第26話『語り愚痴』
今回ちょっと短めです。
最近長めの話が多かったのでちょうどいいのではと思います流。
人間という生き物は、実に愚かで単純で弱い生き物だ。
その根拠は私自身。それ以外の根拠は必要無い。
人間というのは常に何かしらに悩み、苦しみながら生きている生き物で、彼ら彼女らが救われる日が来るのかと言われれば否だ。
優子の言葉通り、私は私、他人は他人だ。
誰一人として互いを理解できることなどなく、常に堕ち続けている。
いつか救われたい。
誰かに救って欲しい。
どうして自分ばかりこんなに苦しまなくちゃなら無いんだ。
どうして自分ばかりが不幸なんだ。
そうやってある種の洗脳に似た苦悩を繰り返すのが人間だ。
だからこそ、人間は単純で弱い。
差し伸べられることの無い救いの手を望む人間たちは偽物であろうと救いの手が差し伸べられると皆がわかりやすく反応してしまう。
やった。私は救われるんだ。
そう勘違いし、差し伸べられた手が幻影であることを気にすることもなく、その手を取ろうと手を伸ばしてしまう。
宗教なんかもそう言った弱さに付け込んだ物だと言えるだろう。
まぁ、今は宗教の話なんかは関係無いから話を戻す。
もう一度言うけれど、人間という物は実に弱い生き物だ。
弱くて弱くて救いようが無い。
さて、そんな弱い生き物である人間だけど、例えば偽物の救いの手を差し伸べられたとして、人間はどうなると思う?
そう。さっきも言った通り、人間は救いの手を差し伸べられたらたとえ偽物だとわかっていてもその手を取ろうと手を伸ばしてしまう物なのだ。
さらに問う。
じゃあ、差し伸べられた手に触れようと手を伸ばしたとして、その人間はそれからどんな顛末を辿る?
まぁ、わから無い人も多いだろう。
だって、私たち人間という生物は愚かで弱くて単純なのだから。
自分たちの性質に気づけ無いほどに愚かで弱くて単純なのだから。
だから、これから私が答え合せをしてあげよう。
差し伸べられた救いの手に手を伸ばし返してしまった私が、どんな顛末を辿ったのかを語り、救いを求めた愚かな人間がどんな結末を迎えるのかを示してあげよう。
今一度だけ言うが、この物語は佐伯桜花と言う一人の少女が願いを抱き、葛藤を繰り返した末に抱いた夢を叶えると言う無様で面白みの無い物語だ。
結論を先に語るのであれば最後の瞬間に待つのは救いであり、後悔でもある。
そして、さらなる渇望だ。
救われたいという醜悪なる渇望だ。
もしも今、かつての自分に一言だけ言の葉を紡ぎ、贈るのであれば、私はこう綴るだろう。
「いっその事、壊れてしまえば良かった」
そう語っていた少女は、最後の瞬間を迎えてもとうとう自分が壊れていることに気づけはしなかった。