第29話『序章の結末へと至る道』
かつて、小学四年生と言う若さにして私は生きているという感覚を失った。
それはある種の鬱状態に近かったのかもしれない。
生きているという自覚がない。全ての事象に興味がない。私は常に、そんなつまらない色あせた現実に生きていた。
けれど、あの日を境に世界は色を手にした。
かつて失った世界の色を私は再び手に入れた。
私の心に、生きた心地というものが再び芽生えた。
それは佑也と光助君の会話を、あのやり取りを見てからだ。
あの日から止まっていたような錯覚を覚えた心臓はしっかりと動いていると実感できるようになったし、陳腐な街の姿が輝いて見えるようになった。
どうしてなのかはわからない。
私はそこまで出来上がった人間ではない。
もし、この変化が他人の不幸を…他人が傷つくのを見て得た変化ならば、私は本当に最低な人間だ。救いようのない人間以下の存在だとも言えるだろう。
考える限り、自分はそこまで落ちた人間というわけではない。
だから、きっと別の場所に変化の種は植えられているのだろう。
それは一体何なのだろうか。
どうして私の心に変化が生まれたのだろうか。
疑問は膨れるばかりで、一向に解が見つからないまま季節は死んでゆく。
春が死んだ。
梅雨が死んだ。
夏が来た。
夏は歳をとった。
そして文月の頃。
私は残った唯一の友人を失った。
夏休みを一週間後に控えてのことだった。
「ごめんねぇ」
優子は申し訳なさそうに言った。
学校からの帰り道での突然の謝罪だった。
何の脈絡もなく、意味合いの想像もできない。
だから、私は聞いた。
「急にどうしたの?」
すると、優子はいつもの調子で言った。
「今日は木曜日でしょ〜?」
「う、うん」
「私、明日の夜に引っ越すことになったんだぁ」
「……え?」
「場所は長野県なんだけどねぇ」
「…そ、それって」
「転校するってことになるよねぇ」
それは、あまりにも急すぎる話だった。
家庭の事情があるにせよ、こういう転校の話はもっと前もって学校やら周りの人間やらにするものではないのだろうか。
もしくは、今回の優子の引っ越しと転校は直前になるまで隠しておかなければならなかったという事だろうか。
「そんな…どうして」
「うん。ちょっとした事情があってね」
ビンゴだ。
優子もしくは家族に何かしらの人に言えないような事情があり、それが原因となって夜逃げ同然の引っ越しをするという事なのだろう。
「…そっか」
ただ、私には優子の家庭事情に踏み込む資格はない。いや、私に限った事ではなく、他人の事情に不必要に触れる権利など誰にもありはしない。
だから私は頷いた。そうなんだと言葉を零し、責める事などしないと静かに頷いた。
「桜花ちゃんは優しいねぇ」
そうして、嘘くさい笑顔のままで優子は言葉を吐き出した。
「私とは大違いだよ」
いつもの調子が剥がれたようなはっきりとした口調に、私は彼女の真髄を見た気がした。
結局、これ以上話をする事はなく私達は分かれ道で別れ、翌日も一言も話す事なく1日が終わった。
そして優子は去っていった。
私に何も詳しい事を語る事なく、思考のモヤモヤみたいなものだけを置き土産に彼女は私の前から姿を消した。
とうとう私の日常から味方の存在が消えた。
まさに四面楚歌だと言えるだろう。いや、正確にはその一歩手前だ。
唯一の友人が居なくなって常に一人でいるようになった私に、クラスメイトたちは、かつての私を知る人々は冷たく当たるようになった。
それでもあくまでそっけない態度を取られるというだけで、昔のように虐めの類のあれやこれやをされる事はなかった。私の体についている傷は私自身がつけたものだけだった。
こう…うまく言えないけれど、実に中途半端な展開だと思う。
本来たどり着くべき展開にはたどり着く事なく、その手前で足踏みをしている。
実に腹立たしい事だ。
小説でも稀に見る不必要な展開に私は居るのだ。
実に腹立たしい。イライラする。
どうして私はこんなにも煩わしい事象の中にいるのだ。
これまで願いを抱き、夢を孕み、叶えるために考えて考えて、私は歩き続けてきた。
毎日一歩ずつ、少しではあるが確かに進んでいた。
けれど進んでいたと言うのはあくまでも私が感じていた錯覚のようなもので、実際は不必要な道をただ作り続けていただけだった。
まっすぐに歩き、効率的に確実に終着にたどり着く事に執着していた私は、その意志のもとでしっかりと遠回りをしていた。
いっその事語ってしまうが、私はもう私がわからない。
自分が何をしたかったのか、自分が今どのような状況にいるのか、何一つとしてわかっていない。
だからそろそろ整理する必要があるだろう。
本来歩くべきだったまっすぐな道へと戻っていく必要があるだろう。
これまでは佐伯桜花と言う少女の物語の序章に過ぎなかった。
歩くべき道へと至るまでの不必要な物語に過ぎなかった。
本題はこれからなのだ。
私が抱いた夢を叶えるまでの純粋に語るべき物語はこれ以降なのだ。
だから、ここまでの私の語り愚痴は一言でまとめて捨ててしまおう。
私はただ、不幸とまでは言わないけれど報われない類の少女だった。
他人よりもちょっとだけ、感性がずれていてかわいそうな少女だった。
それだけだ。
一週間が経ち、至るは夏休み前日。大暑の頃。
運命はいつだって人間の意図しないタイミングで分岐点にたどり着く。
佐伯桜花の前に現れた二つの道。
はてさて、佐伯桜花が選び、歩を進めたのは正解なのか不正解なのか。天国なのか地獄なのか。
答えなど分かりきっている。
なにせ、私達は人間という生き物なのだから。