第6話【明けぬ夜に日を望む⑥】
久しぶりに頭が冴えていた。
冴えていたと言うのは考えがうまくいくとかそういうものではない。ただ、頭の中が冴えていたと言うだけだ。
何が違うのかと聞かれたらうまく答えられない。けれど、私は久しぶりに頭の中にいつも巣食っていた靄のようなものが無くなっていることを実感した。
瞼を下ろすと彼女が現れた。
「あら。なんだか晴れ晴れとした顔をしているね」
「そんなことない。私はいつも通りの顔をしているだけ」
「いいえ。それこそそんなことはないね。だってあなた、まるで今までは脳髄を誰かにぐちゃぐちゃってかき乱されたみたいな不快感を感じていますって顔をしていたのに、今はそれが無くなったって顔をしているもの」
「あなたは例えがわかりづらいね」
「それは君の例えがわかりづらいって言っているようなものだけれど、そのあたりは理解しているの?」
「もちろん理解しているよ。あなたは私だもの。でも、私はあなたではないわ」
「ああそう。そんなことに興味はないよ」
呆れたように笑いながら、彼女はしっしっと虚空を払う仕草をした。
まるで私がしつこく話しかけているみたいだなと思って少しだけムッとしたけれど、私は気にせず彼女との会話を切り上げた。
瞼を開けると見慣れた天井が見えた。私の部屋の天井だ。
小学校6年性の夏休み2日目のこと。私は死のうと決意した。
何度でも言うが、これは佐伯桜花と言う一輪の花が花弁を散らして逝く物語だ。そこには後悔の念などなく、ただ目的を果たしたという充実感だけがあった。
だからとりあえずは、私の頭から死の恐怖が完全に消えていったこの瞬間までのお話をするとしよう。そこが一区切りだ。
あかねと佑也が新しい標的を取り囲んで暴行を加えていたのを目撃した日から早いものでもう一月が経った。
あと1週間もすればテレビでクリスマスの話題が取り上げられ始めることだろう。どうせそれに伴って学校の教室も煩くなっていくのだろうと考えると、今から少しばかり憂鬱だった。
私はというと、あの日から少しずつ普通の女の子のような生活を送れるようになっていった。
「はい。それじゃあまずはペアを作ってください」
図画工作の時間が始まってすぐに河村先生はそういった。
ずっと疑問に思っていたけれど、テレビとかで見る小学生や中学生は授業によって先生が違うのに、私たちはすべての授業を担任の先生が担当しているのは一体どうしてだろう。
こうやってどうでもいい疑問に悩まされるのは案外心地がいいものだった。だって、私を苦しめる死の恐怖について考えなくて済むのだ。常に感じる恐怖と言うものが薄れる時間を心地のいい時間と呼ばずしてなんと呼ぶべきか。
いつものように思考回路を必要のない物事に使っていると、教室のあちらこちらからガタガタと椅子を引く音が聞こえてきた。ペアを組めと言う指示に従って皆が動き出したようだった
私はどうしようかなと思いながらとりあえず周りに倣って席をたつと後ろから声をかけられた。
「桜花ちゃん。私とペア組もうよぉ」
その声は聞き慣れた声の一つだった。
最近私は友達と言えるような関係の人間が3人ほどできた。そのうちの一人が今声をかけてきてくれた清水優子だ。
優子はなんというか、声が他の子に比べて高めで、そのくせして声に丸みがあるせいで話し方に独特のクセがある。クセというのは少しばかりねちっこい話し方をしてしまうと言えばいいのか、言葉の最後の一時の母音を伸ばしてしまうと言えばいいのかはわからないが、俗に言うぶりっ子的な話し方をしてしまうのだ。
彼女は別にわざとそれをやっているというわけではない。本当に無意識で、普通に話しているつもりでそんな話し方になってしまっている。そのせいか、周りの人間をイラつかせて嫌悪の感情を向けられてしまうことが多々有る。
けれど、私はそんなことで彼女を嫌うということはなかった。
私は来るもの拒まず去るもの追わず主義で生きると決めたのだ。私を好いてくれる彼女を嫌う理由などなかった。
いつものように笑顔を作り、私は優子の誘いに答えた
