死に体の貴方
連載作品の予定です。
とりあえず短いので暇つぶしにでも、読んでくださると助かります。
人助け。いい言葉ですよね。
現在・僕
その夜は死体を見るには、月があまりにも輝いていた。そもそも月光がここまで明るくなければ、僕は路地裏に横たわっていた死体の存在に気付かなかっただろう。本来ならここは建物に囲まれていて闇に満ちている場所。いつもなら、ただの路地も見たくないものさえも、平等に不明瞭。バイトの帰りに、自宅への近道だという理由で日常的に通っているこの道。違和感が無かったと言えば嘘になるだろう。この細い路地の入口で鼻を突いた生臭い匂いはどこか鉄のような匂いを含んでいたことは少なからず感じていた。しかし、それがなんだというのだ。それが死体という非日常から発せられている悪臭だと予想できる人間が何人いるだろうか。どこかの誰かが生ごみを放置したのだろう、そんな予想は見事に裏切られた。「いや待てよ、死体というものは分別する際は生ごみでいいのか」そんなことを考えてしまうくらいには混乱していた。
彼の混乱を促したのは、死体の存在だけでは無く、死体のその在り方もであった。
死に方は数多くあれど、結局死体というものは二つに分類される。
死んだ体と、殺された体。
しかし彼の眼前に横たわるソレを前者なのか後者なのかを判断することは不可能だった。
なぜなら、既に生命というものが終わっている男は、自分の喉に、自分の手に持ったナイフを突き立てて死んでいたからだ。その上、ナイフを突き立てている腕は肩のあたりからブツリと切断されていて、その死体に片腕が欠けているとこに気付かなければ、殺人犯が喉を刺した後、トカゲが尻尾を自ら切り離すかのように、自分の腕を千切った様にも観察できなくもない。死体の周囲は喉と肩から出たであろう血に囲まれていた。血は既に凝固を始めており、赤黒く変色しているのが月光に照らされて不気味さを増している。
「はあっ、はあっ、はあっ」
荒くなる呼吸。僕はその無残な光景を目にして吐き気を抑えるので精一杯だった。自分が何故こんなものを見ているのか、何故こんなところにいるのか、この男はなぜここで死んでいるのか、いろいろなことが頭を駆け巡った。閑散とした路地は大通りから外れたところをさらに入り込んだところにあるため、他の通行人が現れなかったのは不幸中の幸いなのかもしれない。動揺した僕では犯人と間違われるのがオチだろう。犯人がいるかどうかは定かではないのだが、とにかく面倒に巻き込まれるのは嫌だった。見たくない、見てはいけないと頭では分かっているのに、目の前の奇怪な死体から目を逸らすことが出来なかった。赤と黒で構成されている死体の中でナイフだけが月光を白く反射している様は背筋を凍り付かせるには十分だった。目を逸らしたら今にもこの死体は動き出してこちらに襲い掛かってくるのではないかという錯覚さえ思わせる不気味さで口の中が乾いていく。三分程その場に立ち尽くして、やった呼吸が落ち着いてきた。頭はまだ混乱していたが、少しは理性が機能し始めた。警察に連絡しようとポケットから携帯を取り出し、警察って何番だっけなどと呟きながら番号を打ち込もうとした。その瞬間。
夜空の雲が月に被さり、路地から光が消え、暗黒に包まれた。これは比喩ではなく、その路地には街頭が無いため、月光を失った今、光源と言えば彼のスマホのディスプレイから漏れる微かな光だけだ。
「二人でもいいか」
その声は背後から。
突然に。
聞こえた。
発せられた声はとても小さく年齢や性別という情報を汲み取ることはできなかったし、内容は理解不能だったけれど、確かに聞こえた。振り向いてその声の正体を見なくてはいけないという衝動と、決して振り向いてはいけないという本能がせめぎ合う。そもそもこの暗闇では相手の姿を捉えることは叶わないだろう。
体が硬直してしまう。発信ボタンを押すだけのディスプレイに触れることすらできない。指一本動かしたら、自分がどうなるか予想がつかない僕では無かった。
しかし彼が動こうが静止しようが、正体不明の声の主にとってはどうでもよいことだった。
僕は理解した。目の前の死体は『殺された体』で、その犯人が今まさに後ろにいる、と。殺される。僕は今から殺される。その事実はとても現実離れした話のようで、どうしようもなく真実だった。混乱していた頭は、今では生存率を上げる為の策を探そうという意識に集中していた。今いる路地は一本道で、背後には殺人犯。であれば僕が助かるには今すぐ駆けだして逃げる以外にないと思った。
月はまだ闇に隠されたままだ。闇夜は世界を支配している。
硬直した心身に意思を注ぐ。強張った両足に力を入れる。例えるなら徒競走でスタートの合図のピストルを待つあの数秒、引き絞られた筋肉が、駆けるその一瞬を待つが如き緊張感。ただ徒競走と違うのは、競う相手が同級生なんてものではなく、人殺しで、誰も合図してはくれないということ。
逃げ出す隙を作らなくては、そう思った。
「これは、おまえが?」
背後の人物に問う。答えの分かりきった問いは、事実確認という意味は皆無で、隙を作るためだというのは明白であった。
「……」
相手は答えない。隙なんて一瞬も感じない。それではっきりした。隙を作れないのなら、ただひたすらに全速力で逃げるしかない。その結論が頭の中でピストルとなった。瞬間、右足で地面を蹴る。次に左足。そして右足。さっきまで震えんばかりに強張っていた両足は存外十全に機能した。運動は苦手な方ではない。殊、脚力に関してはそれなりに自信がある。振り向いて後ろを確かめることはしなかった。そんな余分な時間、一瞬だって不要だ。それに背後の気配は確実に遠のいている様に感じた、もしかしたら追ってきていないのかも知れない。この狭い一本道もあと十メートルほどで終わり、それなりに人気のある通りに出る。このままいけばなんとか助かる――
――はずだった。
皮膚が裂ける音が響いた。正確には無音に近かったが、首の皮を切られた自分は、体を伝いはっきりと、その死の合図を聴いた。
自分の喉から情けない声が漏れる。そこには何が起きたか分からないとでも言いたげな声色を含んでいた。しかし彼には自分の身に何が起きたか理解する必要は無かった。これから死ぬ人間が何かを理解してもその後に役立つことや、誰かに言って聞かせる機会というものは永遠に失われるからだ。彼に出来ることは突然突き付けられたナイフとそれに付随する死を受容することだけだ。
彼は自分の浅はかさを呪った。直前に見た死体の異様さ。それを感じ取ってもなお、殺人犯が常識で測れる程度のものだと思っていた。あんなに意味不明な殺し方ができる人間が、背中を見せて逃げる一般人の首を切るなど造作もないに決まっているじゃないか。
傷口から噴水のように血液が流れる。頸動脈を的確に切り裂かれたその首は既に真っ赤に染まっている。この出血量ではまず助からない。走馬燈は意外にも流れなかった。後悔や思い出というものが無いわけではないだろうに、僕って案外薄情なのかな、なんて的外れなことを考えていた。
しかし走馬燈が流れないというものは当たり前のことだった。走馬燈というものは死に瀕したものが生存策を己が経験の内に見出さんとして脳が働くことによって流れるものである。だから彼はそんなものは必要としなかった。死に瀕したが、死を受容しなかった。生存策なんて最初から一つしかなかった。
短いのでコメントも何もないと思うのですが、粗を探していただけると嬉しいです。