葉集でも聖武天皇の時代になると「()()(現世)」とか「(じょう)(せつ)(浄土)」といった言葉が歌の中に出てきますが、法然が浄土宗を開いたのは柿本人麻呂がこの歌を詠んだ四百年以上も後のことです。

 ではこの時代の日本人は人が死んだらどうなると考えていたかというと、ただ死者の国へ行くと考えていたようです。死者の国は、獣道もない山の奥深いところとか海の向う側とか目には見えるけれど行くことができない場所にあり、そこは地獄でも極楽でもなく、死者は死者の国で普通に暮らしている。そして何らかの条件が揃ったら死者と逢えると考えていたようです。例えば萬葉集にこんな歌があります


 (もも)()らず ()()(くま)(さか)()()けせば ()ぎにし(ひと)

 けだし()わんかも

                      (三・四二七)

  くねくねとした曲がり角の多い坂道で、道の神に供物を(ささ)げた

  なら、亡くなった人にひょっとして()えるのであろうか


 この歌にもありますが、死者が行く死者の国は極楽浄土だの補陀落国のような遥か遠く離れた場所ではなく、そこの曲がり角を曲がった先にあるかのように日本人は考えていたようです。だから柿本人麻呂は死んだ妻に逢おうと山に登って行ったのです。

 まあ現代でも臨死体験なんかで川の向こう岸や降りた踏切の向う側で死んだはずの人が手を振っていた、なんて話も聞きますし、()()(ぼん)()では先祖の霊を迎える為に茄子や胡瓜で作った馬の乗り物を用意したり、迎え火や送り火を焚いたりします。しかし仏教では人は輪廻転生を繰り返すそうです。だとしたら日本人は、お盆になると幽体離脱して前世や前々世の子孫や家族に逢いに行くのでしょうか? そういう矛盾を難なく受け入れているのは仏教が生活の中に入って来た後も日本人のこの死生観が残っているからなんでしょうね。































 漆 不聴跡雖云















 さて何からお話申しあげればよろしいのでございましょうか。昔々、この()()めが可憐な花のような年頃の事でございました。あれ、またそのようにお笑いになる。ええ、ええ、この()()めにもそのような頃がございましたとも。その頃に蘇我蝦夷臣とその子の入鹿と申す親子がございましたが、その親子がまあ自分たちこそが国の(ことわり)であると考えているような横暴ぶりでございました。蝦夷は自らの祖先の廟を建て、畏れ多くも()(つら)(まい)を行ったのでございます。この舞は()()さまご一族にしか許されておりませんのにあの蝦夷とやらはご自分を何と思っていたのでございましょう。さらには国中の(おおみたから)や豪族の私有民を徴発して、前もって蝦夷、入鹿親子の墓を造り、(かみつ)(みやの)(しょう)(とこの)()()殿に賜った(おおみたから)を使役して墓の整備に当たらせたのでございます。このため(かみつ)(みやの)(しょう)(とこの)()()殿の(むすめ)であらせられる(かみつ)(みやの)(いら)(つめの)()()様は「蘇我臣は国政を独り占めにして無礼な振る舞いが多い。天に二つの太陽が無いように、国に二つの君主はいない。どうして勝手に(かみつ)(みや)に賜った(おおみたから)を使役するのか」と憤慨されたそうでございます。

 また息子の入鹿も蝦夷に輪をかけた横暴ぶりで、なんと上宮(かみつやの)聖徳(しょうとこの)皇子(みこ)の皇子であらせられる(やま)(しろの)(おお)()(みこ)殿を襲ったのでございます。これはのちになって(やま)(しろの)(おお)()(みこ)殿の()(にん)から聞いた話でございますが、その時、舎人は口々に戦いましょうと申し上げたそうでございますが(やま)(しろの)(おお)()(みこ)殿は、自分が兵を集めて入鹿を討てばきっと勝つ。しかしそれでは私の命を守るために(くにの)(みたから)を殺し傷つけることになる。後の世になって私のために父が死んだ、母が死んだと言われるであろう。戦って勝つだけが(ます)(らお)ではない。わが命を差し出すことで(くにの)(みたから)を守るのもまた(ます)(らお)の形ではないだろうかと仰って、命をかけて(くにの)(みたから)を守ったのでございます。

 また入鹿は臣下の分際でありながらご自身の御子を皇子皇女と呼ばせる有様でございました。これでは誰が君主なのか分かりません。


 さてこのような蘇我親子の横暴ぶりを苦々しく思っていた若者がございました。その御名を(なか)(とみ)(むらじ)(かま)(たり)様と申します。これは鎌足様から直接に聞いたお話でございますが、鎌足様は世をあらため人々を救おうと願い、その為の英明の君主を探し続け、とうとう皇女さまの父君であらせられる中大兄皇子に目を留められたのでございます。とは言っても鎌足様は一介の臣民の身、どうすれば父君とお目通し願えるかと機会を伺っていたところ、ある()()()さまの父君が法興寺の(つき)の木の下で蹴鞠を遊ばされることを知り、さっそく用意をして蹴鞠の輪に加わられたのでございます。しかし臣下の身分で気安く皇子である父君に話しかけることも叶いません。何かきっかけはないかと思案しておりましたところ、なんとした事か父君が鞠を蹴った拍子に靴が脱げ鞠と一緒に鎌足様の下へ飛んで来たのでございます。鎌足様はすぐさま鞠と靴を持って父君の前に跪かれると父君はご自身の愉快な失敗に笑われながらも丁寧に礼をなされてそれをお受け取りになられたそうでございます。

