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最後の夢  作者: 人生依存
斯くして少女は最後の夢を叶える
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第16話『3月17日:火曜日』



 私と優子、伽耶、それから杏の四人の関係はこれといって変化することはなかった。

 相変わらずグループで行動することがあれば四人で行動して、放課後には誰かしらの家に行って意味のない話をして、休みの日には気分次第で遊んだ。

 もうこれ以上は時間を無駄にできないのだと思いながらも、私は彼女たちと過ごす無駄な時間を確かに楽しんでいた。こういった日常も私は手放せないのだと実感していた。

 けれど、変わらないのは私たちの関係だけであって、個々はすでに変わりはじめていた。

 杏は言葉の棘が少しずつなくなっていってしまった。あの日、1月3日に私の家で色恋についての相談をしてきた杏にどんどんと寄っていった。時折、物憂ものうげに虚空を見つめてはため息をついたりなんかして、その頻度が増えるにつれて本も読まなくなっていった。

 一方の伽耶は変にこれまで通りでいようと心がけているようで、少しだけ杏と距離を置こうとしていた。仲良くなりすぎないよう、あくまでも友達同士の関係でいられるよう、杏に対して適度に棘を吐いて適度に嫌われようと心がけていた。

 優子はというと、人間的な変化はほとんどなかった。けれど、授業中や休み時間に不意に眠ることが多くなった。暇さえあれば寝るレベルで彼女は睡眠をとり、起きている時は虚空を見つめて時折何かを呟いていた。なんというか、私はそんな彼女の様子に親近感を抱いた。

 そうして変化と停滞を織り交ぜながらも日々は過ぎ、4年生も残すところ2日となった。

 3月17日火曜日。翌日の終了式を目前にしての卒業式の日。

 外は3日前に降り積もった雪が少しばかり残ってはいるものの、晴れた天気に梅の花や開花前の桜がよく映える卒業式日和だった。

 泣いたり笑ったりしながら3月9日を歌う卒業生たちを見て、私は嫌悪感を覚えた。小学校4年生の私は卒業式というものに触れ合うことが4度目ということになる。

 いつもいつも思うのだが、在校生と呼ばれる私たちが卒業式に参加する必要性はあるのだろうか。

 先生たちは私たちに「卒業生への感謝を伝えるため」だとかの綺麗事を言ってバカな小学生を‘それっぽく’納得させようとする。けれど、感謝も何も私たちはそれぞれが同じ学年だけで完結している以上、そもそも感謝の念を抱くことなどあるはずがない。だから、卒業式に私たち在校生が参加する理由などはない。

 なのに私たちがこうやって卒業式に参加しているのは、きっと皆が皆、潜在的に私と同じ欲望を持っているからに違いない。

 私は死ぬのが怖い。その恐怖から逃れるためにも、確実に生まれ変わらなくてはならない。それも、生まれ変わった後に私の生まれ変わりなのだと気づけなければならない。その際に必要になるのは世界に刻み込まれた私の情報であり、私は生まれ変わりを成功させるためにも世界に私の情報を刻み込み、刷り込まなければならない。

 きっと、人間はみんな、私と同じ欲望を持っている。

 自身の生きた証を残さなければならないという強迫観念に襲われている。

 だからこそ、互いに互いの存在を刷り込むために卒業式なんていう茶番があり、そこに卒業しない在校生たちが強制参加させられるのだ。そうに違いない。もし違うのだというのなら、私はつまらない茶番に貴重な時間を削り取られていることになるわけで、それはとても不本意なことであるのだから私はとても耐えられそうになくなる。

 けれど、私も小学4年生とはいえ自分に都合の良い解釈しか許せないという幼稚な思考を持っているわけではない。だから、卒業式に参加することに明確な意味などないのだと納得した上で、その無意味な時間に意味を見出そうとあれこれ考えた。そうすることであくびが出るようなつまらない時間をやり過ごした。

 

 きっと、人間はみんな夢見がちな生き物なのだ。だからこんな卒業式なんていう行事があるわけだし、関係のない在校生がそれに巻き込まれる。

 きっと、人間は誰しもが自分を特別ではないと思いたくはないのだと潜在的に感じている。だからこそ、人生にドラマティックを求めてつまらない人生を何かしらの色で着色したくなるのだ。

 きっと、人間はみんな意味もないことに感動したり怒ったりすることに情緒を楽しみたい生き物なのだ。だからこそ、意味もないことを真面目に当然のように執り行ってその事実に浪漫を感じようとするのだろう。

 きっと。

 きっと。

 きっと。


 きっと。


 

 そうこう考えているうちに、「在校生起立」という言葉が聞こえてきた。私の嫌いな在校生からの歌のプレゼントの時間だ。

 他の生徒に紛れて私は立ち上がる。

 この場では、私は世界の奔流ほんりゅうに飲まれる名も知れない一つの物体でしかない。

 佐伯桜花は世界に刻み込まれていない。

 考えただけで吐き気がした。

 周りを見回せば皆が皆、卒業式という無意味な宗教紛いの行為に感化され、涙する者もいれば嬉しそうに笑う者もいた。彼ら彼女らの心意など私は知らない。けれど、皆が自身の存在意義を考えずにのうのうと生を無駄にしていることは確かだった。 

 私はこの瞬間、確かにのうのうと生を無駄にしている雑多に埋もれ、染まっていた。

 きっと、このままでは私は一生かかっても世界に爪痕など残すことができない。

 聞けば聞くほど意味合いの薄さを実感せずにはいられない卒業ソングを歌いながら、私は自分が置かれている状況への吐き気が増していった。

 自分が歌っている卒業ソングの曲名は忘れてしまった。私は興味がない物事は覚えないタイプの人間だ。無駄なことに脳のリソースなど割いてはいられない。

 しばらくして、私は自分がしっかりと合唱ソングを歌っているにもかかわらず歌詞を何一つとして覚えていないことに気がついた。そうなるともう悪循環だ。私は今までどうやって歌っていたのだろうという思考から始まり、再び記憶器官の所在について考え始めてしまった。

 時間が経つほど私の思考はどんどん私の理解を離れて行き、頭は常に動いて何かを考えているにもかかわらず私はそれを何一つとして理解できなかった。

 考え、理解が及ぶ前に産物を捨て去り、再び考え、再び理解が追いつく前に思考の産物を捨て去り、再び考え、捨て、考え、捨て、考え、捨て。

 脳が、私の管理を振り切って過剰に働いた。

 結果、私の脳はパンクした。


 こうして、小学校4年生の私、佐伯桜花は他人の思い出作りの卒業式の最中、突然倒れた。

 私が目覚めたのは翌日の昼ごろ、病院のベッドの上でのことだった。

 起き上がろうとすると頭痛がして、視界が揺れた。そんな不快な感覚に押さえつけられるように、私はベッドから起き上がることができなかった。

 私が目覚めた病室は相部屋ではなく個別部屋だった。目覚めた私の揺れる視界には慌ててナースコールのボタンを押すおばあちゃんが映って、見慣れた姿に安心した私はそのまま再び眠りについた。

 結局、私がちゃんと目覚めて起き上がることができたのは3月23日の朝のことだった。

 覚醒する私を待っていたのは疲れ切ったおばあちゃんと真面目そうな若い医者だった。


 この日から、私は3週間にわたって入院することになった。

 どれだけ聞いても、入院の理由は教えてもらえなかった。

 


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