第25話『反転の物語』
深淵を彷彿とさせる暗く黒い夜の闇。
全てを包み隠すようなそんな夜空の遥か遠くから、しんしんと雪が舞い降りてくる。
その様子は激しさなど微塵も感じさせず、ただ大粒の雪の粒が時が止まっているかのような錯覚を世界にばら撒く。
「いっその事、本当に時間が止まればいいのに」
降り、闇に飲まれた世界を白く染めようと闇に相対する雪。
家の縁側に腰をかけ、無様で面白味のないそんな風景をぼうっと眺めながら、少女は皮肉めいた笑みをその顔に浮かべる。
自分は何者にも成れないのだと、世界に爪痕を残すなど無理なのだと、そう悟った小学五年生の人生依存症が相対するのは生物と言う原子の集合結晶体が抱く根源的恐怖。無意識の感情。
つまりは死と言う避けようのない概念だ。
縁側に腰掛ける佐伯桜花は降る雪を眺めながら死ぬことの恐怖と相対していた。
他人から見れば何てことない独白だ。
深夜に変人が独白をしているだけのことだ。
「ねぇ。死ぬってのはどういうことだと思う?」
「それはね、佐伯桜花の人生を手放すことだと思う」
「じゃあ、それは怖いこと?」
「怖いことよ」
「どうして?」
「だって、人生を手放すってことは死ぬってことでしょ?」
「だめだ。それじゃあ話が回帰する。何も思考の解決になっていない」
「じゃあ別の方向へ話を拡張しよう」
「そうしよう。じゃあ、死ぬのはどうして怖い?」
「簡単な話。私が生きた証を自覚できないから」
「どうしてそれが怖いの?」
「怖いじゃない。積み上げたものが失われるのは。何かを残すことができると思って積み上げてきたものがどうなったのかわからないじゃない。それに、積み上げたものが意味をなさなかったらそれこそ私が生きた意味なんてなかったのだと自覚しなきゃならなくなる」
「もっと簡潔的に要点だけまとめよう」
「…私は、自分と言う人間が生きたことに意味が無いと言う結末を迎えるのが怖い」
「それだけ?」
「…あとは、自分の生きた意味が残らなかったのだと死んだ後に知ることができないのが怖い」
「さぁ、もっと妥協しよう」
「私は死ぬのが怖い」
「どうして?」
「死んだ後、自分が死んだのだとわからないから」
「うん。それは確かに怖いね。宣告義務みたいなのがあればいいのにね」
「それは無理。だって、人生は偶然出来上がった地球があってこそ成り立っているものなんだから、そんな偶然の成果物に宣告義務みたいな都合のいい機能は存在しないよ。何もかもが誰も予知せずして出来上がったただの偶然の終着点なんだから、そこに誰かが手を加えたものがひょっこりと姿を表すワケが無い」
「そうだね。そうだよね」
「全部全部、何もかもが偶然の折重なり積みかさなりで出来上がった世界である以上、神様なんていう都合のいい駒は存在しないと証明できているようなものだし、生まれ変わりも存在しないのだとわかりきっているものだ。…いや、違う。撤回撤回」
「生まれ変わりはあるもんね」
「うん。私には前の人生の記憶が有る」
「次の人生にも今の人生の記憶を残せるかな」
「それは…」
「‘諦めた’私には運次第としか答えようが無いわよね」
「ええ」
「じゃあ、私はこれからどうする?」
「どうするって?」
「死ぬのが怖くて怖くて仕方ないんでしょ?」
「うん」
「その恐怖から逃れたくて仕方ないんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、これから私はどうするの?」
「…」
「どうするのが正解なの?」
「……」
「どうするのが私の願いを叶えるに至る為に必要なの?」
「………」
「そもそも、今の私の願いは何? あなたがその慎ましやかな胸に抱いている夢はどんなもの?」
さぁ、語って。
自分で自分を鼓舞するように独白を続け、私は自分の意思確認の準備を整えた。
後は、私が願いを語り、自分を洗脳するだけ。
それが私にできる精一杯の抗い。
ふと、降り落ちてきた雪の粒を手のひらでそっと受け止めてみる。
36度5分の体温に、冷たい雪がぶつかり、溶ける。
形など残らず、それが雪であったことなど感じさせないとでも言うように、雪は液状に姿を捻じ曲げる。
きっと、私も死んだら‘こう’なる。
燃やされ、埋められ、忘れられ、土となり、佐伯桜花は知らぬうちに木々や花へと姿を変える。
花は誰かの死体に咲くと言うけれど、それはきっと死んだ誰かが花に姿を変えているだけ。
もっとロマンティックで普遍的な言の葉を使うなれば、死体は桜の木の養分となり、最終的には桜の木そのものとなる。
いずれ、私は死んだ後に長い年月をかけて忘れられ、桜の木へと姿を変えて花を咲かせる。
その姿を私は目にすることができない。
私は、自分が桜へと姿を変えたことを知ることができない。
すべての顛末を私は想像した。
今後有り得る私が迎えるであろう末路を。
私が触れることになる死を。
想像して想像して想像して想像して、私は身震いした。
やっぱり死ぬのは怖い。
そう改めて実感した。
私は死ぬのが怖くて怖くて怖くて怖くて、どうしようもなくそれから逃れたいと願っている。
なら、これが私の願いだろうか?
死にたく無いと言うのが私の願いだろうか。
…違う!
私の願いはもっともっと浅いものだ。
死にたく無いなんて無理なことは言わない。それは無理だとわかりきっているから。
だから、今の私の願いは死から逃げて手にも入らない不老不死を渇望することでは無い。
今の私の願いは…
死の恐怖から逃れることだ。
より理解されやすいように言うなれば、私の今の願いは死の恐怖を忘れることだ。
死ぬのが怖いなんてことはわかりきっている。それは根源的な生物の感情だから。
そして、その死から逃れられないこともわかりきっている。光が影を伴うように、生は死を伴うからだ。
なら、私がこれから先、縋ってしまって手放したく無い生を謳歌するには死の恐怖を忘れるしか無い。
死ぬことの恐怖から逃れるしかない。
じゃあ、一体どうするべきなのか。
私はこれから何を思い、何をするべきなのか。
どのようにして願いを叶えるのか。
夢を実現させるのか。
そんなことは決まりきっている。
世界を殺してやるとでも言わんばかりの不敵な笑みを浮かべたまま、私は手のひらに降りた雪の成れの果てを握る。
拳を握り締める。
ある種の宣誓だった。
不敵な笑みを伴いながら雪の静けさに紛れるように零した私の言葉はある種の宣誓だったのだ。
握りしめた拳が暖かい。
自分自身の体温だ。
私は今生きている。そう実感できた。
「絶対に忘れることは赦され無い」
と、自分に言い聞かせ、吐き溢す。
「私は、今すぐにでも死んでしまいたい」
独白を包み込んだ寒い冬の日は、
「絶対に死んでやる」
願いが反転した記念すべき最悪の記念日だ。




