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記憶

殺されかけたっていうのが文学的な比喩表現であったなら俺にとってはよかったが、残念ながらそうはいかなかった。生死を彷徨う重症というべきかは捉え方の問題ではあるしまあそこまでというわけではないのだが、しかし俺は確かに中学三年生が始まったあの日の帰り道、なんやかんやあって彼女、京極アリスに殺されかけたのである。

カッターナイフだった。

何の脈絡もなくいきなり傷つけたと断定してしまうのもさすがに短絡的すぎる気がした、というのも俺が自爆スイッチを押したようなものだとも言えるだろうから。


しかし、とにかく新しいクラス分けの表の、見慣れた明朝フォントの羅列に上手く溶け込んでいたはずの

京極アリス

という名前は、あの高貴な雰囲気を思い出す引き金となった途端、ともすればあの表で一番目立つようになった。

そして、まるでパスワードのように。

或いは封印されたロックを解く錠のように。

芋づる式に、関連する数多の記憶が浮かんでくる。

できれば、というか絶対に思い出すまいと閉じ込めていた、思い出したくもなかった記憶が。

だから殺されかけた経緯を語る前に、まずは前日譚のようなものを挟まねばならない。



すべての始まりはちょうど5年前のことだった。

もしかするとそれは終わりだったのかもしれない。

或いはこういう時こそ「終わりの始まり」なんて洒落た厨二チックな言葉が相応しいのかもしれない。

とにかく、ある日の晩に仕事場である工場から帰宅した父親が、開口一番


「会社が倒産した」


と嘆息しながら呟いたことは、当時小学校に通っていた俺にとってどれほどシリアスなことか乏しい知識で量ることはできなくとも、なんとなくヤバいとは感じた。そのときの俺は「父さんの会社が倒産した」なんて駄洒落を面白がるような子供ではなかったし、背伸びをしていた、生意気な奴だったような気もする。そのときヤバい以上に何を感じ取ったのかまではうまく言葉に表せない。

自然とショックをうけて呆然としていたのかもしれない。

子供ながら。

11歳という少し知識が増えたもののまだ未熟と言わざるを得ない、俗にいう思春期になるかならないかくらいの年齢でありながら。

規模が小さいながらも工場長として夜遅くまで勤め、皆から慕われていた父の背中が、ともすれば俺の憧れであった父の背中が、このときばかりは小さく見えたのはどう誤魔化そうとしても誤魔化しきれない印象だったのだ。

ほどなくしてその工場は大企業・京極グループに買収されることになり、父含め全員がグループ直属の下請けの社員となった。しかし既にあの和気藹々としたムードは失われておりただ企業の駒として機械的に労働をするだけの「日常」がそこにあるのみ。

あと数日で小学六年生になろうとする春休みの出来事だった。


あのときも桜が咲いていた。なんの種類の桜なのかは見当すらつかない。

・・・否、そもそもあれは桜ではなかったのだろうか。

桜と桃と梅の区別すらまともにできない、というか花自体になんの興味も抱かなかった当時の自分が、通学路の街路樹に咲かせていた花を覚えているはずもない。

そう考えるのが自然だろう。

それに、あまりにも日常だった故に生活風景の一部として溶け込んだものにわざわざ目を向けることもあるはずがなかった。

だから、だからこそ、「しばらく家に帰らない」ということと簡単な別れの挨拶のようなものを書き連ねた父の置き手紙は非日常の宣告を突如として告げるものであったと言える。


「しばらく・・・?」


怒りというよりは憎しみというか、怨念のようなものをこの世に生を受けて以来初めて覚えた。

しばらく、だと?

