第13話『1月3日:木曜日』
おばあちゃんが出かけて行った後、時間は午後の2時過ぎ頃だっただろうか。
焦りを表すかのようにインターホンが連続で押された。
寝起きで重い体を持ち上げて玄関に向かい引き戸を開けると、そこには泣きじゃくる杏の姿があった。
初めての出来事で私は困惑した。
岸杏とは4年生になって初めて知り合った。優子や伽耶ももちろん同じなのだが、二人への第一印象と比べて杏への第一印象はいいものではなかった。
「岸杏。よろしく」
学年始めにあった自己紹介の時間での杏の自己紹介だ。
瞼は半分ほど降ろされていて、眠気に負けそうになっている印象を受けた。何だか眠そうな少女だなと思った。けれど、その解釈が間違いなのだとすぐにわかった。
彼女はどこか別の場所を見ていた。彼女は私たちに自分の名を語りながら、半眼の中のその目で虚空を見つめていた。
そこには何かがあるわけでもなく、彼女にだけ特別な何かが見えるわけでもない。
つまりは上の空だったのだ。
彼女はクラスメイトに自分の名を紹介しながら、彼女自身クラスメイトに興味など持っていなかったのだ。
きっと、他の皆は彼女が眠そうにしているという解釈で止まってしまっていただろう。
けれど私は違った。彼女の抱える虚無に気づいてしまった。その虚無の正体にこそ気付けはしなかったものの、彼女が確かに何かを抱えていることに気がついた。
だからなのかは分からない。
私は彼女が苦手だと感じた。
理由の分からない嫌悪感と拒否衝動が湧き上がってきて、上辺を作る上でも彼女とは関わらないようにしようと決心した。
杏に対する私の印象が変わったのは夏休み明けの9月半ばに家庭科の授業で蒲公英コーヒーと団栗クッキーを作った時のことだった。その頃には私はすでに伽耶と優子と仲良くなっていて一緒に行動することが多かった。
正直に言えば伽耶と優子とも私は仲良くなれるとは思っていなかった。なにせ、彼女たちと話すようになったのは私が荒んでいる時期で、言ってしまえばかなり乱暴な扱いを……いや、雑な扱いを彼女たちにしてしまった。
話しかけられれば鬱陶しいと感じているのだとアピールしながら返答した。けれど、そんな私の態度を彼女たちは気に入ったようで、突きはなそうとすればするほど彼女たちは私に歩み寄ってきた。だから私も観念して彼女たちに歩み寄ることにしたのだ。
「4人グループを作ってください」
そんないつも通りの先生の言葉で、私と伽耶、優子は集まった。
「あと一人どうする?」
「別に誰でもいいよぉ」
伽耶と優子が二人で話している中、私は一人のクラスメイトが私たちを見ていることに気がついた。そのクラスメイト杏だった。
目が合ってしまい、私は思わず目を逸らしてしまった。
彼女が苦手なのだから仕方がない。私のとっさの行動は責められるようなものではない。
そうやって自分を正当化し、伽耶と優子の会話に入ろうとした時、杏に声をかけられた。
「余ったんだけど空いてるか?」
その口調は男の子みたいで、私は少し驚いた。
なんだかんだ、彼女の対話としての声を聞いたのは初めてのことだった。
杏をグループに入れたところでグループ分けは終了し、授業の本題が始まった。彼女の言葉通り、彼女はクラスで余りものになっていた。
私が彼女の認識を改めたのはこの後だった。
先生の説明が下手というわけではないのだけれど、私たちは小学生で普段料理というものをしない。料理と呼ぶほどの作業ではなかったのだけれど、それでもやっぱり私たちにとっては難しい作業でなかなかうまく進めていくことができなかった。
私たちがどうしようかと困っていると、それまでずっと静かだった杏がため息をついた。
「貸せ」
そういって私たちからレシピを受け取ると、杏は手際よく蒲公英の根の下処理を済ませた。そこからは早かった。
杏の指示に従って私たちがそれぞれ団栗をすりつぶしたり蒲公英の根を煮たりして、あっという間にクッキーとコーヒーが出来上がった。
「凄いねあん…岸さん。普段こういうの作ってるの?」
出来上がったクッキーとコーヒーを味わいながら、私は杏に聞いた。
「杏でいい。別に、たまたま本で読んだことがあっただけだ」
この言葉で、彼女は私と同類なのだと気がついた。
現実から逃げて創作の世界に入り浸っているのだと気がついた。
同族嫌悪という言葉がある。人は同じ性質を持つ人間を嫌う傾向にあるのだ。私が彼女に対して苦手意識を抱いていたのは私と彼女が同じ性質を持っていることが理由だった。
その事実がわかったからこそ、私は彼女に好感を持てるようになった。
彼女なら私を理解できるはずだ。
そう思い、私は彼女に歩み寄った。
あれからもう三ヶ月が経ったのだけれど、その間、杏が弱さをさらけ出すことは一度もなかった。
まぁ、優子や伽耶と比べて杏とは少しだけ距離があったのは事実だ。
だとしても、彼女がここまで現実に自分という人間を見せてきたのは初めてのことだった。
私は動揺しながらも彼女を家にあげた。
自室に案内しても良かったけれど、彼女に対してのアプローチというか対応はそうではないような気がして、私は彼女を客間へ案内した。
泣きじゃくる杏に「どうしたの?」と聞くと、杏はゆっくりと口を開いて言葉を紡いだ。
「あのね。聞いて欲しいの」
その言葉遣いはいつものように気が強いものではなく、年相応の、いや、もしかしたら実年齢よりも幼い少女のものだった。
弱さに満ちた杏の声は涙の理由を語った。
「もし、好きな人が自分に恋人を紹介してきたらどうする?」
その言葉で私は失望した。彼女は自分とは違うのだとはっきり認識してしまった。
彼女は私の写し鏡には成り得なかった。
岸杏は現実に嫌悪感を抱いて空想の世界に逃げ込むような女の子ではなく、色恋による感情の変遷に当てられて上の空になっているだけの弱々しい女の子だった。
杏の話をひとしきり聞き終えると、私は彼女に笑顔を向けた。
「私だったら落ち込むかな。だから杏は間違ってないよ」
そうやって杏の見方をするような甘い言葉をかけ、私はひたすら笑顔を作った。私という人間ではなく、佐伯桜花という殻を作った。ただ、杏が泣き止むまでそうした。
杏が帰った後、私は感情の整理をしようと本を読んだ。
けれど、乱れていると思った私の感情は案外平常通りで、わざわざ整理するような必要はなかった。
もう、私と杏の関係は変わってしまう。そう思うと少しばかり残念な気持ちになった。
幸せになって欲しいと思っていた物語の登場人物が不幸になってしまった時と全く同じ感覚だった。
少しばかり喉の奥の方が酸っぱかった。