 それがきっかけになり二人は親しくお言葉を交わされるようになり、鎌足様はますます()()さまの父君の人となりを信用するようになられたそうでございます。そしてある日思い切ってずっと心に秘めていた思いを告げられたら、なんと父君も鎌足様と同じ思いでいたということで、ふたりの言うことはあれもこれも本当にぴったりと重なったのでございます。とは言うもののこのようなことを宮中で声高にお話しなさっていたら誰に聞かれるやも分かりません。かといって小声で密談などなさっていたら何を企んでいるのかと疑われてしまいます。そこでお二人は書物を手に(みなみ)(ぶちの)(せん)(じょう)のところへ儒学を習いに行くという口実をもうけ、行き帰りに並んで歩きながら計画を練られたそうでございます。

 そして相談の結果、二人だけではあまりにも非力である、助力者が必要だという事になり信用できる方として、()()さまのお祖父様に目を止められたのでございます。お祖父様はあの入鹿の従兄弟に当たる方でございましたが入鹿とは全く違って誠実で正直な方でございました。そこで先ずはお祖父様と親戚関係を結び、それから仲間に引き入れようという事になり、鎌足様は自らが仲人になって、お祖父様の(むすめ)を父君の妃にしたいと持ちかけたのでございます。


 さてこれは()()さまの母君から伺った事でございますが、母君の姉上はそれはそれは美しい方で、お祖父様も手塩にかけて育てた(むすめ)をつまらぬ男と縁付かせたくない、どこぞに良い縁談はないものかと常日頃からお祖母様と話し合っておられたそうで、(ひつぎ)(のみ)()の妃など、これ以上良いお話がございましょうか。鎌足様には二つ返事で承諾なされて、さっそく家に帰ってお祖母様に事の次第を話されたそうでございます。ところがここに、お祖父様の異母弟の()(さの)(おみ)()(むか)と申す輩がおりまして、この()(むか)がとんでもない妬み屋で欲しがり屋でございました。とにかく他人のものは何でも妬んで欲しがるのでございます。母君の姉上のことも日頃から心憎からず思っていたのに、いよいよ自分の手が届かなくなるのかと思うとなんとも惜しくて悔しくて堪らなくなり、とうとう約束の夜に姉上を攫っていったのでございます。

 そのことを知ったお祖父様は蒼ざめて恐縮されてしまったそうでございます。まさか皇太子殿下に人妻を差し出すわけにはまいりません。かといって(むすめ)は病気でなどと日延べをしたところで時間を巻き戻せるわけではございません。お祖父様が天を仰ぎ、地に伏して嘆いているのを母君が不思議がり理由をお尋ねになったのでございます。お祖父様がその訳をすっかりお話なさったところ、母君はにっこりと笑って「御心配なさいますな。姉上の代わりに私をおたてまつりになればよろしいではございませんか」と申し上げられたのでお祖父様はたいそうおよろこびになったそうでございます。こうしてお祖父様もお二人のお仲間になられたのでございます。

 さらに鎌足様は同僚の中から、()(えき)(むらじ)()()()(かづら)(ぎの)(わか)(いぬ)(かいの)(むらじ)(あみ)()の二人を選び父君に推挙されたのでございます。


 あれは()()さまがお生まれになった年の夏の日のことでございました。父君はお祖父様に、三韓(みつのからひと)(高句麗・百済・新羅)の調(みつき)がたてまつられる日、お祖父様にその上表文を読み上げてもらおうと思うと仰せられ、そのあとお祖父様の耳元で、その時にやると囁かれたと、これは後ほど()()さまのお祖父様から直接伺った話でございます。


 これからお話申し上げることは皇女(ひめ)さまの父君とお祖父様とそれから鎌足様の三人がお酒を召されながらお話なさっていたことを()()めがこの耳でしっかりと聞いたことでございます。

 鎌足様は蘇我入鹿が疑ぐり深いたちで、昼も夜も剣を離さないことをご存知だったのでその日は入り口のところで(わざ)(ひと)を使って剣を外させようとなさったところ入鹿は(わざ)(ひと)の滑稽な口上と仕草に笑いながら剣を外して(わざ)(ひと)に渡し、席にお付きになったそうでございます。やがて太極殿にお出ましになったのは今の(すめ)()(おやの)(みこと)皇女(ひめ)さまのお祖母様でございました。そしてお祖父様が進み出て三韓(みつのからひと)の上表文を読み上げ始めたのでございます。

 その頃、父君は十二の()(かど)を一斉に閉鎖して往来を止め、(ゆげ)(いの)(つかさ)(門衛)の人々に禄物を賜るようにみせかけて一箇所に呼びあつめ、ご自身は槍を持って太極殿の脇にお隠れになっていたそうでございます。子麻呂と網田の二人も父君と一緒にいたそうでございますが、なにしろあの入鹿を成敗するということに緊張して二人ともその日は朝から何も喉を通らない、飯に水をかけて流し込んでも吐き戻してしまうありさまでございました。鎌足様は弓を持って父君を警護なさりながら子麻呂と網田にしっかりしろと叱りつけたのでございますが、二人とも入鹿の威勢に恐れをなして、ただただ震えるばかりでございました。

 お祖父様はわざとゆっくり上表文を読み上げられていらしたのでございますが、それでもだんだんと終わりに近づいてまいります。もうあと少しで終わるのに何も起こらないことを心配なさって声が震え、手が戦慄(わなな)いて汗びっしょりになってしまわれて、とうとう入鹿がどうしたのかと不審がり始めたので、(すめら)(みこと)のおそば近くにおりますことの畏れ多さに思わず汗が出てしまいましたとお答えなさったそうでございます。