子供ながらに悟った。これは二度と帰らない合図だと。

あの後どんな行動をとったのかを覚えていない。

それ以外の記憶は多少不鮮明なところを含みつつも辻褄を合わせるのに十分だったが。

あの後の俺の行動に限っては、シリーズ物の小説の途中にあるちょうど一巻分がすっかり抜け落ちたように、一つとして思い出せない。否、思い出すことを拒んでいる。

ちなみに母は俺を出産したと同時に亡くなっていた。

かくして俺は独りとなったのだった。

これが、俺という人間が小学六年生になって数日の出来事である。


紆余曲折あって母方の祖父母の家に身を預けることになり、それから数年経った中学3年生の春のことだった。やはりあのとき咲いていたのも桜だっただろう。

なんの種類の桜なのかは見当すらつかない。しかし、確かにあれは桜だった。

花をつけた桜はよく見るとあまりにも美しかった。


最高学年だ、受験がなんだだの意識を高めようとするありがちな始業式の後のありがちな新クラスでの激励話が終わり、クラスメイトの流れに従うように教室を出ようとした矢先、俺は担任に呼び止められた。


渡されたのはやや分厚い封筒だった。

その場で中を開ける。合格通知書だった。


書かれている表面を見ると・・・京ヶ丘学園。

そう書いてある。


「おめでとう。足利君。これにて一足先に受験終了だぁ。まぁ冬に部屋にこもって問題集にかじりつくようなあの受験前イヴェントをしないわけだけども、あれはやるもんじゃないよね。単純に辛い」

「何の冗談ですか」

「冗談? ははは、いやいや、正式な通知書だ。なんなら電話でもかけてみるが良いよ」


俺の困惑をよそに飄々と担任は語り続ける。


「京ヶ丘学園。あそこは良いよぉ。何かにおいてハイレヴェルな奴がうじゃうじゃいるんだもん。

そして君は話術に長けている。そこは僕も推薦できるからねぇ。あそこで十分やっていけるさ。じゃ、

所定の日までに手続きを・・・」

「ちょ、ちょちょっと待ってくださいよ、どういうことなんですか。出願すらしてないんですよ」

「・・・あぁ、ちょっと話が急すぎたね」


話が急すぎるのと、あと「ベ」をわざわざ「ヴェ」と発音することについて色々指摘したかったが、もっと根本的なことを問い詰める必要があった。


「話が急すぎるのもそうですし、あと『ベ』をわざわざ『ヴェ』と発音することについて色々指摘したいんですが、もっと根本的なことを問い詰める必要があるんです。」

「問い詰めるっていうとなんか怖いねぇ。どこまで情報を開示すりゃぁいいんだい? なんてね、ははは。あぁ、確かに急すぎた。それとバ行をヴァ行で発音するのは僕がそれでしっくりくるからなんだよ。それともあれかい、君はヴェネツィアをベネチアって言うタイプの人間なのかい?」

「場合によりけりですね。俺はベネチアって言いますけど、バルキリーに関してはヴァルキリー派です。で、そもそもなんでいきなり合格通知書が送られてくるんですか? トップクラスの超人ならまだしも、一介の中学生に送る義理があるのかが不明なんですが」

「ははは、もうちょっとプライドを持てよ。まぁタネを明かしてしまうと、確かに京ヶ丘学園には特待生制度や推薦なんてない。中等部で生徒を集めて高等部でさらに生徒を増やす、典型的な私立学校だ。だから君の場合は前代未聞の特例だねぇ」

「特例・・・?」

「あぁそうだ。だがあまり深入りするほどのことじゃないと割り切ったほうが良いぜ。この先は事情ってやつが絡んでんだ」

「差支えない範囲で教えてくれって頼んだら多分そこまででしょうね。でも俺はそこまで聞いてこの先を聞かないというのは、どうも腑に落ちない歯がゆい思いをする羽目になるんで嫌です」

「冗談抜きで後悔するとしても? パンドラの箱を開けちゃう感じかもしれないがそれでもいいのかい」

「誘導がうまいですね。完全に今から言う態勢を整えているじゃないですか」

「まあいつかは君に話す必要があったんからなぁ。通知書が来てしまったから尚更さ」

「そうですか。じゃあ、とっとと話してください」


「君の父はすでに死んでいる」

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