第20話『日常へと溶けてゆく』
いよいよ退院の日となった。
荷物をまとめ、おばあちゃんが迎えに来るのを待つ間、私はここ最近で新たに増えた日課をこなすため、屋上へと向かった。
入院してから、私は二つの日課を得た。
一つは日記の真似事だ。黒いカバーの安物の手帳に、まがい物の日々ですら無いただの感情を書き記すだけの日記以下の日々の記録。
毎日抱く根源的欲求の独白。それによる恐怖の自覚。自覚による慣れ、陶酔。
この日課があるからこそ、私は私を見失わずにいられる。
まだ、私は生きているのだと実感することができる。
もう一つの日課は屋上のベンチに座り、普遍的で不変的な町並みを眺めることだ。
それ自体が生み出すものは無い。
強いて言うなれば意味の無い無駄な時間を生む。
理解してもらえないのならばそれはそれでいいが、この無駄な時の流れに身を委ねる行為は一種の鎮静剤だ。
欲求の独白によって荒んだ心を落ち着けるある種の麻酔。
サウナに入った後に水風呂に入るのと同じだと考えてもらえればいい。
その過程はあってもなくてもどっちでもよく、それこそ人それぞれ好きにすれば良いのだが、私にとっては必要だ。
サウナの後に水風呂に入ることは無いが、独白の後には無意味な時間に身を浸す。
今日も例外ではない。
私は、感情の静かで激しい吐露によって過剰稼働してしまった脳を休めるべく、おばあちゃんを待つ間に屋上へと向かったのだ。
最上階から屋上へと続く階段を慣れた足取りで登り、暗い照明の下でドアノブに手をかける。
錆びた扉の開く甲高い音が鳴り、日の光が差した。
少し、動揺した。
屋上に人がいたからだ。
世界にあって無いその屋上にいたのは私よりも少しばかり年が上に見える女の子だ。
女の子は屋上から退散するために扉に手をかけようとしていたようで、私を見て驚いた表情になっている。
これまで何度も屋上に来たが、他人に会ったのは初めてのことだった。
私は女の子に微笑みを作って会釈をし、気にしないようまっすぐにベンチへ向かった。
背から足音が遠ざかるのが聞こえ、次いで扉の閉まる思い音が聞こえた。
斯くして、私は世界から隔離された。
ベンチに座って街並みを眺めると、相変わらず平凡で不変的で、たくさんの人々が至る所で同じようなドラマを繰り広げていて、何度見てもつまらないものだと思った。
「まるで永遠みたい」
繰り返される退屈な事象の数々に感覚は鈍り、まるで永遠に繰り返されるフィクションの中に自分がいるのでは無いかという錯覚に陥った。
この場所でだけは根源的感情である死への恐怖を忘れることができる。
私が生きているのだということを忘れることができる。
生きることは苦痛である。
確かに楽しいことだとか嬉しいことだとかはあるが、そういったポジティブな感情があることでネガティブな感情が生まれてしまう。
幸せがあるから不幸が存在してしまう。
幸せを実感してしまうから不幸を実感してしまう。
生きている事実を認識してしまうからこそ、死が待っている事実を認識してしまう。
人生は表裏一体の生死で構成されている。
ああ。なんと腹立たしいことか。
私がフィクションの世界の人間であるのなら、永遠に繰り返される変化を偽装した変わらない世界で永遠に生に怯え続けることになる。そこに終わりはなく救いは無い。
もし、私がフィクションの世界の人間では無いのなら、避けようの無い死に怯えながら生きた心地のしない生を生きていることの証明として実感しなければならなくなる。そして、迫る死に怯えながらも最終的には救われない。
なんだ。結局の所、私はどちらにしても救われないのではないか。
何をどうあがいたところで、私は救われなどしないのでは無いか。
……やっぱり、私は世界に爪痕を残さなければならない。
このふざけた素晴らしい世界に生きた証を残さなければならない。
残酷な構造で作られている世界という概念の中で私が幸せになるにはそれしかない。
私の定める幸せの定義は死なないこと。生き続けることだ。
けれどそれは叶わない。
ならば、叶うように定義を解釈すればいい。
私の幸せは佐伯桜花と言う少女の人生を失わないことだ。
だから、私が救われるには爪を研ぎ、世界に致命傷を与える必要がある。
ハッピーエンドを迎えるために、目前に広がるこの普遍的で不変的な街で私は私を凶器にしなければならない。
私を強く世界に焼き付けるための狂気的な凶器にならなければならない。
けれど、そんな大層な夢やら目標やらを持っている佐伯桜花はつまらない日常へと戻っていく。
普遍的で不変的な日常へと溶けてゆく。