 父君は子麻呂と網田の二人がぐずぐずして進みでないのを見て、雄叫びを上げながら槍を構えて飛び出していかれましたが、二人はそれを見て慌てて後を追ったそうでございます。その時、御座に付かれていたお祖母様は、いきなり飛び出してきた父君に驚かれて、どうしたのかとお尋ねになると父君は、この者は我が一族を滅ぼそうとしているとお答えになり、それを聞いたお祖母様は席を立って宮殿の中にお入りになってしまわれたそうでございます。父君は入鹿を成敗した後すぐに法興寺にこもり砦となさいましたが、皇子・諸王・(まえ)()(きみ)(たち)・臣・連・伴造・国造のことごとくが父君に従い、それを知った入鹿の父蝦夷は命運が尽きたことを知り、亡くなる前に大切な国の記録や珍宝すべてに火を放ったそうでございます。

 (すめ)()(おやの)(みこと)、お祖母様はこの出来事に大変衝撃を受けて(みし)(るし)を皇女様の叔父様にあたる軽皇子、今の(すめら)(みこと)に授けて皇位をお譲りになったのでございます。帝がお(かく)れになる前に皇位を譲るなど開闢以降初めてのことでございました。そして新しい(すめら)(みこと)皇女(ひめ)さまのお祖母様と父君の三人は大槻の木の下に(まえつ)(きみたち)を召し集め、帝道は唯一つ、君は天下に唯一人、臣は君に忠誠を尽くすことを天地神祇に誓われたのでございます。また(すめら)(みこと)はこの日に功績のあったお祖父様を右大臣に、鎌足様を内大臣に任命し(ひつぎ)(のみ)()の父君とも力を合わせ、こうしてすっかり新しい世の中になったのでございます。


 (きた)()でございますか。もう夜も更けてまいりました。また明日、お話申し上げましょう。お休みなさいませ。

 あれ、またそのように我儘を(おっしゃ)るのですか。仕方がございませんね。


 先程お話申し上げたように、お祖父様は功績を認められて右大臣におなり遊ばせたのでございますが、さあそこに妬み屋の()(むか)でございます。お祖父様が羨ましくて妬ましくて仕方がございません。自分がなれないならいっそのことお祖父様を引きずり下ろしてやれと、お祖父様は父君の命を狙っておりますと嘘を付いたのでございます。父君が(すめら)(みこと)にこの話をなさいますと、(すめら)(みこと)は直ちに兵士をお祖父様の下に遣わしたのでございますがお祖父様は、間に人が入ると話が曲がってしまう、天皇に直接お話し申し上げたいと仰って使いの者には何も(おっしゃ)らずに(やまと)(のくに)にあるお祖父様が造営中のお寺に行ってしまわれたのでございます。(すめら)(みこと)が倭国のお寺に兵士を遣わせますと、そこには変わり果てたお祖父様のお姿がございました。そこで刑の執行人役である(もの)(のべ)(ふっ)(たの)(みやつこ)(しお)がお祖父様の首を取り(すめら)(みこと)にたてまつったのでございます。そしてお祖父様の財産はことごとく没収されたのでございますが、なんとそれらの財産のうち優れた書物には皇太子の書としるし、貴重な財宝の上には皇太子のものとしるしてあったのでございます。そこで父君はお祖父様の()(にん)を呼んでお祖父様の最期の様子を語らせたところ、お祖父様は臣下たる者がどうして君に反逆など企てようか、そもそもこの寺は我が身のためではなく(すめら)(みこと)(おん)(ため)にと願いを込めて作ったものだ。我が命もここまでだが願わくば(よもつ)(くに)までも、君に忠なる心を抱いて行きたいと仰って仏殿の戸を開き、仏を仰いで、黄泉国に行ったとしても()()を怨むことが無く荒魂となって君主に祟ることはありませんと誓いを立ててお亡くなりになったそうでございます。父君は初めて大臣の心が正しく清かったことを知り、自分の行いを悔い、いつまでも悲しみ嘆き、日向を(つく)(しの)(おお)(みこと)(もちのかみ)に任じられたのでございます。宮中の人々はこれは(しのび)(ながし)(表向きは栄転だが、実は左遷)であろうと口々に語り合ったものでございました。

 母君はお祖父様の最後を嘆き悲しみ、塩がお祖父様の首を取ったことから塩と聞いただけで涙が止まらなくなるありさまでございました。とはいえ毎日のお食事に塩は欠かせません。仕方がございませんので、母君のお付きの者は塩のことを(きた)()と言うようなったのでございます。そして母君もとうとうあのようにお可哀想なことになってしまったのでございました。


 皇女(ひめ)さま? あれ皇女(ひめ)さま、お休みでございますか。やれやれ、明日また最初からお話して差し上げましょうかねぇ。







































 いなと()えど ()うる()()のが ()(がた)り このころ()かずて

 ()()いにけり

                      (三・二三六)


  いやだというのに、聞かそうとする志斐婆さんの無理強い語りも

  このごろ聞かないので恋しく思われる

























 いなと()えど (かた)(かた)れと ()らせこそ ()()いは(もう)

 ()(がた)りと()

                     (三・二三七)