「いいよ。一緒にやろう」
まだなんの指示も出ていないのに何を一緒にやるのだと自分で思ったけれど、そんな点を優子は気にする様子はない。当たり前だ、会話の流れとしては別におかしい点はない。ただ私が考えすぎてしまうだけだ。
私と優子は教室の端の席二つを陣取って机をくっつけた。
とりあえずクラスメイト全員がペアを作り終えるのを待とうというのが河村先生の考えで、私たちはその時間を偶然もらえたラッキーな自由時間と考えて先生にその時間が無駄だと主張するようなことはしなかった。
「ねぇねぇ。もう直ぐクリスマスだねぇ」
「そうね」
「桜花ちゃんはさ、サンタさんに何をお願いするか決めてあるぅ?」
「私はずっと同じものしかお願いしていないわよ」
「同じものぉ?」
優子は話の続きを促すように首を傾げた。
「うん。私はこれまでずっと、サンタさんに私の知らない本が欲しいってお願いしてきたの」
何それつまんないと優子はほおを膨らませてみせた。その様子を見て私は少しだけ温かい感情がこみ上げてきた。なんだか、自分がこんな生活を送れるとは思って見なかったなとか柄にもないことを考えてしまって、私は少しだけ恥ずかしくなった。
だから「つまらないけどさ、こういうお願いの仕方って結構素敵じゃない?」と優子にいって私は恥ずかしさを誤魔化した。優子は私の言葉を聞き、「確かにぃ」といった。
「今年も同じ風にお願いするのぉ?」
「うーん。今の所はそのつもりだけれど、もしかしたら今年は別のものをお願いしちゃうかもしれない」
「別のものぉ?」
「うん」
「何をお願いするの?」
なんだか新鮮だと言いながら、優子は私にグイッと迫ってきた。
「それは……内緒だよ」
「えーっ」
つまんないなぁと、優子は再び頬を膨らませた。
その様子を見て少しだけ胸が痛んだけれど、やっぱり言うことはできない。言えるはずがない。
だって、私が今一番欲しいものは絶対に手に入らないものだから。
それを口にしてしまったら優子は絶対に困ってしまう。彼女は名前の通りに優しい子だから、私に何か代替物をプレゼントして私の欲求を少しでも満たそうとしてしまう。そんな迷惑はかけられない。
この願いは誰にもいってはいけない。
もう一度、大好きなお父さんとお母さんに会いたいだなんて、そんな願いは絶対に口にしてはいけない。二人とのなんでもない時間が欲しいなんて、絶対に誰にも教えてはいけない。
私は、本当の自分を殺すかのようにより一層笑顔をわざとらしくした。
そうやって私と優子が歓談していると、これまた聞き慣れた声に話しかけられた。
「あ〜ん。やっぱり優子に桜花を取られていた〜」
頭を抱えて左右にぐねぐねと体を揺らしながら、大切な友達の一人である寝癖が特徴的な少女の伊藤伽耶は悔しさをわかりやすく表現して見せた。
そんな伽耶の頭をポンっと優しく叩きながら、もう一人の大切な友達である眼鏡の少女、岸杏が「うるさい。黙れ」と言った。
「あんちゃんは相変わらず口悪いねぇ」
「ねぇ〜。こいついつも私には厳しいんだよね〜」
「別にお前に厳しいわけじゃない。お前が馬鹿だから厳しくなるだけ」
「それ結局かやちゃんには厳しいよねぇ」
「ねぇ〜」
「…ハァ。もう二人とも静かにしろ」
3人がそうやっていつものように意味のない会話をしているのを見て、私は自分の胸の奥の方で温かい感情が大きく膨らんでいく感覚をまた感じた。
ほんの数ヶ月前までいじめられていたなんて自分でも嘘のように感じる。本当、人生っていうのは難しい。
もしお父さんとお母さんが生きていたのなら友人たちの話をしたかった。彼女たちはみんな私と違っていて、みんな面白い。彼女たちと過ごす時間は楽しくて、無意味だとしても有意義で、私は生きていることを痛いくらいに実感していると話をしたかった。
でも、それはもう叶わない。
胡散臭い神様なんていうものがもし存在するのなら、たった一度だけでいいから私からの言葉をお父さんとお母さんに伝えて欲しい。
「私は今、確かに幸せです」と。
10月17日投稿予定分です。
3日連続での更新になります。