佐藤さん
佐藤さんの名前がほんとうは「佐藤」ではないと知ったとき、私は「だまされた」と思った。
たまたま立ち寄ったコンビニで、私は佐藤さんを見かけた。
店員の制服を着て、レジを打つ佐藤さん。私は蒸しパンを手に取って、レジへ行こうとした。
「矢島さん、ちょっと」
「あ、はい」
私は耳を疑った。
奥の店員は、明らかに「ヤジマ」と言った。そして佐藤さんは、「はい」と答えた。「佐藤です」とは言わなかった。
佐藤さんが「佐藤さん」ではないと知ったとき、私は、「あの人はほんとうにまじめそうで優しそうな顔をしていたけれど、なんという人たらしだったのだろう」と思った。
***
「藤さんっていうんだね」
「え、なんで……」
「名札」
「あ……」
佐藤さんと話をしたのは、二年前。私が中学の二年生だった春だ。
私は友達とケンカをした。私のちょっかいがきっかけだった。最初は一対一のケンカだったけれど、そのうち友達のほうに、クラスメイトたちが味方するようになって、嫌がらせを受けるようになっていった……靴を隠されたり、傘でつつかれたり、さりげなく雨水をかけられたり。
ある雨の日、そういった嫌がらせ……いじめを受けていた私をたまたま見かけて、声をかけてくれたのが、当時高校生だった佐藤さんだった。面識はなかったけれど、私は佐藤さんの優しさに甘えて、胸に抱えていたものを全部吐きだした。
佐藤さんはほんとうに親身になってくれて、何度か会って、話を聞いてくれた。そして、少しだったけれど、アドバイスもくれた。
あるとき、佐藤さんが私を誘った。
「藤さんの名前で思い出したんだ。ここから一駅の公園に、きれいな藤がある。見にいこう」
私たちは太鼓橋のうえから、藤棚の藤を眺めた。今でも覚えている……あのときの佐藤さんの表情、少しだけ赤い頬。どこまでも優しくて、穏やかで……。今思うと、ほんとうに赤くなっていたのは、私のほうだったかもしれない。あのときの佐藤さんの微笑みは、私の顔を見て思わず笑ったのかもしれない。
「小さい頃、藤棚の下に潜るのが好きだった」
佐藤さんは言った。
「藤棚の下って、見える景色が全然違うんだ。なんというか……藤の花に守られている感じかな」
「守られてる感じ、ですか」
「かくれんぼをするとき、俺はいつもあすこへ逃げ込んだ」
「守ってくれました?」
「はじめのうちはね。でも、そのうちいちばんに見つけられるようになった」
「ですよね」
「あの頃の俺は、友達にはただののんびりしているやつに見えていたのかもしれないけど、じつは相当、臆病だったんだ。もしかしたら、今もまだ、あすこにしゃがんでいるのかもしれない」
まるでもうひとりの自分が、今ながめている藤の下にいるかのように、佐藤さんは話した。
「『佐藤』って名前、『藤』を『佐』って書くんだ。だからほんとうは、俺は守られるんじゃなくて、守らなくちゃならない。……なんてのはこじつけだけどさ」
佐藤さんはこっちを向いて、少し照れくさそうな顔をして言った。
「藤さんのたすけに、少しでも……なれたらなって」
***
結局、佐藤さんは「佐藤」ではなかった。名札を見るとやっぱり、「矢島」と書かれていた。
藤に思い入れのあった矢島さんは、私の名前を知って、ふとした思いつきで「佐藤」を名乗ったのだろう。そして、そのロマンチックな思いつきをどうしても私に示したくなって、あすこへ私を誘ったのだろう。
あれを聞いた私は心強くなって、前向きになれた。根拠はないけれど、なにがあっても大丈夫だと思えるようになった。
そのうち、クラスメイトからの嫌がらせもなくなって、友達とも仲直りができた。お互いに謝りあって……みたいなことは覚えていないけれど、たぶん心のうちで両方ともずっと苦しんでいて、お互いにそれを感じ取って、なんとなく、もとの関係に戻っていけたのだと思う。佐藤さんの話も、たぶんしていない。
私は今、その友達に電話をかけていた。なんとなく、今日のできごと……佐藤さんが佐藤さんでなかったと知ったことを話したくなったからだ。