  いやだというのに語れ語れとおっしゃるからこそ申し上げる

  のにそれを無理強い語りと言うのですか












【解説】

 三・二三六の歌の前に「天皇が志斐の婆さんに贈った歌」という題詞があり「天皇は持統天皇のことか」と注にありました。『弍 河上乃』で持統天皇の生涯を調べた時、この人は自分で人生を切り拓いていく、自分の幸せは自分でつかみ取っていく人なんだなぁと感じました。きっと幼い頃から勝気でおしゃまで自分の望みをはっきりと口にする少女だったのでしょう。()()()()とリズミカルな歌で、その歌を贈られた志斐婆さんも負けじと言い返している。気が置けない二人の軽妙洒脱なやり取りが面白くて何か書けないかと思ったのですが気の利いた話一つ思い浮かばない。仕方がないので志斐婆さんが幼い鸕野皇女に語ったであろう昔話をでっち上げました。ソースは日本書紀です。

 萬葉集の歌を現代高校生のツイート風にして、歌の解説を付けたらもっともらしい文章になるんじゃないかと書き始めましたが、それほど筆力があるわけもなくツイートだけではすぐに行き詰まり短編小説風のものをでっち上げたりして騙し騙し書きためてきて、もはや学園物ですらないという惨状ですが、いいんです! 妄想なんです! このまま突っ走ります(キリッ


 今回は歌の説明ではなく、志斐婆さんの昔語りの捕捉説明をしておきます。

 今回取り上げた蘇我入鹿暗殺事件は「大化改新」として有名ですが、厳密にいうとこの事件は「(いっ)()の変」と呼ばれています。(いっ)()の変の後、皇極天皇は皇太子の中大兄皇子に譲位しようとしますが、中大兄皇子は中臣鎌足の助言を受けて皇極天皇の弟の(かる)皇子(『弐 河上乃』の()()皇子とは別人)を推挙します。中臣鎌足は中大兄皇子と知り合うずっと前から(かる)皇子とは親しかったので(いっ)()の変の黒幕は(かる)皇子ではないかという説もありますが、『藤原鎌足伝』(奈良時代、藤原仲麻呂撰)には「(かる)皇子の器量がともに大事を謀るのに足りないので鎌足はさらに君を選んだ」とあり、『日本書紀』にも「(かる)皇子(孝徳天皇)は情け深い人柄で、しばしば恵に満ちた(みことのり)を下した」とあるので、この人は大臣暗殺というテロ事件の計画には関わっていないのではないかと私は思っています。ともあれ皇極天皇から譲位された軽皇子は孝徳天皇となり自分が即位した年を大化元年と改めて、鎌足と中大兄皇子と共にさまざまな政治改革を行います。これらの改革が後年「大化改新」と呼ばれるようになったのです。


 今回は登場人物が全て実在した人たちなのでいい加減なことも書けないかと思い、せめて年齢ぐらいは把握しておこうとしたのですが、皇族以外の生没年は記録が見つかりませんでした。しかし①蘇我蝦夷の父、蘇我馬子は聖徳太子と同年代に活躍した人。②この時代は男女共に早婚で男性でも二十歳くらいで父親になる。③聖徳太子が(いっ)()の変まで生きていたら七十一歳くらいになっていたはずで、恐らく蘇我馬子も同年輩。ということで蘇我蝦夷はアラフィフ、息子の入鹿はアラサーと見当を付けました。持統天皇の祖父の蘇我石川麻呂は適齢期(十代後半)の娘がいることからアラフォーと推定しました。


 この時、太極殿にいたのは皇極天皇で当時五十一歳でした。中大兄皇子は皇極天皇の息子で『日本書紀』に六二九年生まれとありますが、それでは乙巳の変の時わずか十六歳ということになります。鸕野皇女(持統天皇)は乙巳の変の年に生まれたと記録にあり、しかも鸕野皇女には姉の大田皇女がいます。十六歳で娘が二人ということは、中臣鎌足は十三、四歳の少年に縁談を勧めたことになります。ちょっと早すぎないか? しかも太極殿にいた皇極天皇は中大兄皇子の母です。つまり皇極天皇は三十代半ばで中大兄皇子を産み、大海人皇子をアラフォーで産んだ事になります。現代でも充分高齢出産ですが、この時代の四十歳は孫がいる年代です。もしかしたら『日本書紀』に書かれている六二九年というのは弟の大海人皇子の生年ではないでしょうか。『日本書紀』の別の記述に「六四一年に中大兄皇子の父である舒明天皇が崩御した時、十六歳の中大兄皇子が通夜の席で弔辞を読んだ」とあるのでこちらの説を採用しました。乙巳の変の時は二十歳前後だったと思われます。それでも皇極天皇が三十一歳の時の子どもです。当時としてはかなりの高齢出産だったのではないでしょうか。


 このお話の悪役は蘇我蝦夷と入鹿の親子ですが、蘇我一族の勃興は五三八年に百済から一巻の経典と仏像が贈られたことから始まりました。それまでの日本は冠婚葬祭も病気治療も雨乞も全て伝統的な神祇信仰の作法で行われていましたが、それらの作法は中臣氏や物部氏などが門外不出の秘儀として行っていました。さらにこの時代は揉め事の是非も神のお告げで判断していました。そして物部氏はこの方面での権益を持っていたのです。つまり物部氏は何か問題が起きたときなどに真実は何かを神のお告げで判断する、今でいう検察や公安、裁判官のような役割を担っていたのです。新興豪族の蘇我氏は、百済から伝わった新しい思想を日本に広めたいと仏教信仰の許可を求めたのですが、物部氏を筆頭とする神官たちは伝統的な神祇信仰を守ろうとしてこの新興宗教と対立しました。保守物部とリベラル蘇我の戦いは蘇我馬子が物部守谷を討ち取り、蘇我氏の勝利で幕を閉じました。その蘇我氏も乙巳の変で政治の表舞台から姿を消します。

 中臣鎌足は記録を見ると六六九年、五十六歳で没とあります。乙巳の変の時は三十二歳くらいでしょうか。鎌足は晩年に功績を認められて藤原姓を賜りますが、そればかりでなくこの人は特に天皇の信が厚かったようで、萬葉集には鎌足が天皇からどれだけ厚遇されていたかを窺える歌があります。


 ()れはもや (やす)()()()たり (みな)(ひと)()かてにすという

 (やす)()()()たり

                        (二・九五)

  私は安見児を得た。皆が得難いという安見児を得た


 この歌に出てくる(やす)()()というのは(うね)()の名前です。(うね)()というのは地方豪族の子女で特に容姿の美しい者から選ばれ、後宮で天皇の食膳や身の回りの世話などの奉仕をする女官のことです。時には天皇に見染められることもあり、采女は臣下との結婚は禁止されていました。萬葉集に「()()(つの)(うね)()が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(二・二一七、二一八、二一九)」というのがありますが歌の内容を見ると、この()()(つの)(うね)()という女性は禁制を犯して臣下と結婚し入水自殺したらしいです。ここで紹介した鎌足の歌は臣下である鎌足が采女を妻とする許しを得た、という喜びの歌です。

 鎌足にはこの采女の他にも(かがみの)(おう)(きみ)(額田王の姉?)との間に男子がいました。名前を不比等といいますが、彼は自分の娘を皇子や天皇と結婚させて宮廷での勢力を拡大させていきます。持統天皇や元明天皇の母は蘇我氏の出自ですが文武天皇の夫人は藤原氏の出で、これ以降、天皇の母は藤原系統へと変わり、平安時代になると藤原氏は全盛期を迎えます。


 ()()婆さんの話を聞いている鸕野皇女は七、八歳の設定にしましたが皇女が九歳になったころ孝徳天皇が崩御します。中大兄皇子は皇太子でしたがまたもや即位を辞退します。この辺の事情については、孝徳天皇の皇子の有馬皇子との権力争いを避けるため、あるいは天皇の立場が煩わしかったためなどいろいろ憶測されていますが真相は分かりません。仕方なく中大兄皇子の母の皇極天皇が重祚して斉明天皇となりますが、もしかしたらピーターパンの息子になり変わって天皇の重責を引き受けたのかも知れませんね。何にしても重祚はこれが最初でこれ以降は聖武天皇の皇女の孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の例があるだけです。


 鸕野皇女が大海人皇子と結婚して草壁皇子を身ごもっていた頃、斉明天皇は百済の要請に応えて援軍を送る勅を出し、自らも中大兄皇子とともに難波津から船出をします。


 (にき)()()(ふな)()りせむと (つき)()てば (しお)もかないぬ

 (いま)()()でな

                         (一・八)

  熟田津で船に乗り込もうと月を待っていると潮も満ちてきた、

  さあ漕ぎ出そう


一行が途中で逗留していた熟田津(現在の愛媛県松山市)から出発する時の様子を額田王はこのように詠んでいます。斉明天皇は九州で崩御しますが、中大兄皇子は(しょう)(せい)(天子が亡くなった後、皇后や皇太子が即位せずに政務を行うこと)して皇太子のまま朝鮮半島の白村江まで行って戦います。負けましたけど。天智天皇が即位したのは斉明天皇が崩御した七年後のことでした。どうもこの人は政治家よりも軍人タイプの人だったのではないでしょうか。


 天智天皇は若い頃テロ事件を起こしますが、豪族の一人や二人ぬっ殺したくらいで世の中は変わりません。乙巳の変の後も権力を巡って、謀叛を計画するもの、謀叛を計画している人を密告するもの、謀叛など考えもしてない人を引きずり下ろそうと讒言するものなど宮廷は()(ぞう)()(ぞう)()()(もう)(りょう)(ちょう)(りょう)(ばっ)()する魔境だったのです。()()婆さんのお話にもありますが持統天皇の祖父の蘇我石川麻呂は讒言により自害しました。

 余談ですが、自害というと介錯人を付けた切腹を思い浮かべるかも知れませんが、切腹はこの時代より五百年以上後に起きた源平合戦の頃の武士階級が始めたものです。この時代にはまだ武士は台頭しておらず、政治の中心は貴族階級で蘇我石川麻呂や壬申の乱で敗れた大友皇子の死因は縊死でした。彼らは(ます)(らお)ではありましたが、(もの)(のふ)ではなかったのです。

 蘇我石川麻呂が讒言により亡くなったのは孝徳天皇の時代ですが、斉明天皇の時代になっても孝徳天皇の皇子である(あり)(まの)()()が謀叛を計画していると仲間から密告されています。その時、斉明天皇と中大兄皇子は和歌山の白浜温泉に湯治のため滞在していたので、有馬皇子は天皇の元へ護送されることになりました。その途中、有馬皇子は次のような歌を詠みます。


 岩代(いわしろ)(はま)(まつ)()()(むす)び ま(さき)くあらば また(かえ)()

                      (二・一四一)

  岩代の浜松の枝を結んでいく。無事でいられたらまた帰って

  見ることがあろう


 (いえ)なれば ()()(いい)(くさ)(まくら) (たび)にしあれば (しい)()()

                      (二・一四二)

  家なら器に盛る飯を旅先なので椎の葉に盛る


そして天皇と皇子による取り調べが終わり、都(現在の奈良県明日香村)へと帰る途中で絞首されました。この事件も皇位継承争いを巡っての反有馬派の陰謀だったと言われています。


 このような派閥争いが煩わしかったのでしょうか。天智天皇は滋賀県の近江(現在の大津京市)に宮廷を移し即位しますが大和の豪族からは悪評サクサクだったそうです。日本書紀には「一般庶民の間でもこれを風刺する歌が流行った」とあり、柿本人麻呂は万葉集で「天智天皇はとういうつもりでこんな辺鄙な所に都を造ったんだろう(一・二九~三三)」と歌っています。もしかしたら天智天皇が崩御した後に起きた壬申の乱は、天智派と反天智派の豪族それぞれが大友皇子と大海人皇子を担ぎ上げての派閥争いが原因だったのではないでしょうか。兄を補佐して何十年も宮廷での陰謀策略を見てきた大海人皇子に対して、太政大臣という肩書きは立派だけれど経験も浅く、老獪なフィクサーがいなかったのが大友皇子の敗因だったのかもしれません。


 蛇足ですが()()婆さんの話に出てくる「父君」「母君」「姉上」などという言葉はまだこの時代にはなかったと思います。多分これらの言葉は中世以降の武家社会の言葉なのでしょう。そうは言ってもこの時代の宮廷の話し言葉など全くわかりませんし、現代風の「お父様」「お母様」では雰囲気が出ないので敢えて父君、母君などという言葉を使いました。だいたいこの時代の尊称や敬称をそのまま使うと現代人には意味不明になります。冠位十二階とか(おみ)(むらじ)とか知らんし。なのでこのお話の敬称はかなりいい加減です。「()()に殿とか様とかつけるんじゃなぁい!」と青筋立てて抗議されても知りません。
































 捌 家有者















「これ、あなたのワンちゃん?」

「いえ、首輪つけてるから、どっかの飼犬なのかなって」

「そうなのよ。朝は居なかったのに、買物から帰って来たらウチの玄関先に倒れていたの。散歩の途中でこのワンちゃん見かけなかったって、近所のワンちゃん飼ってるお家に訊いてみたんだけどね、見たことないって言うの。飼主とはぐれて道に迷っているうちに車にでも轢かれたんでしょう、可哀想に。保健所に連絡したからもうすぐ取りに来ると思うわ。あ、あなた触っちゃダメよ。いくら身綺麗な飼犬に見えても動物の死体にはダニや寄生虫が一杯ついてるからね」

 オバさんはそう言うと、家の中に入っていった。その小さな茶色い犬は玄関先に敷かれた新聞紙の上に横たわっていた。チワワのミックスだろうか、全体的に茶色いけれど左の前足の先っぽだけが白かった。見たところ毛艶も良いし肉付きもいい、キチンと世話されていたみたいだ。お尻の尻尾の付け根辺りに乾いた血がこびり付いているが、大きな怪我をしているようには見えなかった。口からピンクの舌を覗かせて、薄く開いた眼は光も無く何も見ていない、死んでいるのは明らかだった。

 暫く迷ったけれど、携帯を取り出して犬の写真を撮ることにした。犬に触れないように気をつけながら、まず顔と首輪のアップ、それから特徴的な左前足の先っぽ、それからウンと引いて体全体。それから動画も撮った。ユックリと角度を変えて頭から首輪、前足、お腹から後ろ足、お尻の血が写らないように注意しながら撮る。それからちゃんと撮れてるか写真と動画を再生してみる。

 この犬の飼主は犬が行方不明になってからずっと心配しているに違いない。犬とはぐれた辺りで名前を呼びながら探し回り、内弁慶の怖がりだったから怯えてどっかに潜り込んでいないかと目につく隙間を覗いて回り、保健所に問い合わせ、特徴のよくわかる写真を選んで迷い犬のポスターを作ってるんじゃないだろうか。

 もし、この犬を探しているというポスターを見かけたら連絡してあげよう。もうすぐ居なくなってしまうこの犬の最期の姿を教えてあげよう。

 きっと飼い主は今頃、お腹を空かせてないか、怪我をしてないか、親切な人に保護されていれば良いんだけれどと思いながら「迷い犬保護しています」というポスターがないかと動物病院やスーパーのコミュニティボードを覗いて回っている。なぜしっかりとリードに繋いで置かなかったのかと自分を責めながら、写真を載せたビラを何枚もプリントして、道行く人にこの犬を知らないかと尋ねてまわっている。最初は犬を見失った街角から、段々と範囲を広げてマップで調べた動物病院やスーパーのコミュニティーボードにビラを貼らせて欲しいと頭を下げて回り、「よく似た犬を見かけましたよ」という電話がかかってこないか、メールが届いていないかと四六時中、携帯をチェックし、家に帰っても落ち着かず、きっと今この時も、お腹を空かせて頭を下げ、足を引きずりながら疲れ切った様子でこちらに向かって来る犬はいないかと、玄関先で()()(こう)()している。




























 (いえ)ならば (いも)()まかむ (くさ)(まくら) (たび)()やせる この旅人(たびと)あわれ

                       (三・四一五)


  家にいたなら、愛しい妻の(かいな)を枕にしているであろうに、草を

  枕に旅先で一人倒れ臥しておられるこの旅のお方は、ああいた

  わしい。












【解説】

 萬葉の時代、(みやこ)作りに借り出された多くの民(役民)が帰路の途中で食料が尽きて餓死するか、怪我や病気で亡くなったと『続日本紀』に書かれています。当時は道端に行き倒れの死体がゴロゴロしていたそうです。現代なら行き倒れになった人は警察が収容し、事件性がないと判断したら体格や持ち物、服装などを記録して無縁仏として荼毘に付すでしょう。

 しかしこの時代には一般庶民は葬式も行わず埋葬されることもありませんでした。芥川龍之介の『羅城門』などを読めばわかりますが、庶民の遺骸は道端や空き地に捨て置かれていたのです。『陸 去年見而之』の解説にも触れましたが人は死ぬと「死者の国」へ行くと古代日本人は考えていましたが、死者の魂は大切に扱わないと荒魂となって人に害をなすようになると信じていました。行き倒れのようにこの世に無念の想いを残した魂を放置しておくと悪霊となって祟るので、行き倒れの死者には鎮魂歌を捧げて無念の魂を慰め、旅の安全を祈願したそうです。

 ここで紹介した歌は(かみつ)(みやの)(しょう)(とこの)()()の作です。現代人には聖徳太子と言った方が分かりやすいでしょうか。聖徳太子は萬葉集初期の人で、この歌は挽歌の中でも最も古い物です。と言っても聖徳太子がこの歌を詠んだ訳ではなく、聖徳太子作の歌から派生したスピンオフ作品を聖徳太子作として萬葉集に載せたもののようです。

 最も古い作品ということで聖徳太子の歌を紹介しましたが、萬葉集では聖徳太子よりも柿本人麻呂の方が鎮魂歌作家としては有名でした。草壁皇子(『弍 河上乃』参照)を悼む歌を詠んだのも人麻呂でしたが、身分の高い人ばかりではなく名も無き人々へも挽歌を捧げました。例えば


 (くさ)(まくら) (たび)宿(やど)りに ()(つま)(くに)(わす)れたる (いえ)()たまくに

                       (三・四二六)

  くさを枕にこの旅先で、いったい誰の夫なのだろうか、故郷へ

  帰るのも忘れて臥せっているのは、妻はさぞ帰りを待っている

  ことであろう


という歌が萬葉集に収録されています。今回のお話はこの歌と讃岐の()(みね)(現在の香川県坂出市)の海岸で見かけた死者への鎮魂歌の後半部分


 (なみ)(おと)(しげ)(はま)()(しきたえ)(まくら)になして (あら)(とこ)に ころ()(きみ)

 が (いえ)()らば ()きても()げむ (つま)()らば ()()わましを (たま)

 (ほこ)(みち)だに()らず おほほしく ()ちか()うらむ はしき(つま)

 は

                       (二・二二〇)

  波の音のとどろく浜辺を枕にして人気のない岩床にただ一人臥

  している人がいるが、この人の家がわかれば行って知らせもし

  よう、妻が知ったら来て尋ねもしよう ここに来る道も分から

  ず心配しながら待ち焦がれていることだろう愛しい妻は


から想を得て作りました。




























玖 世間乎















 今週中に進路希望を書いて提出するようにと担任から言われた。親は当然、大学進学するものと思っている。でもオイラの成績で行ける大学なんて、探せばあるだろうけど、そんな大学出たとこで何になれるのか、時間と金の無駄じゃないかと思う。じゃあ大学行かずにどうするのかというと、特に何になりたいとかないんだよなぁ。何が好きかと言われたら吹奏楽部で楽器の練習するのが好きかも。子どもの頃にやりたいことは何と聞かれたら躊躇(ためら)わずマーチングバンドと答えただろう。

 あれは小学校五年生の頃、何かの記念行事で大通りをマーチングバンドが練り歩いた。バトントワラーを先頭にトランペットやらトロンボーンやら通り過ぎる楽器によって色んな音が混じり合い、それが一つのメロディになって、それがとても愉しくてワクワクしてその行列の前に行ったり後ろに行ったり走り回って聞いていた。

家に帰ってマーチングバンドをやりたいってオフクロに行ったら「中学の部活でやったら」と言われた。小学生向けのマーチングバンドは探せばあったかもしれないけど、ウチの親はンなもん最初っから探す気なんてなかったみたい。今なら分かるんだけど楽器演奏ってやったら滅多ら金がかかるんだよ。オイラの親父はただのサラリーマンだし、子どもの気まぐれにそんな大金を使う気は無かったんだろう。で、中学には吹奏楽部はあったけどマーチングバンドはなかった。でも楽器演奏が出来るんだから、迷わず吹奏楽部に入った。

 最初、先生からはビオラを薦められたけど、管楽器をやりたいって言ったら先生は人数だか楽器の数だかの関係でこれしかないと言ってスーザホンを渡された。それまでそんな楽器がある事すら知らなかったけれど、結構デカい楽器なので家に持ち帰る訳にもいかず、てか家には練習する場所もないので早朝から下校時間ギリギリまで学校に居座って練習した。最初は情けない音しか出なかったけれど、それなりにメロディが吹けるようになったら嬉しくて嬉しくて嬉しくて毎日ワクワクしながら練習した。部活にはちっちゃい頃から楽器をやってる連中がいて餅は餅屋っての? 蛇の道は蛇っての? バイオリンなら○○中の△△が頭一つ抜けてるみたいな今まで全然知らなかった情報を色々と教えてくれた。管楽器パートには小学生の頃からマーチングバンドをやってるヤツもいて、マーチングバンドに力を入れている高校なんかの情報はそいつらから仕入れた。

 その中でおいらの自宅から通えそうなのが今の学校だった。いや正直オイラ成績じゃかなりキツかったけど受験勉強頑張ってなんとかここに入った時はオフクロが泣いて喜んでなんでも好きなことやればいいと活動費がクソ高いマーチングバンドをやることも反対しなかった。まあ入学してからの成績は惨憺たるものだけど。

 中学んときから練習頑張ったおかげで一年坊主の時からレギュラーに入れたのは良いんだけれどマーチングって座って演奏するのと全然違う。ただ楽器鳴らしながら歩くだけなのに息が上がってまともに演奏出来ない。楽器の演奏練習だけじゃなくて基礎体力と肺活量上げるための地味な練習が加わった。しかも規則で赤点とったら部活停止になってしまう。ただでさえギリギリで入ったもんで頑張っても赤点スレスレの低空飛行なので気をぬくと一発停止になってしまう。なかなか厳しい三年間だったけど、でも辞めようと思ったことは一度もない。

本当は今の自分の実力に満足してる訳じゃない。もっと上手くなりたいとは思うんだけど、大学進学してマーチングやってる先輩と話していたら「高校のマーチングは教育の一環、大学は自己責任で」と言われた。大学でマーチングなんかしたら卒業出来る気がしない。てかそもそも入試に受かる気がしない。楽器演奏で推薦受けられるほど実力がある訳じゃない。ましてや音大なんて問題外だし。

 美術部のクラスメートが描いたデッサンが美術室に飾ってあって、素直に感心してたら「これぐらい大したことないよ。俺が行きたい美大にはこれくらいフツーに描ける奴らが全国から何百人もやって来る。そいつらの中に入ったら俺なんてホント平凡で目立たないドングリさ」と自嘲気味に言っていたけど、別に目指す大学行けなくてもこんだけ絵が描けたらデザイナーなりイラストレーターなり、なんか将来進む道がいっぱいありそうだよな。ぜんぜん違う仕事についても絵なら趣味で続けられそうだし。オイラの取り柄はスーザホン? プロのスーザホン奏者ってどれくらいの需要があるんだろう。ただの趣味でマーチングバンドなんて出来るわけないし、てかプロのマーチングバンドなんてあるんだろうか?

 なんか思い浮かぶのは自衛隊や消防隊のマーチングバンドくらいなんだけど、あれってどうすればなれるのかとネットで検索してみた。入隊方法やら隊員の日常生活やら訓練風景なんかを見てたら思わず笑っちまった。オイラ別に自衛官や消防士になりたい訳じゃないんだよな。

 でも、ホントどうすりゃいいんだろ。































 (よの)(なか)(なに)(たと)へん (あさ)(びら)()()にし(ふね)(あと)なきごとし

                      (三・三五一)


  世の中、これをいかなる物に譬えたらよいだろうか。それは、

  朝早く港を漕ぎ出て消え去って行った船の、その跡方が何も

  ないようなものなのだ。














【解説】

 この歌の作者は()()(まん)(ぜい)と言います。沙弥とは僧侶として最小限の資格である十戒を受けただけでそれ以上の段階に進んでいない男性のことです。元明天皇の病気平癒祈願のため出家して満誓を名乗ったそうで、俗姓は(かさ)(あそ)()()()と言います。

 この歌は唐の詩人、(そう)()(もん)の詩『江亭晩望』の中の一節「(ふね)()ギテ(なみ)(あと)()シ」から詠まれたもので、この無常観が日本人の感性にあったのか、その後の作品にも大いに影響を与えました。例えば鴨長明の『方丈記』に「もしあとの白波にこの身を寄する(あした)には、岡の屋(現在の京都府宇治市、宇治川の東岸)に行きかふ船をながめて、満沙弥が風情を盗み……」とあります。いや長明さん、この歌の結句は「あとの白波」とちゃう「(あと)なきごとし」やし、間違えてるし。ともかくこれ以降、この歌は「()(なか)を (なに)(たと)えむ (あさ)ぼらけ ()ぎゆく(ふね)の (あと)(しら)(なみ)」という形になっちゃったみたいです。


 実は萬葉集にはこの歌の前に「酒が美味いな楽しいな」みたいな歌が十三首並んでいて、これらの歌を受けたものと注にあります。だとするとこの歌の趣旨は「()な事パァッと忘れて飲もうぜぃ」というものになってしまいます。それでは身も蓋もないので、ならば元ネタになった漢詩はどういう内容なのかと『唐詩選』などを探してみましたが該当する詩が見当たりませんでした。駄作だったのでしょうか。試しにネットで検索してみたら中国語簡体字で日本語訳なしというのが一件ヒットしました。仕方がないので自力で翻訳してみましたがどうやら旅の詩、というか旅に託して人生を詠った詩のようです。直訳するのも堅苦しいのでだいたいの意味を書いておきます。


 あの雲を目指して荒野を進み

 故郷を遠く離れてしまった

 思い出を胸に刻み 後悔することなく

 柔軟な心を持ち 迷うことなく

 十分に堪能したがまだ終わらない

 馬とともに黄昏て行こう


(そう)()(もん)さんは、だいたいこういうことが言いたかったのだろうと私が勝手に決めました。と言うことで、人生という大海原に漕ぎ出すにあたり、目的地も分からず海図も航海技術もない、何者でもない自分と向き合い呆然とする高校三年生をイメージしてこのお話を書きました。


 余談ですが()()(まん)(ぜい)は、この時代の有力な豪族で歌人としても有名であった大伴旅人(家持の父)と交友があったようです。ある年の正月、旅人は自宅で山上憶良など一流の文人を招き宴会を開きました。蘭の香りが馥郁とするなか満開の梅の花を眺めているうち、誰が言い出したか梅を題材に歌を詠むことになりました。その時に詠まれた三十二首(五・八一五~八四六)が萬葉集に収録されていますが、その中に()()(まん)(ぜい)の名前もあります。彼は当時の一流文化人だったのでしょう。ちなみにこの三十二首の梅歌の序文に「(しょ)(しゅん)(れい)(げつ)にして、()()(かぜ)(やわら)ぐ」という一節がありますがこれが令和の元号の元になりました。


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